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2005-06-06 13:56:38 Posted by kaisetsu
その後、旧満映日本人従業員は甘粕の用意した列車で帰国し、東映を作った。
テーマ:Remember History
http://kaisetsu.ameblo.jp/entry-bcf52a8dd138197683e8a5dac774463d.html
◆日本映画の一つの潮流の源泉が元憲兵大尉 甘粕氏に在ることは事実です。(ODA ウォッチャーズ)
満州映画協会理事 元憲兵大尉 甘粕正彦
1945/08/20http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/amakasu.html
大正12年9月1日、関東大震災の時、在日朝鮮人が混乱に乗して井戸に毒を入れるといったデマが広まり、数千人もの朝鮮人が虐殺された。混乱の中、社会主義者、無政府主義者も虐殺された。そして9月16日、無政府主義者で評論家の大杉栄は妻の伊藤野枝、甥の橘宗一(7歳)と共に捕縛され大手町にある東京憲兵隊本部へ連行された。3日後、同所の古井戸で3人の遺体が発見された。
甘粕正彦はこの事件の首謀者として逮捕、起訴された。甘粕は聴取に次のように述べた。「私が大杉栄を殺害しようと思いましたのは、憲兵分隊長としての職権でやろうとしたのではありません。一個人として国家のために殺害する必要があると信じましたからであります。故にその殺害は私自身の責任に受くべきものと覚悟いたしております。」 事件の2日前、警視庁警務部長の正力松太郎(後の読売新聞社主、読売巨人軍オーナー)は陸軍の某から大杉栄、吉野作造、他2名を混乱に乗じて殺害するとの話を聞いていた。、また、事件後、事件の中心人物と深い関わりをもっていたとされる右翼、権藤成卿は雑誌「改造」編集長の横関愛造にむかい甘粕事件について次のような言葉を投げかけている。
「あいつ(甘粕)も可哀想な奴だよ。軍人なんて、つまらん責任まで背負わされるからなぁ。」
裁判の最中、甘粕が7歳の子供を扼殺した審議で次のようなやりとりがあった。甘粕は少年に菓子を与えたと発言した。甘粕の弁護士は何故菓子を与えたのか尋ねた。「可哀想だから与えたのです。」 なぜこれから殺す子供に菓子を? 矛盾を感じた弁護人が詰め寄った。「この裁判は天皇陛下の御名において行うものでありますぞ!」 甘粕の顔が見る見るうちに青ざめていった。「あなたの母から真実を言うよう説諭してくれと私は頼まれた。あなたの部下をかばう衷情は諒とするが、天皇の名に於いて行われる法律の前に偽りを言わるるかどうか。一切の真実をここに暴露してほしい。」 甘粕は涙を流し始めた。甘粕は自分は子供を殺してはいない・・だが誰が殺したかは知らぬ、と言った。 甘粕は懲役10年の判決を受けるが、僅か2年半で出所した。出所後、獄中記を発表するが、その内容は憂国の確信犯として陸軍の英雄となった甘粕には似つかわしくない弱々しい文章だった。本の中には、まるで自分の本心を吐露するように、無実の囚人の挿話が示されていた。「思うことと行いは相反する。私はそのいい見本です。人生の半生を棒にふりました。」
その後、甘粕は陸軍の援助でフランスに赴いた後に、満州へ渡った。皇帝溥儀の警護を担当した後に歴史から一時姿を隠す。その間、関東軍の地下工作活動を担当していたらしい。
満州国成立後は制作立案を担当する協和会総務部長に就任した。そして1939年、甘粕は満州映画協会(満映)理事へ転身した。 満映は満鉄と満州国政府が共同出資して新京(長春)に作った映画会社である。中国語による映画をつくることを目的としていた。いくら五族協和を唱えようが実態は日本の会社。いくら高給をだそうが当時中国映画界の中心だった上海から人材が満州に集まることは無かった。
当初、満映のスタッフは全て日本人、しかも本国で喰い詰めた映画関係者や大陸浪人が殆どだった。したがって満人の心の琴線に触れるような映画など出来るはずがなかった。現地で中国人の俳優やスタッフを募り売れない映画が何本も作られた。しかし、満映は国策として赤字であろうと経営は維持されていた。
(省略)
20日、ソ連軍が新京市内に突入。甘粕は自害した。側近の赤川(赤川次郎の父)と内田吐夢(映画監督)が死を看取った。 その夜、甘粕の葬儀がおこなわれた。混乱の最中、中国・日本人が3000人も集まり、葬列の長さは1キロ以上あった。遺体は満映撮影所の中庭へ埋められた。 翌朝、側近の吉村宗吉が拳銃自殺をした。
その後、旧満映日本人従業員は甘粕の用意した列車で帰国し、東映を作った。
ソ連軍は満州撤収の際、映画機材の大半を略奪していったが中国人従業員の大半はその場を乗り切り、満映のセットは維持された。満映撮影所は長春電影制作廟と名を代えて今も使用されている。
昭和51年(1976年)8月、大杉栄の死から53年後。遺体解剖を担当した元軍医大尉田中隆一(故人)宅より大杉と伊藤の遺体鑑定書が発見された。遺体の所見として次のような記載がされていた。「男女二屍ノ前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナ外力(蹴ル、踏ミツケル)ニヨルモノナルコトハ明白」 大杉栄と伊藤野枝は一般に甘粕により扼殺されたと言われているが、集団リンチにより全身を踏み付けられ、最後にロープで首を絞め殺されたのが事実のようである。