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アフリカに経済攻勢かける中国
ジャン=クリストフ・セルヴァン(Jean-Christophe Servant)
ジャーナリスト
訳・清水眞理子
http://www.diplo.jp/articles05/0505-3.html
2004年12月初め、アンゴラのドス・サントス大統領と面会した中国政府関係者は、いささか困惑していた。その数日前に、イギリスの市民団体、グローバル・ウィットネスが、中国輸出入銀行による20億ドルの対アンゴラ融資が横領されているおそれがあると公に示唆していたからだ。公式には、この20億ドルは、30年におよぶ内戦で破壊されたインフラ(電力、鉄道、庁舎)の復興のためのものである。中国はその見返りに日量1万バレルの石油を受け取ることになっていた。ところが、この20億ドルの一部は、2006年に予定されている総選挙に向け、政府の宣伝活動の資金として使われていた。そして同月9日、中国の圧力により、外交関係者の間でつとに有名であった口利き役のヴァン・ドゥーネンが、官房長官の職を追われることになる。
揺れ動く時代の中で、かくして中国は、内政不干渉という対アフリカ貿易の長年の基本的原則から逸脱した。腐敗国家として悪名高いアンゴラに対する融資者サイドの圧力があったのだろうが、少しばかりモラルが考慮されたところで、中国・アフリカ間のビジネスがフル回転をやめることはない。
中国は独立を達成したアンゴラを親ソ連とみて国交を断絶していたが、それから30年後に当初の誤りを大きく修正した。この旧ポルトガル植民地は今や石油の25%を中国に輸出するようになり、アフリカ大陸で第2位の貿易相手国となった。アンゴラ政府は北京へ直行便を飛ばすことすら考えている。アジアの幹部クラスのビジネスマンを迎え入れるために、首都ルアンダで中華街建設を促進することも検討されているようだ。
問題の融資は貸付期間17年、年利1.5%という条件で供与されており、短期的には中国に不利に働く可能性もあった。とはいえ、アンゴラ復興という、うまみのある市場の大部分は、中国企業の手に落ちた。このことは国民に不安を引き起こした。「契約の文言によれば、融資額の30%は国内企業に回されなくてはならないが、それは70%はそうしなくてもとよいということだ。建設部門はアンゴラ人が職を見つけられる数少ない部門だというのに」と独立系エコノミストのジョゼ・セルケイラは言う(1)。
時代が変わり、中国では思想的なレトリックよりも実用主義が優位に置かれるようになった。その上、貿易と経済協力は同一省庁の管轄となった。1970年代半ばまでは、同じ低開発地域に属するアジアとアフリカとの連帯を構築するという発想があったといえる。中国のアフリカにおける存在感は技術者に集約される。彼らは植民地統治から解放されたばかりの兄弟諸国をサポートし、その躍進に貢献するために来た。1万5000人の医師と1万人以上の農業技術者が、冷戦の後背基地と化していたアフリカ諸国へと派遣された。
反帝国主義者として西側諸国に対抗する中国は、米ソが顧みないアフリカ大陸に入り込んでいった。そして、タンザニアとザンビアを結ぶタンザン鉄道建設のような最も野心的な建設事業を引き受け、思想的な同志である東部アフリカ諸国(エチオピア、ウガンダ、タンザニア、ザンビアなど)や、エジプトのような有力非同盟諸国と軍事協力協定を結んだ。1955年から77年にかけて、中国はアフリカに1億4200万ドル相当の軍事物資を売却した。また、大学の門戸を部分的に解放し、独立したアフリカ諸国から1万5000人の留学生を受け入れてきた。
1977年、中国とアフリカの貿易総額は8億1700万ドルを記録した。80年代に先進国とソ連がアフリカから手を引き、西側諸国の開発援助額が半分になった一方で、中国はアフリカとの結びつきを維持してきた。しかし、革命のための道具立てを輸出することは断念し、貿易と海外投資の増進に専心するようになった。冷戦後の地政学的変化や中東情勢の不安定化によって、先進国は、特に石油調達先を分散化するために、再びアフリカに関心を向けた。そのとき中国はすでに「世界の工場」になっており、アフリカの一次産品に目をつけていた。
石油を求めて
中国は世界第2位の原油消費国で、その25%以上はギニア湾とスーダン内陸部から輸入している。今後2020年までにエネルギー資源の輸入依存率が60%に達することになり、取引相手国を分け隔てしているわけにはいかない。台湾と外交関係を維持しているチャドのような国とて例外ではない(2)。アフリカは2004年時点で中国の貿易額の2%しか占めていないが、その「門戸開放政策」の恩恵を大きく受けている。90年代を通じて中国とアフリカの貿易高は700%増となり(3)、2000年に北京で第1回中国アフリカ・フォーラムが開催されて以降は(4)、40以上の協定が調印され、この4年間で貿易額は倍増した(2004年末で200億ドル超)。今後2005年末までに、中国はイギリスを抜き、アメリカ、フランスに次ぐ第3位の貿易相手国となるだろう。さらに、世界銀行との共同プロジェクト策定に長けている中国は、アフリカで「自国の利になるようなグローバル化のパラダイム」を作り上げようとしているらしい(5)。
アフリカに進出した中国の674の公営企業は、鉱業、漁業、貴重な森林資源の開発、電話事業といった発展性のある分野に加え、採算が低いとされている分野や、さらには欧米諸国に見放された分野にも投資している。例を挙げると、ザンビアのチャンベジ銅山の開発再開や、枯渇したと考えられていたガボンの石油の探査再開がそれにあたる。2004年には、アフリカにおける外国直接投資150億ドルのうち、9億ドル以上を中国が占めた。何千件ものプロジェクトが動いており、中国路橋(集団)総公司だけで500件を手がけている。公共土木事業の世界トップ225社の中には43の中国企業が含まれている。中国はエチオピアの電気通信市場を奪い、コンゴ民主共和国の鉱山会社ジェカミンの一部事業を引き継ぎ、ケニヤのモンバサ=ナイロビ間の道路を改修し、ナイジェリア初の人工衛星を打ち上げた。またアフリカの8カ国が、中国の公式な観光推薦地に指定された。
この経済と貿易による攻勢に伴って、外交活動も活発化した。2003年3月に国家主席に就任した胡錦濤が早速ガボンを訪問した事実は注目を引いた。さらに、それぞれ「アフリカ担当部門」を備えた商務部と外交部の主導により、アフリカ諸国との間で多数の公式会合が設定されている。欧米諸国と危機的あるいは微妙な関係にある多くの国で、内政不干渉という中国の方針が実を結んだ。ダルフール問題で国連との関係が悪化していたスーダンとの関係は、その冷徹な戦略の典型例である。中国社会科学院の西アジア・アフリカ研究所で国際関係研究室の副主任を務める賀文萍は、中国の立場について、我われにこう語った。「個人の権利の保護のために、国家主権の行使が抑制されるわけにはいきません。こうした物の見方だけがアフリカのパートナー諸国との唯一の共通点というわけではないにせよ、これが中国のアフリカでの成功を支えたことには疑問の余地がありません」
中国は南スーダンのムグラドで未開発の油田の開発に携わり、10年後の現在ではムグラド産原油の50%を輸入するようになった。スーダンに進出した外資系企業トップ15社のうち、中国石油天然气集団公司や中原石油勘探局など13社が中国系である。中国政府のあざとい姿勢は、2004年9月、スーダンへの武器禁輸措置を定めた国連安保理決議第1564号の採決の際に白日の下にさらされた。ダルフールで虐殺が行われている中、王光亜・国連大使は拒否権発動をちらつかせた上で最終的に棄権したのだ。アメリカの提出した決議案が、すでに十分甘いものになっていたにもかかわらず、である。この一件で中国とスーダンの関係がいかに強いかがよくわかる。
ビジネスの別の流儀
多くのアフリカの独裁者は、中国の貿易や経済協力には「相互尊重」や文化的「多様性への配慮」の精神があると賞賛する。これらは中国の古くからの友人であるガボンのボンゴ大統領(6)の言葉に由来する。しかし、中国がアフリカという「黄金郷」で「サファリ」に乗り出していることで(7)、従来アフリカ大陸の「有用部分」に群がってきた多国籍企業は気をもんでいる。建前として「よい統治」にこだわるアメリカの外交担当者も、中国の経済活動のやり方に苛立ち始めている。ネオ・コン系のシンクタンク、グローバル安全保障分析研究所(IAGS)を率いるエネルギー安全保障の専門家、ガル・ルフトは次のようにみる。「中国人は、欧米では禁じ手となりつつある便宜供与や裏金といった手法でビジネスを展開する傾向がある。だから、アフリカ諸国の中に、欧米の企業よりも中国の企業と組む方がいいという国が出てくる。資金の流れの透明化を目的として『パブリッシュ・ホワット・ユー・ペイ(支出を公表しよう)』といったキャンペーンがはじまって以来、欧米企業が使える手法は少なくなっているからだ(8)」
ルワンダのカベルカ財務相の言う「ビジネスの別の流儀」は、これまでアフリカにおける欧米諸国のあざといやり方を告発してきたNGOにとって、いっそう憂慮すべきことと映っている。国際機関による条件付きの融資の場合、議論もなしに被援助国が融資サイドの命令に従わされている点が批判されてきた。中国の経済協力の場合には、無条件で融資を供与し、「即金払い」をうたっていることから、無用の「箱物」を増やすばかりで、資金の最低限の透明化さえも望めなくなるだろう。
支援団体ケアで最近までアンゴラ責任者を務めていたダグラス・スタインバーグによれば、「中国の融資供与の条件は、国際通貨基金(IMF)をはじめとする過去の協定に定められた要求と比較すると、アンゴラにずっと大きな裁量の余地を与えている。しかし実際には、このことが政府当局に、透明化に取り組まないことを許している(9)」。一方で、環境保護団体は、世界で最も公害を出していて、京都議定書への調印も拒否する中国(10)の貿易増大に目を光らせている。アフリカ諸国から輸出される400万立米の丸太材のうち、60%がアジア向けであり、そのほとんど全部(96%)は中国に送られている。
さらに、中国の武器輸出も問題の種となっている。20世紀末に多くの人命を奪ったエチオピア・エリトリア戦争で、合計10億ドル以上の契約を結んで紛争を長引かせた中国は、2000年初頭にはスーダンを軍事技術の販路にしたと疑われている。その上、欧米諸国と関係が悪化しているジンバブエ(11)にも軍事援助を続けている。より広域的な視点で見ると、南部アフリカ開発共同体(SADC)加盟国(12)に中国の駐在武官がかなり集中的に配属されているのが目につく。ここでも「経済的な実利追求が冷戦期に優位に置かれたイデオロギー的、地政学的野望より重視されているように思われる(13)」
中国政府は、この新しい経済ゲームは「ウィン・ウィン」であり、もとより誰も敗者にならないと主張する。しかし、それは結局のところ、南々開発という幻想にくるまれた新植民地主義の新しい形態にすぎないのではないか。中国の貿易政策の限界や、繊維から鉄鋼にいたるアジア製品のアフリカへの襲来による直接競合が、アフリカの一部の論者によって懸念されている。アフリカで第1の中国の貿易相手国であり、中国に近づくために1997年に台湾と断交した南アフリカは、「期待をそそられる協力関係と恐ろしい脅威」に同時に直面していると、ヨハネスブルクのヴィットヴァーテルスラント大学の南ア外交問題研究所のモレツィ・ムベキ副所長は記した。「我われは中国に売る一次産品と引き換えに中国製品を買う。その結果はまったく予想の通り、貿易赤字である。これでは過去の歴史の繰り返しではないか(14)」
旧宗主国との利害衝突
1992年には2400万ドルにすぎなかった南アの対中貿易赤字が今や4億ドルの大台を超えたという事実がある。このため2004年9月、有力労組の1つであるCOSATU(南ア労働組合会議)は、失業を増大させたとして、中国製品の販売者をボイコットすると脅した。セネガルの首都ダカールのシャルル・ドゴール大通りでは、靴から薬まで安価な中国製品が道端や店の売り台を席捲している。一方でレソトの繊維工場は2005年1月の多国間繊維協定の失効によって脅威にさらされている(15)。
こういった問題に直面して、中国は約束、贈り物、あるいはバンドン会議の精神(16)という歴史への言及を重ね、さらに2000年以降で累計100億ドルの二国間債務の放棄という象徴的な方策をとってきた。中国政府が創設した「アフリカのための人的資源開発基金」(17)により、1万人のアフリカ人が北京で研修を受けている。中国はリベリアからコンゴ民主共和国にいたる平和維持活動に次第に熱心になり、2004年にはアフリカに1500人以上のPKO要員を派遣した。国連常任理事国のアフリカの椅子をめぐっては、最終決定がアフリカ連合の手のうちにあることを認めつつ、ナイジェリア、南ア、エジプトの三大候補を公然と支持している。ただし非公式にはナイジェリアを推している。
新アジア・アフリカ戦略パートナーシップ(18)の立ち上げとともに、これから2006年までに中国の貿易上の大躍進が遂げられるだろう。この新パートナーシップは、民間部門に関するもので、中国が最大の受益者となるはずだ。2004年、胡錦濤主席はガボンを訪問した際に「インフラ、農業、人的資源の開発を重点分野とする経済協力」を約束した。空証文に終わるような気もするが、1つだけ確かなことがある。それは中国政府が「あらゆる大国と同様に、自国の利益をよく踏まえて行動するようになり、一次産品、購買力、外交的影響といった観点から潜在力の高い国に経済協力を絞りこむ」ということだ(19)。
アフリカの伝統的なパートナーは、中国の出現をどこまで受け入れ、どのようにして適応していくのだろうか。社会科学院の賀文萍は以下のように語る。「アフリカでの中国の投資の増加が、旧宗主国との利害衝突を発生させるのは当然でもっともなことです。しかし我われは必要以上に不安を感じることはありません。アフリカ人を助け、アフリカ人の生活条件を改善し、グローバル化の恩恵を受けられるようにすることは、世界全体の人びとと国ぐににとって共通の目的です。中国人民および中国政府は、それに貢献することを非常に好ましく思っています。しかしながら、過去の経験に照らせば、それは長く厳しい旅になることでしょう」
IMFによると、アフリカは2005年に、過去30年で最も高い5.8%の成長率を達成するに違いない。そこには中国の投資も寄与することになる。かつて冷戦の後背基地であったアフリカは、明日は激化する貿易戦争の前戦基地になるのだろうか。
(1) 国連人道関係調整事務所、ニューヨーク、2005年1月14日, http://ochaonline.un.org
(2) 中国はアフリカ53か国中47カ国と外交関係を結んでいる。
(3) http://www.chinafrique.com/tu-2003-12/12-fm1.htm
(4) 2003年11月アジスアベバで開催された第2回中国アフリカ・フォーラムで2006年までの両者間の協力計画が定められた。
(5) See Drew Thomson, << Economic growth and soft power : China's Africa strategy >>, China Brief, University of Pensylvania, 7 December 2004 (http://www.jamestown.org).
(6) 中国公式訪問が9回を数えるボンゴ大統領は、コンゴ共和国のサス・ンゲッソ大統領とともに、中国政府に最も頻繁に招待されている。
(7) See Howard French << A resource-hungry China Speeds Trade with Africa >>, The New York Times, 9 August 2004.
(8) See the report << Bottom of the barrel : Africa's oil bottom and the poor >>, http://www.catholicrelief.org
(9) << Oil-backed loan will finance recovery projects >>, Integrated Regional Information Networks, 21 Feburuary 2005, http://www.irinnews.org
(10) 中国は京都議定書を批准しているものの、温暖化ガス削減義務を負う「附属書1の締約国」に加わるとの通告は行っていない。[訳註]
(11) ジンバブエは不正選挙と政治暴力を理由に英連邦とEU諸国から経済制裁を科せられている。コレット・ブラークマン「ムガベ再選とジンバブエの土地問題」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年5月号)参照。
(12) アンゴラ、ボツワナ、コンゴ民主共和国、レソト、マラウイ、モーリシャス、モザンビーク、ナミビア、セーシェル、南アフリカ、スワジランド、タンザニア、ザンビア、ジンバブエ。
(13) See Logan Wright, << Seizing an opportunity >>, The Armed Forces Journal, Washington, October 2001.
(14) See Paul Mooney, << China's African safari >>, YaleGlobal, 3 January 2005, http://yaleglobal.yale.edu/
(15) 多国間繊維協定は1974年に47カ国により調印され、途上国に欧米向け繊維輸出割当と、輸入制限を認めた。
(16) ジャン・ラクチュール「バンドン会議を振り返る」(ル・モンド・ディプロマティーク2005年4月号)参照。
(17) 「アフリカのための人的資源開発基金」は2000年に北京で開催された第1回中国アフリカ・フォーラムで創設された。http://www.chinafrique.com/tu-2003-12/12-fm1.htm
(18) バンドン会議50周年を記念して開催されたアジア・アフリカ首脳会議でぶち上げられた新パートナーシップは、政治・経済・文化の全面にわたる交流・協力を枠組みとする。これは貿易と投資に立脚することになる。
(19) マルク・エカルディ=ド=サンポール「中国とアフリカ、約定と利害の狭間で」(雑誌『アフリカ地政学』14号、パリ、2004年春)参照。
(2005年5月号)
All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Shimizu Mariko + Kamo Shozo + Saito Kagumi
http://www.diplo.jp/articles05/0505-3.html