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戦後60年の原点:
沖縄・1945年 4月1日、本島上陸
◇沈黙の海岸、米軍殺到
グスクは「城」の字を当てるが、本土のそれとは趣を異にする。高台に照り返す石積み、そのたおやかな曲線は単なる城の印象を超えて、信仰や神秘の世界を感じさせる。
沖縄本島・読谷(よみたん)村の座喜味(ざきみ)城跡。この石積み上に立てば、東シナ海を吹き渡る風に身をさらし、中部西海岸が一望できる。その果てに丘陵、高地がたたなづき、琉球史を代表する壮麗な王府、首里城跡へとつながる。
まどろむような風光。この座喜味城跡眼下の海岸に60年前のきょう、米軍の上陸用舟艇や水陸両用戦車が殺到し、本島に第一歩を刻んだ。午前8時半だった。
日本の守備軍は沈黙した。し烈な反撃を覚悟していた米兵たちは拍子抜けの表情で内陸へ進み、主要目標の読谷と嘉手納(かでな)の飛行場をあっさり占領した。従軍記者は「まるでピクニック」と書いた。
一方、守備軍の将官たちは首里(しゅり)城郭からこれを遠望していた。紫煙をくゆらし、談笑する者もあったという。
奇妙な静けさに始まったこの持久戦法とその破たんが、後に住民の犠牲も拡大することになる。
そのころ、東京・上野動物園。カバの大太郎が冷たくなっていた。
都は1943年、空襲で脱走した場合に備える、を理由に「猛獣処分命令」を出していた。ふらつきながら芸をして餌を求め、飼育係を号泣させた人気ゾウの話はあまりに有名だが、大太郎も子供に人気があった。絶食13日目の朝だった。
この日からラジオ放送時間が短縮されてニュース主体になり、午前午後各3回の休止時間を設けた。10年続いていた学校放送もなくなった。真空管の不足、疎開児童の急増などが原因だった。
日本中がすべてに余裕を失い、絶望の陰りが濃くなった。一方で沖縄の戦いにかすかな期待をにじませる声もあった。反骨のジャーナリスト、清沢洌(きよし)のこの日の日記はある法学者の弁を記す。
「沖縄島方面で敵に大打撃を与え、それで和平の時期を狙うのがいい」
過酷な期待だった。
◇死者20万人
日本の生命線である南方ルートを完全に断ち、本土上陸の拠点を得るため、米軍は沖縄攻略に後方部隊も含め総計約54万8000人を投入。3月26日から那覇西方の慶良間(けらま)列島を制圧し本島攻略の足がかりを作った。ここでは多数の住民の「集団自決」事件が起きた。
本島上陸は4月1日。日本の沖縄守備軍は現地徴集者、学徒隊も含め約12万で、この劣勢に水際決戦は避け、長期に相手に消耗を強要する「出血持久戦」を採用、首里城跡を司令部に中部丘陵地帯に迎撃の布陣をした。
「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の空海陸からの猛砲爆撃の中、中部戦線の激闘は5月中旬まで続いた。陥落寸前、司令部は南下して徹底抗戦することを決定。この後退で、既に壕(ごう)や洞くつなどに避難していた住民が追い出されて戦火にさらされたり、虐殺、自決強要などの惨劇も起きた。
6月下旬には南端の摩文仁(まぶに)周辺で日本軍は壊滅した。死者日米双方合わせて20万人を超し、うち一般住民が約9万4000人を占めた。軍に組み込まれた「鉄血勤皇隊」「ひめゆり学徒隊」など10代の学徒や朝鮮人軍夫なども多数犠牲になった。
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◇過去の悲劇ではなく、今も続く問いかけ
第二次大戦末期に日米両軍最後の決戦となった沖縄戦は、日本国内で唯一、無制限に一般住民を巻き込んで犠牲を強いた大規模地上戦だった。後に想定されていた本土決戦が現実のものになっていたら、おそらく、いや必ず、同じく「あらゆる地獄を一カ所に集めた」といわれた戦場が各地で再現されたに違いない。
この不条理と錯誤に満ちた戦いは、決して「過去の悲劇」ではない。作戦目的と指導の揺れ、住民保護優先の理念と策の欠乏、責任の分散、本音と建前の隔たり、メンツの呪縛。それらは旧日本軍が太平洋やアジアの崩壊戦線でしばしば露呈したものだ。これを今日の社会や組織のありよう、あるいは経済や政治状況といったものにも照らし合わせてみれば、私たちがいまだ乗り越えていない共通の問題を随所に見いだせるだろう。
そして何より、米軍が上陸して以来60年、沖縄は不沈空母と化し、安全保障の名の下に今も全国の米軍基地の4分の3を背負わされ続けている、その現実に私たちは思いを致さなければならない。
本土にとって沖縄はいつまで「防波堤」であり「捨て石」なのか。この切実な問いかけの出発点に沖縄戦がある。
3カ月に及ぶ戦いと本土のさまざまな日々の断面を、この60年間集積された証言記録、調査資料、史実などをもとに日ごとに再現する。そして沖縄を「時間稼ぎ」の犠牲にしつつ破局の坂を転がり落ちた3カ月の「空気」をわずかなりとも感じ取りながら、戦後60年の原点の一つとして考えたい。【玉木研二】
(引用文献などで原文の旧漢字、旧仮名遣いは現代の字体・表記に改め、片仮名文は平仮名にします。引用・参考の文献、資料などは最終回に一覧掲載します)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050401dde041040031000c.html