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【評伝】ローマ法王 平和へ130カ国行脚 教会大改革を断行
法王ヨハネ・パウロ二世(本名カロル・ボイチワ)は一九二〇年五月十八日にポーランドのクラクフ近郊で生まれた。少年、青年時代をナチス・ドイツ占領下、次いでソビエト支配の共産党政権下で過ごし、この時代に「反共産主義者、反独裁主義者、人権擁護論者、平和主義者」の面を兼ね備えた、将来のカトリック教会指導者の素地ができ上がったといえる。
七八年十月十六日に第二百六十四代の法王として選出されると、まず、ポーランドの自主管理労組「連帯」の精神的支えとなり、同国に東欧圏初の非共産政権が誕生する原動力ともなった。
この共産党離れの流れは、やがて「ベルリンの壁の崩壊」に象徴される東欧社会主義圏の崩壊にまで拡大したのである。八一年五月に法王がサンピエトロ広場で祝福中にトルコ人テロリストに狙撃されて、腹部に重傷を負った事件には、法王の影響力を恐れた東欧共産国の秘密情報機関が介在したとうわさされた背景も、そこにあった。
事件以来めっきり体力の衰えを示し始めたにもかかわらず、法王は死去数カ月前まで、高齢と病身を押して布教と平和を訴える世界諸国行脚を続ける。法王は日本を含む百三十カ国以上を訪れ、その全行程は地球の円周の約三十倍、地球と月との距離の三倍に及んだ。世界の国家元首でこのような膨大な距離の外国訪問ができる者は過去、現在、未来を含め誰もいないのではなかろうか。
法王は反共主義者ながら、資本主義に根を張る物質文明、消費文化も強く批判、先進諸国に貧困と飢えに悩む低開発諸国への援助を訴えてきた。
平和主義者の法王は、武力による国際紛争の解決にも強く反対し続け、イラク戦争を前にして米英軍の進攻に反対、最後まで双方の代表を招いて対話解決を諭し続けた。このためにこそ二〇〇三年のノーベル平和賞候補にも挙がったのである。
カトリック教会内部にも大変革をもたらし、二千年の聖年に際しては、ローマ・カトリック教会が過去千年余の間に犯した過ちでそれまで不問に付してきた問題、つまり東西教会の分裂や十字軍遠征、ユダヤ教徒迫害、異端審問などの非を率直に認め謝罪している。
一九八三年には聖人、福者任命の手続きを簡素化し、自らの手で二〇〇五年二月二十五日現在までに四百八十二人もの聖人を誕生させた。この数は自身の即位までの約四百十年間に叙せられた聖人総数が二百九十六人だったことを考えれば、その大きさが理解できる。
半面、その保守強硬姿勢が各方面で議論を呼んできた。「生命はすべての段階で尊重されるべきだ」として、アフリカなどでの人口爆発やエイズの蔓延(まんえん)を前にしてもコンドームの使用や中絶を認めず、七〇年代以降の中南米で貧しい民衆の救済を目指し左派勢力との共闘も辞さなかった「解放の神学」を峻拒(しゅんきょ)した。
ヨハネ・パウロ二世の即位前はローマ法王は四百五十五年の長期にわたり、イタリア人枢機卿からのみ選ばれてきた。
法王は在位中、法王選出権を有する枢機卿の数を大幅に増やし、新枢機卿の任命に当たっては出身地が世界の全地域を網羅するよう配慮。枢機卿団内のイタリア人比率は極めて小さくなり、次期法王もイタリア人でない可能性もある。ヨハネ・パウロ二世は、カトリック教会史に計り知れない大きな足跡を残した偉大なる法王だったといえる。(坂本鉄男)
http://www.sankei.co.jp/news/morning/04int003.htm