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(回答先: 朝鮮侵略 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 26 日 22:03:13)
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N381L100.HTM
日朝関係 にっちょうかんけい
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日朝関係と言えば,広義では古代から近・現代に至る間の長い日朝交渉史を含む日朝両国間の関係をさすが,一般には近代以降における日朝間の国家関係をいう。最近では朝鮮が南北に分断されている条件のもとで,とくに日韓関係に対する朝鮮民主主義人民共和国と日本との関係をさすことにも使われる。ここでは近代以降における日朝間の国家関係だけにしぼって,その大概と問題点を取り上げることにとどめたい。
【明治維新から壬午軍乱まで】江戸時代における日朝両国の関係は,概して平和的な友好善隣の関係であった。十数回に及ぶ朝鮮通信使に対する幕府の歓待と厚遇はこの事実を指し示すものである。それが明治維新後になると,明治政府の侵略的な対外政策によって,状況は一変し両国の関係は悪化の一路をたどった。明治維新直後,明治政府は,開港による日本の社会経済的・政治的矛盾のはけ口を隣国朝鮮に対する侵略政策によって解決しようと試みた。その端的な表れが,「征韓論」である。しかし当時の日本には朝鮮を侵略するだけの実力がなかったことから,征韓論は単なる明治政府要人間の権力闘争の題目に終わっただけであった。当時の朝鮮は大院君政権の強力な国防政策と民衆の反侵略闘争によって,1866年のフランス艦隊,1871年のアメリカ艦隊の侵略を撃退していた。征韓論が実現しなかった最大の要因はここにあった。その後から日本の朝鮮侵略の企図はアメリカとの共謀によって進められるようになった。1875年の「雲揚号事件」がそれである。アメリカの使嗾と支援で計画されたこの砲艦外交で,日本はついに1876年,朝鮮封建政府に「江華条約」と呼ばれる不平等条約を強要するのに成功した。これは大院君が政権から離れ,保守的反動的な閔氏政権の成立と,これに反対する民衆蜂起によって国防力が弱化した時期を見計って行われたものである。日本も列強による不平等条約によって苦しめられているにもかかわらず,隣国朝鮮に対し侵略的な不平等条約を強要したことによって,両国間の不幸な関係の幕明けが始まった。江華島条約の侵略的策動に反対する朝鮮民衆の闘争は日増しに高揚し,ついに1882年壬午軍乱と呼ばれる軍人と民衆の反日闘争となって表れた。
【甲申政変から日清戦争まで】壬午軍乱に見られた朝鮮民衆の日本に対する敵意をみた,日本政府はやむなく朝鮮侵略の方法を変更した。日本は朝鮮の自主独立のために闘っていた開化党の党員たちを朝鮮植民地化実現の目的に利用しだした。1884年12月4日,金玉均以下の開化党が権力奪取のためクーデタを起こしたときも,朝鮮を植民地化する目的でこれに協力した。しかし,状況が不利と見るやただちにこれを裏切り,清国軍による開化党政権に対する弾圧を可能ならしめた。甲申政変が三日天下に終わったのがそれである。こうして朝鮮におけるブルジョア革命は失敗し変革主体は壊滅した。にもかかわらず日本は井上馨を派遣して「漢城条約」を押しつけ「損害補償金」と謝罪を要求した。日本に亡命した金玉均に対しても,日本政府は軟禁生活を強要したあげく,ついには1894年,李鴻章と井上馨の連携で彼を上海におびき出し,刺客の餌食とならしめた。
【甲午農民戦争に対する干渉戦争としての日清戦争】江華島条約成立後,日本商人や高利貸しは,朝鮮の奥地にまで入り込み,密輸品を氾濫させ偽造貨幣をもち込むなど朝鮮の経済を急速に悪化させた。これに加えて封建政府官吏の横暴と腐敗が農民蜂起を誘発させた。この農民蜂起はついに大規模な農民戦争に発展し,反封建・反侵略の旗じるしを鮮明にし政府打倒の軍を進めた。日清戦争はこの農民戦争を圧殺する干渉戦争として開始されたのであった。反封建闘争として始まったこの農民戦争は,日清戦争の過程で強力な民族解放闘争に発展して日本軍に手痛い打撃を与えたが,農民軍の主力は長い流血の戦闘の後,ついに日本軍に敗北した。
【日露戦争と朝鮮の植民地化】日清戦争中に日本が行った露骨な内政干渉は,朝鮮の近代化に大きな困難をもたらした。また1895年には日本公使三浦梧楼らは,朝鮮の王妃を殺害する前代未聞の暴挙までひきおこした(閔妃殺害事件)。日本政府は三浦らの蛮行が国際問題化した後も,犯人を「証拠不充分」だとして全員免訴した。ここに朝鮮民衆の憤激はついに義兵闘争となって拡大していった。その後も朝鮮の完全占領の機をうかがっていた日本帝国主義は,ついに1904年2月,突如仁川に上陸しソウルを占領して日露戦争を開始した。朝鮮政府は局外中立宣言を発したにもかかわらず,日本はこれを無視して「日韓議定書」を押しつけ,日本軍の行動と軍事基地設置の自由を認めさせた。続いて1905年11月には第二次日韓協約(乙巳保護条約)を強要して朝鮮の外交権を奪い統監府の指導下においた。二年後の第三次日韓協約では,内政に関する支配権も奪い,交通・通信機関,司法・警察権なども掌握して植民地化を進めた。このような朝鮮侵略は,日本軍の占領下という条件と,米・英の承認のもとに行われた。事実,日清・日露の両戦役自体が,米・英の積極的支援のもとで行われ,戦費の4割,弾薬の大半が米・英両国によって支援されたのである。日露戦争のなかで,日本の侵略が強まるにつれて朝鮮人民の反日義兵闘争は再び活発になり始め,1907年末には,一時ソウル進攻を計画するほど強力に展開された。これに対し日本は多くの村を焼き払い無差別な殺戮をくり返した。1909年9月から2カ月間,大兵力を全羅道一帯に投入した「南韓大討伐作戦」はその最たるものである。
【日本帝国主義の朝鮮「併合」と朝鮮に対する植民地支配】1910年8月22日,ついに日本は朝鮮を併合した。併合は米・英の承認を得て朝鮮全土を「軍事監獄」化することによって,朝鮮人民の反日義兵闘争を鎮圧して首都ソウルに厳戒体制をしき,王宮を日本軍が包囲するなかで行われた。調印もクーデタにも似たやり方で強行された。朝鮮を併合した日本は,朝鮮総督府を設置し,武断統治と呼ばれる苛酷な統治を行った。軍人総督のもとで,憲兵と警察を一体化した治安機構である憲兵警察制度が完成された。このような暴力的支配を基礎に朝鮮人の言論・出版・集会・結社の自由をことごとく奪った。それに加えて民族意識抹殺を目的とする「同化政策」・「愚民化政策」を強要した。朝鮮の文化遺産も数多く破壊・略奪された。「土地調査事業」の名のもとに莫大な土地を朝鮮農民の手から奪い,植民地支配の財源とした。また朝鮮における民族資本の形成・発展を抑制し,朝鮮経済を日本資本主義に隷属させる目的で「会社令」も施行した。その結果,日本人経営の企業は大規模化し朝鮮人経営はますます零細化した。農民も5割以上を占める高率小作料のほかに,地税・戸税・面費・学校費などの税金や夫役を賦課されて没落し,数百万が日本や満州に流浪するようになった。その結果かつてない大規模の三・一独立運動が展開されるようになった。三・一運動に対し日本は軍隊・警察に加えて在留日本人をも武装させて徹底的に弾圧し,多くの朝鮮民衆を殺戮・負傷・投獄させた。それでも朝鮮民衆の闘争は約一年間も続いた。いくら武力で弾圧しても朝鮮支配を安定させ得ないことを知った日本帝国主義は,大地主や民族ブルジョアジーの一部に,若干の「特権」や「自由」を与えて体制側に引き入れ,労働者・農民と対立させる民族分裂政策をとった。これがいわゆる「文化統治」と言われるものである。1920年代朝鮮では労働運動や農民運動・共産主義運動が大きく発展し,1930年代に入ると朝鮮北部の国境地帯で抗日武装闘争が組織的活動を始めた。日本帝国主義は最大の植民地朝鮮で,全民族的な解放闘争に直面し大きな打撃をうけた。これに対し日本は「文化統治」の代わりに「植民地ファッショ統治」をもって徹底的な暴圧統治で応えた。日中戦争後は「皇国臣民化政策」の名のもとに,多くの朝鮮人を徴兵・徴発・強制連行で苦しめた。
【朝鮮戦争と日朝関係】日本の敗戦によって1945年8月15日,朝鮮は解放された。だが朝鮮は米ソ対立の冷戦構造の犠牲になって国土が南北に分断された。1948年には南北にそれぞれ二つの政府が樹立された。そして1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争は日本に大きな変化を及ぼした。東京に「国連軍」司令部が置かれ,日本はアメリカ軍の出撃基地・補給基地となった。日本の産業も,アメリカの「特需」に結びついて下請け軍需工場色を強め,日本経済は戦争景気で潤った。朝鮮戦争を契機に日本の再軍備も始まり,日本の軍事力がアジアにおける反共軍事体制の一環に組み入れられる可能性が生まれた。朝鮮戦争期間中に,サンフランシスコ条約・日米安全保障条約も締結され,アメリカ軍の指示で日韓国交正常化のための日韓会談も開かれた。こうして日本はアメリカヘの従属的地位とアジアにおける反共陣営の一員としての地位が決定された。これを見ても朝鮮戦争が日本の戦後史にいかに大きな比重を占めているのがわかる。
【日韓体制下の日朝関係】アメリカの指示で1951年から始まった日韓会談により,1965年,日本はその植民地支配処理の問題を,南半分の大韓民国政府のみを相手として日韓条約を結んだ。その結果生まれたのが,アメリカとともに日本が大韓民国政府の強化を直接支援する「日韓体制」である。日韓の癒着構造とは逆に,一方の朝鮮民主主義人民共和国とは国交もなく,一連の敵視政策が一貫してとられて来た。
【在日朝鮮人と日本政府の政策】70万以上を数える在日朝鮮人の存在は,いわば植民地支配の犠牲の一つである。しかるに日本政府は戦後今に至るまで,彼らに対する政治的・経済的・道義的責任を果たしていない。就職問題・民族教育・社会保障・指紋押捺などの差別が未だに彼らを苦しめている。
〔参考文献〕姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』1979,東京大学出版会
社会科学院歴史研究所,金曜顕訳『日本帝国主義下の朝鮮』1978,朝鮮青年社