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慰霊の旅に波立つ心 両陛下、あすサイパン訪問
サイパン島の旧日本軍指令部跡
サイパン戦で多くの日本人が「バンザイ」と叫びながら身を投げたバンザイクリフ=25日、サイパン島で
在留邦人の6割にあたる1万2千人、旧日本軍の9割以上にのぼる4万3千人……。太平洋戦争で日本軍が玉砕し、住民にもおびただしい犠牲者を出したサイパン島。天皇、皇后両陛下が27日からこの地を訪れる。慰霊を主な目的とした天皇の海外訪問は初めてのことだ。戦後60年。生き残った人々に、現地の人々に、様々な思いがよぎる。(龍沢正之)
●「昭和の時、望んだが」 捕虜になった男性ら複雑
島の最北端にあるバンザイクリフ。この絶壁から戦争中、多数の日本人が「バンザイ」と叫びながら飛び降りたといわれることから、戦後、そう呼ばれるようになった。
「良かった。ただ、もっと早く、昭和のうちに行ってほしかった」。真部栄一さん(66)=神奈川県相模原市=は、天皇訪問について、こう言った。
真部さんも、両親に抱きかかえられて身を投げるはずだった。
1944年6月、米国の空襲が始まり、中心部の町から避難。1カ月間、山中を逃げ回った。
5歳の時の記憶は、切れ切れだが、時に鮮明になる。
隠れていた洞穴が攻撃され、大半が死んだ。生き残った真部さん一家が、たどり着いたのがバンザイクリフだった。がけ下は大勢の遺体で埋まっていた。飛び降りる前に体を清めようと波打ち際におりたところで米軍の捕虜になった。
川崎初子さん(79)=沖縄県玉城村=も家族で山の中に逃げた。学校で「捕虜になるのは生き恥をさらすことだ」と教えられていたため、毒薬を携えていた。
壕(ごう)は人でいっぱいだった。壕の中で、「玉砕命令」を聞いた。はちまきを締め、参加しようとする川崎さんの手を母が離さなかった。翌日、捕虜となった子どもを抱く米兵を見て、投降した。生き別れた兄と弟の消息は分からない。
「お国のため、天皇陛下のために、という教育を受けていた」と川崎さんは言う。両陛下の訪問について「多くの人が亡くなったのだから、当然だと思います」と話す。
島民は沿道で日本の小旗を振って歓迎する予定だ。
訪問中は、日本政府の慰霊碑がある島北端は立ち入り禁止とされる見通しで、島内ツアーを変更した旅行会社もある。
一方、天皇訪問に複雑な表情をみせる人たちもいる。
サイパンには、現在約2500人の韓国系住民が暮らす。大戦中も朝鮮半島出身者が数千人いたというが、多くの住民が戦闘に巻き込まれて死亡した。
朝鮮半島出身者のための慰霊碑は、日本政府の慰霊碑から300メートルほどの場所にある。
「サイパン韓人会」のキム・スンベ会長(44)は、日本側に「我々の慰霊碑も訪れてほしい」と要望したが、実現の見通しはたっていない。
「天皇は第2次世界大戦で死んだ韓国・朝鮮人に謝罪しなければならない」。同会は先週、こう書かれた横断幕とプラカードを韓国人慰霊碑と韓人会事務所に張り出した。
しかし、自治政府から外すよう要請されて取り外した。
キム会長は言う。「天皇の慰霊の思いが我々にも伝わるようなものになってほしいと願っている」
●両陛下、戦没者へ深い思い
初めての海外への「慰霊の旅」が実現した背景には、両陛下の戦争犠牲者への深い思いがある。
「戦(いくさ)なき世を歩みきて思ひ出づかの難(かた)き日を生きし人々」。今年1月の歌会始で、天皇陛下は、戦争の苦難に思いをはせた歌を詠んだ。両陛下の慰霊の旅は、国内の戦災地から始まった。戦後50年を迎えた95年、被爆地の広島、長崎、地上戦で大勢の犠牲者が出た沖縄、大空襲のあった東京を訪れた。
この旅を終えた際、両陛下は「これからもこの戦いに連なるすべての死者の冥福を祈り、遺族の悲しみを忘れることなく、世界の平和を願い続けていきたい」との気持ちを表した。
外国で慰霊をするには、相手国が抵抗感をあまり持たずに受け入れるかが、かぎとなる。今回、日本側の打診に対して、米国政府、北マリアナ自治政府が好意的だったという。
宮内庁は今回の訪問について、外交とは切り離して「純粋に平和を祈っていただく」との立場を示している。大戦中、アジア・太平洋地域では多くの人々が犠牲となった。サイパンに続いて今後も海外への慰霊の旅が実現するかどうかは、不透明だ。
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◆キーワード
<戦時下のサイパン> 1914年、第1次世界大戦が始まると、日本はサイパンなどドイツ領の太平洋の島々を占領。大戦後、サイパンやパラオなどは日本の委任統治領となった。
サイパンでは製糖産業が成功し、日本から次々に移住した。移民は沖縄出身者が6〜7割を占めた。当時、民間人約2万人が住んでいた。
http://www.asahi.com/paper/national.html