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大アジア主義思想から「大東亜共栄圏」論へ(和光大学HP)【戦前の侵略思想】
http://www.asyura2.com/0505/asia1/msg/724.html
投稿者 happyblue 日時 2005 年 6 月 03 日 12:40:13: BaRfZQX6fAfSk
 

和光大学のホームページにおもしろい論文を見つけました。
今日復活しつつある「大東亜共栄圏」思想と戦前の大アジア主義との関係がよく分かります。

http://www.wako.ac.jp/index.html
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2002.html
以下すべて転載です。
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シンポジウム◎二つの世紀末と日本・アジア◎問題提起1

大アジア主義思想から「大東亜共栄圏」論へ

原田勝正 本学経済学部教授

 本日は、「大アジア主義思想から『大東亜共栄圏』論へ」というタイトルで、一九世紀の終わりから二〇世紀半ばにかけての、大アジア主義と呼ばれていたアジア諸民族解放の方策ないし指導理論をめぐる、いくつかの問題を提起させていただきたいと思っております。非常に大きな問題で、はたして三〇分できちんとまとめられるかどうか、かなり心もとないところがございますが、よろしくお願いいたします。

――世紀をまたぐ「大東亜共栄圏」論

 最近の問題として、西村慎吾という防衛庁の政務次官が、「大東亜共栄圏」という言葉を『週刊プレイボーイ』一一月二日号のインタビューで持ち出してきました。このインタビューでは「大東亜共栄圏」論と並んで、もう一つ日本の核武装を提起しておりますが、ここでは後者については時間上、詳しく触れる余裕がありません。後で簡単に言及します。

 二〇世紀の終わりに当たって、「大東亜共栄圏」論という言葉がまた登場した点に、かなり注意をひかれます。第二次世界大戦後のいわゆる「アメリカの核の傘」のもとに入った日本で、一九六〇年代から、例えば林房雄の『大東亜戦争肯定論』をはじめとして、その後、政治家のなかでいわゆる「大東亜戦争」を肯定する発言が相次いでまいりましたが、そのような発言をまとめるような形で、このたびの「大東亜共栄圏」論が再び登場してきました。このことは二〇世紀の終わりに当たって、一九世紀末以来の大アジア主義を復活させることを意味する、極めて刺激的な発言と受けとめられるからです。

 また「アメリカの核の傘」のもとにある日本が新たに核武装を行なうという発言は、かなり大きな問題提起ではないかと思います。それは、「アメリカの核の傘」からの離脱を図るのか否かを含めて、アジアにおける軍備の主導権を握ろうとする点で、一九世紀末以来の日本の進路を復活させる提言として受けとめる必要があるのではないかと考えます。

 すなわち、そこでは二つの世紀末に、同じような進路の提言が反復してなされていることがわかります。

なぜそのような反復が起こってきたのか。アジアにおける日本の位置づけは一〇〇年前もいまも変わっていないのか、やはりいまでもアジアの外に日本を置いて考える姿勢が強いのかという思いが避け難くあります。そこから発想して二〇世紀前半についての「大アジア主義思想から『大東亜共栄圏』論へ」という問題提起をすることは、現在の私たちのこれからの進路のあり方を考える上で、何らかのお役に立つのではないかと考えます。

 現在の私たちは、二〇世紀の後半、特に第二次世界大戦後、新しい日本国憲法の体制のもとで日本の進路を考える基盤をつくり上げてきました。したがって、いまの私たちはそのような発言を前にした場合でも、私たち自身の手で進路のあり方を模索し、進路を選んでいく力を持っています。

 その点は一九世紀の終わりと全く異なる状況と考えます。そこで、一九世紀の終わりに、国民が自分たちで進路を選定する力をどの程度持っていたのかという問題も取り上げてみる必要があると思いますが、きょうは、明治維新以来の日本の戦略および戦略体制のあり方を中心として見ていく視点をとっておりますので、その問題を中心に考えることはできませんが、できるだけ触れるようにいたします。

――日本の進路決定とアジア

 一番最初に問題にしたいのは、一九世紀末までの時期の動きです。

 一八六八年四月六日(慶応四年三月一四日)に五箇条の誓文が出されたときに、付けられた明治天皇の宸翰です。日本の進路を考える場合、五箇条の誓文よりも、むしろこの宸翰のほうが重要な意味を持っておりますが、ここで示された進路は、突き詰めて言えば、「億兆安撫、国威宣布」、億兆というのは国民ですが、億兆安撫と国威宣布すなわち国内・国外両面にわたる進路が述べられ、とくに対外政策については「国威ヲ四方ニ宣布シ」という方針が積極的な姿勢として見られます。

 その半年後に、即位の大礼が京都で行なわれました。そのとき、紫宸殿の前庭に大きな地球儀を置いて、その地球儀を天皇に踏ませるという準備がされました。ところがその日、雨が降ったものですから、地球儀を門の下に入れてしまったので、天皇が地球儀を踏むという儀式は行なわれなかったと言われております。

 これについては、私が戦前に読んだ明治天皇の伝記には、踏ませる予定だったと書いてありました。ところが、戦後の伝記には載せられておりません。戦後編纂された『明治天皇紀』にも地球儀を置いたという事実は書いてありますが、そこにも踏ませる予定とは書いてありません。しかし、地球儀を踏ませるという計画が立てられたとすると、明らかに国威宣布を儀式のなかに入れようとしたという意図がそこに推測できます。

 それを裏付ける政府の動きが、参議木戸孝允の朝鮮出兵構想です。これはその翌年、一八六九年に入って、世直し一揆など国内の動乱を鎮圧し、国民の意識、関心を朝鮮に向けさせる目的の下に、朝鮮に出兵し、釜山を兵力によって占領するという計画です。提案の相手は岩倉具視ですが、「朝廷の御力を以て主として兵力を以て韓地釜山附港を開かせられ度、(中略)億万生之眼を内外に一変仕り」[注1] というこの提案から、外征を利用して国内の動乱を鎮圧していくという意向が読み取られます。

 その後、一八七五年に江華島事件など、かつてアメリカが日本に対して兵力を動かして開国をさせたのと全く同じ手段によって、朝鮮の開国を迫りました。アメリカに迫られた開国を、今度は朝鮮に迫るという形で、この事件は日本が東アジアに勢力を伸ばす最初の動きとなりました。

 この過程には、非常に強烈な内憂外患という危機意識の強調が行なわれておりました。そして、この内憂外患の意識、特に外患の意識は次々に繰り返され、繰り返すごとに範囲を広げていきます。

 このような動きに対して自由民権運動が一八七〇年代の半ばから強まってまいりますと、近代的ナショナリズムの立場に立って琉球問題が非常に大きな問題として取り上げられていきます。明治政府は朝鮮への勢力拡張構想と並行して、蝦夷地(北海道)と琉球の完全支配を進めていきますが、一八七〇年代半ばに琉球の帰属が問題にされますと、自由民権論者が琉球の独立、自立を図るという議論を展開します。

 それは、「亜細亜全州ノ力ヲ収合シ欧米ノ強暴ヲ抑制」[注2] するという、アジア解放の立場としてあらわれてきます。私はこれを「大アジア主義」と区別して、ここでは「アジア主義」の立場と理解すべきではないかと思うのですが、要するに欧米のアジア侵略に対して、アジアの諸民族が力を合わせて解放する、解放と連帯の方向がこのあたりから提起されていたということは非常に注目すべきではないかと思います。

 ここでは政府と民間の動きが一八七〇年代の終わりから八〇年代あたりにかけて並列した形で展開していたことを示しております。

 しかし、一八八〇年代の半ば、自由民権運動が抑圧されて八九年に明治憲法が制定され、明治憲法の体制がつくられたのち、明治政府は、朝鮮の支配、そして朝鮮の背後にある清国に対する挑戦という方向を目指していきます。

 軍部はこの間に、外征戦略に大きく転換します。この転換は、だいたい八五年から八六年にかけて、それは同時に一八八五年三月の福沢諭吉の「脱亜論」が発表される時期にも当たります。この外征戦略が、一八九四年の日清戦争につながっていくことになります。

 この外征戦略は国家の進路として政府によって確認されます。それを確認したのは一八九〇年一二月六日第一回帝国議会で、その当時の内閣総理大臣であった山県有朋が行なった演説です。

 この演説のなかで山県が提起したことは二つありました。

 第一が主権線の守禦、第二が利益線の保護です。主権線とは国境を意味します。利益線とは、その国境の外側にある、国境を守るための地域という意味で、恐らく軍事用語ではないかと思いますが、主権線の確保のために利益線に勢力を伸ばすという勢力拡大の方向がここで提起されたことになります。

 これは明らかに朝鮮への進出を示します。したがって、朝鮮への進出は、日本の進路として位置づけられ、その結果が、一八九四年の日清戦争という形で展開することになりました。ここで明治維新以来の国家の方向は非常にはっきりと示されました。

 ここで提示された進路に、結果として同調したのが、かつての自由民権左派の大井憲太郎でした。彼は一八九二年に東洋自由党を組織します。この東洋自由党は、朝鮮を足かがりにアジア大陸に進出し、これらの地域の改革を進めることを目的としていました。その趣意は、彼がまとめた「東洋自由党組織の趣旨」に語られていますが、「殊に朝鮮の如きは我國の堤防なり。一旦決潰せば其禍患測る可からず」[注3] という立場は、明らかに山県の利益線の提起と全く同じです。

 大井憲太郎は、一八八五年、福沢諭吉の「脱亜論」が発表された年に、大阪で武器を集め、朝鮮に渡って革命を起こそうとしました。いわゆる「大阪事件」です。革命の「輸出」です。日本国内における自由民権運動が抑圧されて、十分に運動を展開することができなくなり、朝鮮で革命を起こして、政府や国民の注意を朝鮮に引きつけ、自由民権運動の復活を図るのが目的でした。さきに挙げた木戸孝允と逆の立場から朝鮮を利用するという姿勢です。革命の「輸出」を企てた大井が、朝鮮を防波堤とするという意見を述べたのは、朝鮮を利用するという立場からすれば当然の結論かと思われますが、それは自由民権運動におけるナショナリズムの立場の変質を推測させます。

 こののち、一九〇一年の義和団事件によって、日本の軍隊は欧米の軍隊に遜色ない活動をし、極東におけるイギリスの代理人として活動できるという立場を確立しました。一九〇二年には日英同盟を結び、同時に不平等条約を撤廃する方向に進んで、日本の国際的な地位はこの時期に一気に上昇しました。そして国際的な地位の上昇は、同時に福沢の「脱亜論」の立場をそのまま進めていくという方向をもっておりました。

 そのような国際的地位の上昇の時期に、一八九〇年代の初めぐらいから唱えられてきた荒尾精の「興亜」政策が、影響力を強めました。中国の調査を行なった陸軍の将校から転じて中国で活動する人材の養成に当たった荒尾は、日本はすでにアジアのなかで朝鮮や中国よりも進んだ国家になっている、その日本が中心となってアジアの解放を進めるべきだと唱えました。福沢の議論が「脱亜」を志向したのに対し、荒尾の議論は、その進んだ日本がもう一度アジアに帰れというものでした。そして彼の議論は、その後のアジアに対する日本の勢力拡大を志向する立場を示していました。

 このあたりで一九世紀が終わって、新しい世紀に移ることになります。その二〇世紀に移るところで見落とすことができないのは、宮崎滔天の中国革命に対する支援の活動です。

 宮崎滔天の立場は、大井憲太郎の立場などと違って、個人の立場で革命を支援するもので、その立場は、一八七〇年代の半ば過ぎに出てきた自由民権運動のナショナリズムの立場をそのまま引き継いだ形で展開するという方向を示します。そこでは明らかに朝鮮や中国と平等な立場に立つ連帯が主張されます。大井憲太郎ももちろん連帯を主張してはいましたが、防波堤として手段化していました。それに対して宮崎滔天はそういった手段化を行なっておりません。そこにかつての自由民権運動の立場が引き継がれています。

 宮崎滔天の連帯主義は、日本では、いつかは自由民権運動の立場に立つ民主化の運動が起こらなければならないし、そのような民主化の運動を進めるためにも、朝鮮や中国で同じような民主化の運動が進められていなければならないという点から発想したもので、それは革命の連帯という立場に立っていました。日本国内では当時そのような立場はほとんど無視されましたが、その後民衆の立場に立つアジア連帯の行動に引き継がれていきます。

 このほか、日本と朝鮮を一つの国にしてしまおうという、樽井藤吉の「大東合邦論」が注意を引きます。この大東合邦論は、彼がとなえた主観的な立場によれば、日本と朝鮮とが一つの国になって、そこで自由民権運動の立場をさらに進めていくという意図によるものですが、結果としては一九一一年の韓国の植民地化への道を拓きました。

――大アジア主義の形成

 このあたりから二番目の問題、二〇世紀に入ってからの日本の進路と大アジア主義に移ります。

 二〇世紀の初頭に新たに力を得ていったのが、大アジア主義でした。私は、「大アジア主義思想」という表題を書いて大変後悔をしているのですが、それは大アジア主義ははたして「思想」だったのだろうかという疑問が次々にわいてきたからです。

表題をつけてからいろいろと調べていくうちに、そこには思想として扱うべきまとまった体系や内容が欠けていたのではないかという疑問が次々に出てまいりました。しかし、表題をいまさら改めることもできないので、「思想」という言葉をそのまま使っておりますが、大アジア主義は思想というより日本の行動を正当化する粉飾理論というべきではないのかという疑問を、ぬぐい去ることができません。

 さきほど、外患はくり返されるたびに拡大したと言いましたが、日清戦争後の「外患」は、新たな利益線中国東北をめぐるロシアとの対立となって現われました。遼東半島を租借地として手に入れた途端に、三国干渉によってこれを返さなければならなくなり、すなわちここで初めてヨーロッパの国、しかもヨーロッパの強国との対立が表面化します。

 その拡大した外患を処理していくために、ロシアとの戦争を、アジアとヨーロッパとの戦争における、アジア人の立場に立つ戦争として意義づける必要がある。そのような要請が大アジア主義を生み出した基本的な動機ではなかったか。このように見ると大アジア主義は、前述のように思想というより戦略を正当化する粉飾理論ではなかったのかと考えられてくるのです。

 大アジア主義の成立条件には、すでに欧米の侵略によって支配されてきたアジアのなかで、日本だけが先進的な文明を取り入れ、そして同時に古来の固有の伝統的な文明をずっと持ち続けている。一口で言えば、アジアのなかで最もすぐれた国であるという自負が、そのような戦争を遂行する使命を持っているのだという使命感につながっていたのではないか。その使命感を強調して、ロシアとの戦争を正当化する粉飾理論が大アジア主義ではなかったのか、いま私は大アジア主義をこのように考えております。

 それは前に触れた荒尾精などの立場と同じもので、政府・軍部も同じ立場であったと考えられます。そして現在までこのような先進意識は残っていて、大東亜共栄圏論がいまでも復活するのはそのためと考えられます。しかも、先進意識に加えて、いま述べた「固有の文明」という意識がそこにはありました。

 例えば岡倉天心の『東洋の覚醒』はその代表ですが、同じ時期にアジアの危機も叫ばれています。土井晩翠の「万里長城の歌」のなかの「西暦一千九百年東亜のあらし明日いかに」というような一節は、明らかにアジアの危機を叫びながら、そのなかで日本の使命を位置づけていくという立場をはっきりと示しているように思います。こういった立場に基づいて大アジア主義が強調されました。

 最初から「大アジア主義」という言葉があったわけではなくて、一九一〇年代の半ばぐらいになってから改めて「大アジア主義」呼ばれるようになった言葉のようです。そしてこののち、大アジア主義はアジア諸民族の固有の文化を基盤とし、日本が主導権を握って推進する解放理論という形をとってまいりました。

 その当時、パン・スラヴィズム[注4] であるとか、パン・ゲルマニズム[注5] であるとか、ヨーロッパにおいてはアングロサクサンよりも遅れて近代化を進めた地域で、民族を主体とする覇権確立の運動が展開されました。それが第一次世界大戦に滑り込んでいく時代のロシア、ドイツの主張を代表したのですが、アジアにおいては、それと同じような状況のもとで、しかも明らかに日本が盟主という立場をとって、アジア解放を進めるという立場が強調されることになりました。

 しかし、大アジア主義とは異なる、アジア人としての結びつきを深める動きがあったのではないか。先ほど申しましたようなアジア主義というべき、共感や連帯が生まれ、一人ひとりの人びとの結びつきのなかに新しい動きが起こってきたのではないかということも考えなければいけないと思います。

 例えば、後ほど伊藤泉美先生からご報告があるかと思いますが、一九世紀末前後から中国人たちが日本に来て、一つのまとまった社会をつくりあげていくとき、条約改正によって日本が不平等条約から解放されて、居留地は消えていきましたが、欧米人と違ってアジアから来ている人たちは制約を加えられます。そういった人びとと日本人がどのような形で結びつきをつくっていったのか。これは私たちがこれから検討しなければならない大きな課題ではないかと思います。

 日本国内だけでなく、上海とか北京とか、アジアのさまざまな地域のなかでお互いにつくり上げられていった関係がたくさんあるはずで、これからの課題として、これをもっと明白に解析する必要があるのではないかと思います。それは日本のアジアに対する侵略という問題ともかかわってきて、非常に大きな問題として残されていると思います。

――大アジア主義の虚像化と「大東亜共栄圏」論

 日露戦争によって韓国を植民地化し、ロシアと中国東北、満州を分割し、条約改正は完成して、日本はいわゆる「一等国」になりました。一九世紀の終わりから二〇世紀の初めにかけての日本の目標は、まさに一等国になることでした。今また二一世紀の初めに当たって、日本は国連の常任理事国になることに懸命になっております。これを実現すれば日本は「一等国」になれるわけです。その点でも一九世紀末とのサイクルが成立しています。

 一等国になった日本は、今度は中国東北、満州の分割をめぐって新たな外患を引き寄せました。ロシアとの間の問題は解決したのですが、新たにアメリカが割り込んできました。日露戦争は太平洋戦争の原因だと私は学生たちにも授業で話すのですが、日露戦争のときにアメリカが日本を援助したのは、アメリカが満州における利権を確保したかったからです。そして、日露戦争後、少しもアメリカに利権を分けなかった日本は、決定的にアメリカと対立し、その結果が一九四一年の太平洋戦争に結びつくわけです。ですから、太平洋戦争の最も遠い原因は日露戦争にあるという見方が成立します。

 満州の分割をめぐって、アメリカと日本の対立が新たに浮上します。しかもその当時、中国における民族運動が非常に高まってきます。アメリカとの対立と、中国における民族運動と対決しながら、日本は「満州国」という傀儡国家をつくっていきました。

 それは新しい外患の解決であったのですが、「満州国」を確保するためには、国際連盟からの脱退も辞さない、こんどは「一等国」の地位を無視しても、とにかく満州は欲しいという立場が、その後の日本の進路に結びつきます。

 そして傀儡「満州国」の支配を手はじめに、日本を中心とする形式上はアジアの国家連合、実質的には日本によるアジアの支配を目指すというのが、日本の進路になります。そして満州を確保するためには、ソ連とアメリカとの戦争が不可避であると考えた軍部は、一九四二年からアメリカ、ソ連との戦争を始める戦略を立て、国家の進路としてもそのために南方進出を行なうという方針を立てました。一九三六年に決定された「国策の基準」がそれです。ところが軍部は中国を非常に甘く見ていて、一九三七年に中国に対する全面侵略戦争を始めてしまいます。そのために「国策の基準」で決めた対ソ、対米戦略は全く混迷しました。しかも中国に対する全面戦争は、国力の大きな衰退をもたらしてしまいました。

 そうなると新たに勢力を広げるためには、結局のところ東南アジアに進出するほかない。そういったところから一九四〇年七月の終わりに「基本国策要綱」を決定し、松岡洋右外務大臣がラジオで、大東亜共栄圏をつくるのだということを国民に呼びかけました。ここで初めて大東亜共栄圏という構想が国民に知らされました。

この構想は、それまでの日本、中国、中国東北を含めた共通の経済圏をさらに広げて、東南アジアまで含めた形の新しい経済圏として構想されていくことになりました。

 しかも新しい大東亜共栄圏の構想は、一九四一年に文部省がつくった『臣民の道』によりますと、世界新秩序をつくる一つの段階として位置づけるという立場をはっきりととっております。ここで提示された「世界新秩序」はまったく漠然とした目標で、天皇の支配圏の無限拡大(八紘一宇)という理念が幻想の目標ですが、大東亜共栄圏はこうした理念ないし幻想の体系の一環として位置づけられました。大アジア主義は、このあたりで「八紘一宇」幻想に従属していったと見るべきかと考えます。

 大東亜共栄圏を実現するという構想に対して、アメリカから大きな介入、制約を受けたというところから太平洋戦争が開始されるわけですが、この戦争の開始は、一九三六年の「国策の基準」で出された戦略を大きく変えてしまいました。そして、この戦争を政府は「大東亜戦争」と呼びますが、その名前は、かつての大アジア主義が具体化されるきっかけをなしていたように思われます。とくに占領地域における民衆に対する呼びかけ、いわゆる「宣撫工作」という形でそれは出てまいります。日本が占領したシンガポールで使われた「ヨイコドモ」という教科書には、そのような立場が示されているように思います。

 しかし、占領の本音を示すものとして開戦直前に大本営政府連絡会議が定めた「南方占領地行政実施要領」があります。例えばそのなかの、[第二 要領]の七番では、「國防資源取得ト占領軍ノ現地自活ノ為民生ニ及ホサザルヲ得サル重壓ハ之ヲ忍ハシメ……」というようにして、現地の住民を抑圧するということを最初から予定しております。そういった本音の部分がこの戦争にはあったことがここで明らかになります。

 しかもその後、戦局が日本軍にだんだん不利になってくるという条件のもとで、一九四三年五月の終わりに御前会議が開かれて、「大東亜政略指導大綱」が決められます。

 このなかで注意しなければならないのは、『「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝國領土ト決定シ重要資源ノ供給地トシテ極力コレカ開發並ヒニ民心把握ニ努ム』とされている点です。ここで領土を拡大するという方向が正式に御前会議の決定として決められています。そうなるといわゆる「大アジア主義」の建前は、本音によって消されてしまいます。アジアの諸民族の解放ではなく、領土を拡大する戦争という形で、この戦争が意義づけられていきます。したがって、大アジア主義は上辺だけの解放理論となります。それはまさに「虚像化」し、実質的な意味は全く失われました。

 その年の一一月に大東亜会議が開かれて、それまでに独立を認められたフィリピン、ビルマを含めて、首脳が東京に集まりました[図]。これは「満州国」をつくったとき以来の新しい国家連合の一つの形としては、確かにアジアの諸民族の結合が成立したことを意味します。しかしそこに集められた国家は、傀儡国家であるか、従属国家であるか、日本が独立を認めた国家です。自分で独立した国家ではありません。ですからその国家連合というのも、いわば実質的な国家ではなくて、虚像化された国家の集まりでした。ですから、日本が戦争に負ければ、これはすべて失われていくという結果になってしまいました。

 そのように見てきますと、大アジア主義から大東亜共栄圏へという、その進み方は、結局のところ日本の戦略にいつも左右され、しかも「八紘一宇」という天皇の支配幻想に従属し、ついには「解放」の理念も空洞化してしまいました。そこにはアジア主義というような、解放・連帯の方向はもともと定着することができなかったのではないかと、私は考えております。

 私の話はこのくらいにして、また後でいろいろ補足をさせていただきたいと思います。

はらだかつまさ

一九三〇年、東京に生まれる。一九五三年、東京大学法学部卒業。日本近代政治史、鉄道史専攻。現在和光大学経済学部教授。著書に『鉄道の語る日本の近代』そしえて、一九七七年/『満鉄』岩波書店、一九八一年/『日本の中国東北支配における鉄道の軍事的利用』一九九九年/など。

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注1 『木戸孝允文書』三

注2 『近事評論』一八八一年二月一三日、第三〇三号

注3 平野義太郎『馬城大井憲太郎伝』所収

注4 パン・スラヴィズム(Pan-Slavism)
スラヴ民族全体をロシア皇帝(ツァーリ)のもとに結合させ、帝政ロシアの支配権拡大をはかる運動。

注5 パン・ゲルマニズム(Pan-Germanism)
ドイツが中心となってゲルマン民族の覇権確立を推進する運動。第一次世界大戦前バルカン、中近東への進出をはかってロシアのパン・スラヴィズムと対立、第一次世界大戦後は、総体的にナチスがこれを継承した。

図 『朝日新聞』昭和18(1943)年11月6日夕刊第一面「大東亜共同宣言 中外に闡明」 <画像は表示できません。『朝日新聞縮刷版 昭和18年11月』29ページ(本学図書館 P071/1/43.6)をご覧ください。>

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