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パラオ沖 旧日本軍の沈没艦遺骨調査
60年の歳月 収集阻む
戦時中、米軍の爆撃で太平洋・パラオ沖に沈没した旧日本海軍の特務艦「石廊(いろう)」の遺骨収集調査が先週行われたが、遺骨は発見できなかった。生存者の情報提供で十年ぶりに実現した海域での遺骨調査。だが、調査は戦後六十年を経て沈没艦船が朽ち果て、遺骨収集作業が難しくなっている現実を浮き彫りにした。戦争の傷跡は平和で美しい国の遺跡となりつつある。 (桑名通信局・西山和宏)
「(調査継続の)断念を含め、厳しい判断もあり得る」。海中調査の最終日、調査団長の柿原洋二・厚生労働省中国孤児等対策室長補佐は、険しい表情で四日間の調査を総括した。「爆発による残骸(ざんがい)と六十年間の堆積(たいせき)物は無視できない…」
調査は元機関兵の石川富松さん(87)=三重県桑名市=が厚労省に働きかけて実現した。
連合艦隊に燃料を供給した石廊(一五、四〇〇トン)は一九四四年三月、爆弾が機関室を直撃し、水深五〇メートルの海底に沈んだ。乗組員名簿は船とともに沈んだとされる。石川さんの記憶では約二百四十人が乗り、機関兵は約八十人が戦死したというが、厚労省は約二百二十人が乗り、機関兵の死者は三十一人とする。
厚労省は「戦没者は海で永眠する」との立場から遺骨収集に消極的だったが、石川さんは、記録の残らない艦内構造や、死者の位置などを克明に記した図面を提出。厚労省も、信頼できる情報と判断した。石廊周辺がダイビングスポットとなり、死者の尊厳が損なわれかねない現状も、調査に踏み切らせた。
石廊は船尾から沈んだ。船底調査は死者の大半が眠るとみられる最後尾を重視した。しかし、残骸をくぐり抜け、船底まで五メートルの地点に到達したダイバー(31)は「ヘドロ状の堆積物に手や足を入れても、奥が分からない」と説明。巻き上がる堆積物が視界を遮り、生命の危険も懸念される状況だという。
五十四隻が撃沈されたパラオでは、戦後、国内外のサルベージ会社が沈没船から真ちゅうや鉄を回収して再利用した。パラオで唯一、五七年に遺骨二百一柱が引き揚げられた工作船「明石」は船底を残すのみ。七隻から金属を回収した現地在住の林真男さん(76)は「多くの船に業者が群がった。調査着手は遅すぎた」と話す。
国は調査結果に基づく遺骨収集を今秋に予定していたが、実施は厳しい情勢だ。調査に同行した石川さんは「心残りはあるが、調査結果には満足している。国が来てくれたことで、みんなの魂を連れ帰れる」と気丈に話した。
厚労省は「他の船にも遺骨引き揚げの要請があるが、石川さんのような情報提供者が不可欠だ」とする。戦後六十年で生存者が少なくなった現状に加え、石廊の調査結果を考慮すると、海域の遺骨収集は、今回が最後となる可能性もありそうだ。
■住民の思いは複雑
パラオ共和国は約二百の小島からなる。一九二〇年に日本の委任統治領となったが、現在は米国との自由連合国で、国連にも加盟している。人口は約二万人。パラオには沈没艦船とともに戦車や戦闘機の残骸、軍司令部跡などもある。現地政府は文化財保護を強化しており「沈没艦船も歴史的財産」とし、石廊の遺骨収集には消極的だが、住民の思いはさまざまだ。
米軍の攻撃を逃れて旧日本兵と避難生活をしたマサイチ・エティテルグルさん(73)は「残せる物は残すべきだ」と訴える。戦後パラオに戻った旧日本兵の倉田洋二さん(78)は「朽ちるに任せる方がいい」と考えるが、「撤去してほしい」と言う住民もいる。
小学校教諭のビビアン・スムールさん(46)は「大切な遺物。若い人が見て、戦争の悲惨さを理解してほしい」と話す。
◇メモ <外地の遺骨収集>
陸上で1951年、海域は52年に着手。厚生労働省によると、陸上の戦没者210万人のうち、59%(124万柱)を収集したが、海域の30万人では0・6%(1907柱)にとどまる。沈没艦船2288隻は水深50メートル以上が79%を占め、収集は61隻のみ。陸上は今年も5カ所で実施するが、海域は95年のトラック諸島を最後に途絶えている。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20050614/mng_____kakushin000.shtml