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サハリン在留邦人 終わらぬ苦難
終戦時まで日本領土だったロシア・サハリン州(旧樺太)南部には「帰りたくても帰れなかった」約二百二十人の日本人が今も残っている。朝鮮人と結婚していた日本人女性は戦後の引き揚げ対象から外され、差別を避けるために、日本人であることを隠す苦境に身を置いた。戦後六十年、深い傷は癒えていない。 (藤原正樹)
五月十八日、サハリン在留邦人で一時帰国していた木村文子さん(71)=シャフチョルスク(旧塔路)在住=が、北海道函館市で叔母と五十七年ぶりに再会した。親族が判明したのは今年二月。肉親と生き別れになっていた木村さんは「会いたかった」と繰り返しながら叔母と抱き合った。
木村さんは一九三四年、函館市で生まれ、祖父と母親らとサハリンに渡った。母親は朝鮮人と再婚し、木村さんは十八歳で、朝鮮人の電気技師と結婚、三男一女をもうけた。母や義父、夫は他界し、叔母は四八年に日本へ引き揚げた後、音信不通になっていた。
■通知外されて… 存命者は約220人
終戦時、南サハリンと千島列島には、日本人が約四十万人、朝鮮人が約四万三千人いたとされる。四六年十二月、「ソ連地区引揚米ソ協定」が結ばれ、日本人の大半は帰国した。が、朝鮮人の妻や養子になっていて引き揚げ通知の対象から外され、「残留が確認された日本人は推計四百−五百人」(厚労省中国孤児等対策室)。うち七割が女性といわれる。残留邦人を支援するNPO法人「日本サハリン同胞交流協会」(東京都渋谷区)は、現在の在留邦人は「百人以上が亡くなり約二百二十人」という。
木村さんのように、韓国・朝鮮人と結婚した日本人女性は多い。樺太は終戦後の八月二十二日まで、旧ソ連軍との地上戦にさらされた。ソ連兵の性暴力を恐れ、韓国・朝鮮人との結婚を急いだ例もみられる。
永住帰国している須田百合子さん(69)=北海道江別市=は「終戦後、敗戦民族として自信を失った日本人より、朝鮮人の方が生活力があった。長女を年長の朝鮮人に嫁がせ、家族を養ってもらう日本人が多かった。生きていくためには、選択肢はなかった」と振り返る。終戦後、反日感情が高まり、残留邦人は激しい差別にさらされた。
須田さんは塔路で生まれた。朝鮮人夫妻に里子に出され、「金順愛(キムスウネ)」名で育てられた。十五歳で写真店を経営する十一歳年上の朝鮮人と結婚。「生粋の朝鮮人と結婚したと思っていた」夫が、須田さんの素性を知ってから激しい暴力が始まった。「『日本人妻で恥をかく』とむちゃくちゃな乱暴を受けた。翌年生まれた長男にも日本人の血が入っていると暴力を振るった」
ユジノサハリンスク(豊原)に今も残る加藤波子さん(75)は、七歳年上の朝鮮人に「結婚しなければ兄貴を殺す」と包丁を突きつけられ、十七歳で結婚したという。永住帰国している近藤孝子さん(73)=東京都三鷹市=は加藤さんと親交があった。「波子さんの夫は子どもにアイロンを押しつけて大やけどを負わせたあげく、売り飛ばしてしまった」と振り返る。
■身を守るために 日・韓・ロの名前
前出の須田さんには「金順愛」のほか「ソーニア」というロシア名がある。
近藤さんは「日本人の大半は日本人であることを隠し、韓国名などを名乗っていた。ロシア人と働く職場では、ロシア名愛称で呼ばれた。身を守り生活していくため、ほぼ全員に三つの名前があった」と話す。
二人の韓国人夫と死別した近藤さんは「『いつか日本に』との思いから、夫に改名を促されても日本名で通した。六人の子どもはよくいじめられた。だが、職場名は必要で『ターニャ』だった」。
「置き去り サハリン残留日本女性たちの六十年」の著者、吉武輝子さんは「子どもにさえ日本人であることを秘して生きてきた女性も少なくない。三つの名前が、サハリン残留女性の苦難と辛酸の道を象徴している」と話す。
サハリン在留邦人の戦後には、一時帰国が実現した九〇年まで四十五年の空白があった。一時帰国や永住帰国の実現に尽力してきたのは、八九年に設立された「日本サハリン同胞交流協会」(当時別名)だった。
当時「サハリンに残留邦人はいない」との姿勢だった厚生省(現厚生労働省)に、サハリン生まれの小川〓一(よういち)事務局長らが現地を回り「帰りたくても帰れなかった人ばかり」(須田さん)という現実を突きつけた。「助けてくれたのは国ではなかった」と近藤さん。
■一番弱い立場の邦人女性が辛酸
日本人妻への韓国・朝鮮人夫の暴力の背景には「日本政府への怨恨(えんこん)があった。一番弱い立場の日本人女性に過酷に作用した」と指摘するのは吉武さんだ。日韓併合後、財産を取り上げられた朝鮮人が樺太などへ流出。終戦前には、国民徴用令で“強制連行”された六万人の朝鮮人が炭坑などで過酷な労働に従事していたとされる。
吉武さんは「朝鮮人は、日本から創氏改名で日本人名を強要されたのに、終戦後は一転して『日本国籍がない』と引き揚げ対象から外された。韓国・朝鮮人の絶望感の深さを思うと震えがくる」と憤る。
日ソ停戦協定ができた四五年八月二十二日、サハリンからの緊急疎開船三隻が旧ソ連軍とされる潜水艦に撃沈され、約千七百人が死亡する惨事が起きている。
「樺太引揚三船遭難遺族会」の永谷保彦会長(77)は母親を亡くした。「補償金はいらない。ロシア政府から一言、謝罪の言葉がほしい。国に橋渡しを要望しているが馬耳東風。自国民に対してこんな冷淡な国はない」として「会員は高齢化しており、日本政府はわれわれが死ぬのを待っているとしか思えない」と言う。
実は、永住帰国者の大半が、サハリンに親族を残して帰国している。日本政府から国費支援が出るのは、残留邦人夫婦と同伴の子ども一世帯だけだからだ。永住帰国には、新たな離散家族をつくるというジレンマがある。一方、韓国の永住帰国者には「日本からの支援で、二年に一回、サハリンの親族に会いに行ける制度がある」(近藤さん)。
サハリン日本人会元会長の近藤さんは、厚労省中国孤児等対策室に、韓国と同じサハリン渡航支援を要望しているが「返事がない」。同省担当者は「要望書が出ているか不明。出ていたとしても『制度がない』と断っているのでは」と人ごとのように話した。
サハリンに残る加藤さんは、十人の子どもの中から日本に連れ帰る一家族を選べず、「子どもを投げて帰れない」とサハリンに骨を埋める覚悟だという。息子らと永住帰国した須田さんは苦しい胸中を語った。
「娘夫婦を連れて帰れなかった無念さは消えない。息子との永住帰国を決めた時、娘に言えなかった。サハリンに残っても地獄、日本に帰ってきても地獄。心の傷口はいつまでたっても癒えることはない」
(〓は山へんに央)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050606/mng_____tokuho__000.shtml