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沖縄戦
<1>『集団自決』消えぬ苦しみ
ギュッと閉じたまぶたに六十年前の光景が浮かぶ。母を殺さざるを得なかった苦しさを、ためらいながらも伝えようとする七十六歳の牧師の顔がゆがんだ。
沖縄本島西に浮かぶ慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷島に米軍が上陸したのは一九四五年三月二十七日のことだった。
降り注ぐ砲弾と豪雨。深夜。特攻のための秘密部隊「海上挺進(ていしん)第三戦隊」の陣地に近い島北部の谷間に集められた六百−八百人の島民の中に、当時十六歳の金城重明さんもいた。
「米兵に捕まれば惨殺される。天皇のために死ぬのが大切だと教えられてきた時代でした」
友軍と運命をともにするという死の連帯感が体中に満ちるのを感じた。一週間ほど前、軍が島民に手りゅう弾を配った時、沖縄戦のむごさを象徴する「集団自決」の引き金に、指はかけられていた。
「天皇陛下万歳」。翌朝、村長の三唱を合図に、家族が一緒になって次々と手りゅう弾を爆発させた。不発で死にきれなかった家族はさらに悲惨だった。自らの手で家族に手をかけていったのだ。
金城さんの目前で、へし折った小木を手にした男性が妻子をめった打ちにし始めた。驚きにすくんだが、「これがやるべき死に方なんだ」と悟った。
自分たちを殺してくれるはずの父とは、前夜の逃避行で離れ離れになっていた。二つ年上の兄と二人で、最初に母に手をかけた。泣き叫びながら、石を持った両手を打ち下ろす。母も泣いた。気が付くと声が聞こえなくなり、母の体は動かなくなっていた。次に九歳の妹と、六歳の弟の命を絶った。どうやって手にかけたのか記憶はない。
■ ■
渡嘉敷島の対岸に位置する座間味(ざまみ)島で、戦後生まれた宮城晴美さん(55)の家族も「集団自決」の生き残りだ。米兵に追いつめられた避難壕(ごう)の前で、祖父は妻と子どもたちののどを切り、自分の首もかき切った。
十一歳の末の息子をのぞいて、奇跡的に全員が命を取り留めたが、死にきれなかった者たちの戦後の苦しみは想像を絶した。
「首切り!」。声を失った祖母は、器具を通したかすれた声でいつも祖父をなじった。そんなとき祖父は何も反論せず、ただ悲しそうな顔をするのだった。夫婦は互いに傷つき、戦後を生きた。
■ ■
渡嘉敷島ではあの日、約三百人の島民が死亡したとされる。兄と死を決意した時、金城さんの耳に「どうせ死ぬなら、米兵に切り込もう」という声が聞こえた。
「皇国民らしく死のう」と思い直し、谷間を出た金城さんが見たものは、全滅したはずの日本兵の姿だった。軍への信頼感は音を立てて崩れていった。捕虜になることで二人は命を取り留めるが、金城さんの戦後もまた、苦悩に満ちたものとなった。
こうした「集団自決」は沖縄本島の読谷村や南部戦線でも起きている。犠牲者は千人以上といわれるが、全容は分かっていない。
取材に訪れた沖縄では、戦後定着した「集団自決」という言葉を、「集団死」と言い換えるべきではないか、という議論が繰り返されていた。「自決」という言葉は民間人にはなじまず、死の判断ができない乳幼児の犠牲も多かったことなどが、その理由だ。
金城さんは「自決」という言葉につきまとう、自発的な意味が受け入れられない。「誰が好きこのんで肉親を殺すのか。生き残ってしまう恐怖に追い込まれた私たちに、死の選択肢しかなかった」
一方、沖縄戦の研究家でもある宮城さんは「自決」という言葉にこだわる。「『集団死』という言葉に、あの悲劇を伝える力はないと思うから。この世の地獄というべき体験が、言葉の言い換えで埋もれないようにしたいのです」
証言者たちが次々と他界する中で、今なお手探りが続く沖縄戦の実相。それが沖縄の終わらない戦後を象徴している。
◇
国内最大の地上戦となった沖縄戦から六十年。沖縄の戦闘は軍と軍との戦いだけではなかった。老人や女性、十代の少年までが動員され、手りゅう弾を持って戦車に体当たりしていった。重たい「記憶」を抱え、今も胸を痛め続ける人々の戦後を追いかけた。
◇メモ <沖縄戦>
1945年3月26日に慶良間諸島に上陸した米軍は、4月1日、沖縄本島に上陸。本土防衛の「捨て石」とされた沖縄は、日米両軍と県民合わせて20万人余が死亡する激戦地となった。マラリア病死や餓死などを含めると県民の犠牲者は、当時の人口の4人に1人に当たる15万人前後と推定される。6月23日、沖縄守備軍「第32軍」司令官、牛島満中将の自決で日本軍の組織的戦闘は終結したが、正式な降伏文書が交わされたのは9月7日だった。
社会部 西田義洋・佐藤直子
(2005年5月2日)