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(回答先: 【論説】靖国神社は近代史の鏡 時局心話會代表 山本善心 投稿者 TORA 日時 2005 年 6 月 13 日 06:12:38)
発信:2005/06/13(月) 11:59:28
第2次世界大戦中、旧日本軍の兵士として召集された台湾の先住民族らによる部隊「高砂義勇隊」の遺族ら60人が13日、戦死した親族などが日本の靖国神社に合祀されていることに抗議するため、台湾を出発した。中国新聞社が伝えた。
一行を率いているのは先住民族出身の立法会議院(日本の国会議員に相当)である高金素梅氏。一行は「『高砂義勇隊』は日本人ではない」として、戦死者の靖国神社での合祀を取り止めることを求めるほか、日本政府に対して賠償と公開謝罪を求めるなどの抗議活動を行う計画だ。(編集担当:恩田有紀)
http://news.searchina.ne.jp/2005/0613/national_0613_003.shtml
靖国神社に合祀された台湾の戦死者遺族、賠償請求へ
2005年06月10日
台湾先住民出身の「立法委員」の高金素梅氏は8日の「立法院」の記者会見で、第2次対戦中に旧日本軍に徴募された「高砂義勇隊」の戦死者の遺族代表60人とともに訪日し、靖国神社に合祀された「高砂義勇隊」戦死者の位牌を同神社から除くよう日本側に求める考えを明らかにした。一行は13日、交渉のため日本・東京都の靖国神社と大阪高等裁判所を訪れるとともに、日本政府に賠償と謝罪を求める予定だ。「高砂義勇隊」は、第2次大戦中に徴募された台湾先住民の部隊で、戦死者は靖国神社に合祀されている。
台湾「中央社」の報道によると、高金氏は同記者会見で、「日本の靖国神社の関係者は以前、『(日本人)の神道の信仰に基づけば、高砂義勇隊の犠牲者はすでに神になっており、除名を決定できる人はいない』と述べた。しかし日本の迫害を受け尽くした台湾原住民は絶対に日本人ではない」と指摘。その上で「先住民の祖先の位牌が靖国神社に閉じ込められ、恨みを持つ魂になっている。これは民族の不幸だ。台湾の先住民は、行動によって祖先の霊魂を解放するために日本に向かう。先住民のしきたりによって先住民の祖先の霊魂を祭りたい」と語った。
http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200506100208.html
【ワヤクチャ】
TORAさん、こういう動きについてはどのように評価されているのでしょうか?
「靖国問題」高橋哲也(ちくま新書)の15ページに高金素梅(ガオチン・スーメイ)氏の話が載っております。
「無言的幽谷」という日本軍の侵略の模様を記録した写真集を編集した方です。
【無言的幽谷】
http://www.books.com.tw/exep/prod/booksfile.php?item=0010201233
【台湾の民族と国家――その歴史的考察】
http://www.wufi.org.tw/jpn/jng02.htm
【一部抜粋】
武力抗日運動は一九一五年まで二〇年もつづき、日本の官庁文書に基づく計算だけでも,三万人をくだらない台湾住民が命を失っている(30)。
【抜粋】
三、日本の台湾統治
日本の台湾統治を、第二次大戦後の台湾民族主義者、それに中華民国関係者はともにこれを異民族による侵略だと規定している。だが帝国主義時代にあった当時、戦勝国が敗戦国から領土の割譲を受けるのは「正当」だとみられており、しかも一九世紀末の台湾には台湾民族が形成されていたとはいえず、また漢民族主義そのものも台湾には存在していなかったのである。
この問題について、対日協力者の巨頭、辜顕栄はこう主張している。
「私は帝国領台以前に於ては素より清朝の民であつても官吏ではなかつた。然らば二心を抱いて節を変ずるの攻撃を私に向けるは不当であらう。特に私は清国に反いたのではない。清国皇帝が台湾を日本帝国に割譲せられたから正々堂々として日本帝国の臣民となつたのである。而して既に日本臣民となつたる以上は忠を日本帝国に尽し、且つ我が三百六十万の同胞を救ふは私の微衷である(28)。」
この見解はそれなりに理路整然としているが、漢民族主義者からは「漢奸」と罵られ、台湾民族主義者からは「台奸」だとされているかれのこの見解は、全く受け入れられていない。しかし、日本統治時代の著名な漢族系台湾人政治運動者である蔡培火が一九二八年に書いたつぎの見解は真実をついており、辜の主張は必ずしも的はずれではないことを示している。
「〔日本の台湾領有は〕、然し、単に日清両国間に於ける勢力争ひの結果に依つての変化、我々台湾民衆の脳裡には唯だ不思議な結果、不思議な運命としか印象がなかつたのだ。亡国とか屈辱とか、はたまた被征服とかの感じは、我々多数の台湾島民には毛頭もない。……我々には清朝は何ものぞ、日本は、また元より我々とは何等の恩怨もなかつた。……これを、朝鮮民族の日本に帰属した心情に比して、我々台湾の方は、日本に対し遥かに白紙的であつた(29)。」
割譲当時、蔡培火はせいぜい七歳で、分析能力があろうはずはなかったが、のちに優れた政治運動家になったかれの見解として、当時の状況をよくいいあてているように思われる。
(1) 武力抗日事件の意義
台湾における武力抗日運動の激しさは、台湾接収に赴いた日本軍の残虐な鎮圧と報復ぶりによって惹起された要素が大きい。武力抗日運動は一九一五年まで二〇年もつづき、日本の官庁文書に基づく計算だけでも,三万人をくだらない台湾住民が命を失っている(30)。当時の人口比率からみて、この数字は実に高い。これらの武力抗日事件のなかには、明白に台湾建国をめざしたのがいくつかある。そのうち、黄国鎮事件こ八九七年)、林杞埔事件(一九一二年)、土庫事件(一九一二年)、六甲事件(一九一四年)は、いずれも日本植民地当局の圧制への抵抗にたちあがったものであるとはいえ、首謀者が帝や
王を自称する個人英雄主義傾向の強いものであり、台湾人意識形成面での評価は高くない。これらに先立つ一八九六年の簡義、何鉄らによる鉄国山事件は、日本の台湾領有に伴う台湾攻防戦の余波ながら、規模は大きく、指導者を「総統」に推戴するなど、近代化の兆がみえる(31)。
一九一三年の関帝廟事件は「自由な台湾国」の建設を目的とし、同年の苗栗事件は辛亥革命の影響を受けた大陸の中国人が介在していたとはいえ、「共和制に基づく台湾国」の建設をめざしたものであった。一九一五年の西来庵事件は、「大明慈悲国」という国名の、仏道に基づく国を建設することにあり、首謀者は檄を飛ばし、全台湾人の決起を促してぃる。その同志は全島各地にまたがり、検挙者約二千をだした大規模なものであった(32)。台湾人意識がこの頃には明確になっていることをこれらの事件は示している。ナショナリズムが、同じ国のもとにありたい一群の人びとの願望と運動であるとすれば、台湾民主国から西来庵事件に至るこの二〇年間は、台湾ナショナリズム形成の胎動期であったといえよう。その形成要因は日本の台湾統治期間を通じて妥当するものであるので、あとで述べる。この時期の意識上の特徴は、「台湾人」としての共同意識であって、すべての他民族とを区別する、さらに強固な意識としての民族意識である「台湾民族意識」には至っていない。そもそも民族の概念が台湾に導入されたのは、大陸において辛亥革命が起こってからである。
【ワヤクチャ】
TORAさんも、台湾の人々が日本統治をありがたがったと単純に信じているだけではダメでしょう。色々な資料に当たらないとね。1人の親日派の発言だけを聞いていて歴史は分からんでしょう。買収されてるかも知れないのだからね。