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(回答先: 大躍進時の餓死、ベトナム侵攻など触れず 中国教科書にも問題とAP通信 投稿者 かずや 日時 2005 年 4 月 15 日 23:09:18)
台湾「反国家分裂法」
法輪講弾圧
天安門事件
チベット民族浄化
http://humanzu.hp.infoseek.co.jp/genron/tibet.html
文革3000万人粛正
そして昨年の公開処刑。。。。写真有り
http://homepage3.nifty.com/kyoho-enzai/ankoku/ankokutairiku.html
http://www.dailychina.net/bbs/zboard.php?id=hot&no=11
それでも日本政府は「北京オリンピック開催」を支持するのか?
日本人なら、一度は以下の記録を目にすべき!
そして、在日半島人の方々も。
「誰か昭和を想わざる 惨めたるかな通州事件」
http://www.geocities.jp/showahistory/history1/12c.html
日本の対中感情の悪化というのは現地での虐殺事件と共にあった。古くは大正9年の尼港事件、
ロシア人や中国人の共産ゲリラが日本人700人以上を殺害した事件である。被害者の半数が民間人で、
非常に残虐な殺され方をした。
昭和3年の済南事件では中国兵に日本人居留民400人近くが殺害され、その殺され方が余りに残虐なので
日本で反中感情が高まった。中国側たちあいの下での検死では、頭の皮を剥がれたり、目をくりぬいて石を
詰められたり、女性は顔の皮を剥かれ陰部に木を差し込まれるなどの日本人の常識では考えられないような
殺され方をした日本の民間人の死体の様子が記されている。
中国人は日本人だけに対して残虐な殺し方をするのかといえば、蒋介石軍が直魯軍の武装解除兵士3000人を
殺害するなど同じ中国人にも同様な虐殺を行っているので、これはあるいは現地の人にとっては特別な出来事で
もないのかもしれない。
昭和12年7/28夜10時頃、河北省にあった日本の傀儡現地政権である冀東防共自治政府の首都通州=写真
右、虐殺事件前の平穏な頃撮影=は何やら不穏な空気に包まれる。
通州には380人ほどの日本人、朝鮮人が居留していた。なお当時は朝鮮半島出身者も日本人としてカウントされ
ていたので、中国側も朝鮮半島出身者は日本人同様に見なしていた。
7/29午前3時半、現地政府の中国人保安隊が突如、日本人居留民を襲撃、うち200人ほどが殺害された。
2日後に駆けつけた日本軍守備隊に無事に保護されたのは日本人77人、朝鮮人58人だけであった。
殺害された日本人、朝鮮人はただ殺されたのではなくて凄惨な手口で殺害されていて、まさしく虐殺であった。
命からがらこの通州から逃れた同盟通信記者はこう証言している。宿舎のホテルに乱入して来た保安隊の中国人
兵士によって日本人は縛り上げられ、「決して危害は加えないから安心してついて来い」と引き立てられていっ
た財政庁には同様にして連れて来られた100人ほどの日本人、朝鮮人がいた。すると突然、保安隊は100人の民
間人へ無差別射撃を行い、次々に倒されていったという。記者は運よく弾が当たらなかったので、城壁をよじの
ぼってそこから川へ飛び込み、通州脱出に成功したのだった。
現地政府の中国人保安隊は日本人を保護する存在であると、通州の日本人らは固く信じていて、盧溝橋事件も
あったので北京から通州へと避難してきていた日本人も70人近くいた。
通州事件で殺された日本人は女性や子供も区別なく、多くの死体は性別がわからないほど残虐な殺され方をして
いた。この時に助かった日本人、朝鮮人のほとんどは、普段から親しかった中国人の家にかくまわれて、2日後
の日本軍の通州入りまで息をひそめていたものだった。
中国人保安隊は日本人の2歳の女の子の頭をピストルで撃ち抜き、3歳の男の子も虐殺、事件の後に通州を訪れ
た新聞記者、日本軍関係者らは屍臭のひどさと外に散乱している日本人、朝鮮人の死体の余りの酷さに言葉もな
かった。通州には警官や特務機関の軍人なども少数いた事はいたのだが、通州の治安を守るのが中国人保安隊の
職務で、日本人警官や軍人らのほとんどが抗戦する間もなく殺されてしまっている。
日本人の死体のほとんどは首に縄がつけられており、旭軒という飲食店には10代から40代までの女性7、8人
がレイプされ裸のままで射殺されており、そのうちの4、5人は陰部を銃剣で突き刺されていた。錦水楼という
旅館では女将や女中らが手足を縛られたままレイプされて斬首されていた。男は目玉をくりぬかれた死体で見つ
かった。
さらには民家から手の指を揃えて切断されている子供の死体、首を縄で縛り池に投げ込まれた家族6人の死体も
あった。日本軍が駆けつけた時の日本人の生存者の中には鼻に針金を通された子供、片腕を切断されたお婆さ
ん、腹を銃剣で刺された妊婦などが命からがら助けを求めてくるといった有様だった。
冀東保安隊第一総隊長であった張慶餘の「冀東保安隊通県決起始末記」などには中国人保安隊側から見た通州
事件が記されている。昭和10年11月の冀東防共自治委員会成立により河北保安隊が冀東保安隊と名前が変わり、
張慶餘は河北省主席の商震に指示を仰いだが、しばらくの間、表面を糊塗するようにと言われた。
その後、張慶餘は中国国民党軍の宋哲元と面会した折に、抗日の意思を示して激励を受けている。
張慶餘に言わせるとこれが通州事件の伏線であった。昭和12年7月の盧溝橋事件で、張慶餘は河北省主席の
馮治安に指示を仰いだところ、馮は宋哲元率いる第29軍の開戦に呼応して通州で決起するように言ったという。
蒋介石の南京政府は日本軍敗走のデマ放送をしきりに流していて、これを信じた張慶餘ら通州の中国人保安隊ら
は蒋介石軍が通州に攻めてきたら自分たちが殺されるかもしれないと、浮き足だっての決起であったとも言われ
ている。
この通州事件は戦前の日本人のほとんどが知っている有名な事件であったが、戦後はまったく取り上げられな
くなった。
薄々感づかれた方もいるかもしれない。この中国人保安隊の日本の民間人へ行った虐殺の手口というのが、戦
後、日本軍が中国人に行ったとする虐殺の手口に酷似している事に気づかれれば、なぜ通州事件が戦後、封印さ
れてしまったのかは想像がつくであろう。
妊婦の腹をえぐり、レイプした女性の陰部を銃剣で刺し、2歳の子供を射殺する−。
これらの出来事がすべて中国人保安隊の犯行であるという事は、日本軍が中国で行ったという類似の虐殺事件の
正体は一体、何だったのか、本当に日本軍がそんな事をしたのか、という疑問を誰もが持つであろう事を日本を
占領統治していた連合軍が恐れたのだった。
こうした残虐な殺害手法は中国の歴史にはあるが、日本人の感覚では理解を絶するものであるのだ。
参考
東京朝日新聞各記事など 1937
中村粲「大東亜戦争への道」 1990
東中野修道「『南京虐殺』の徹底検証」 1998
http://www.geocities.jp/showahistory/