現在地 HOME > 戦争68 > 920.html ★阿修羅♪ |
|
記者の目:
イラク戦争2年 布施広(論説室)
2年というより3年半が過ぎたのである。03年3月に始まったイラク戦争の背景には01年9月の米同時多発テロがある。2度の激震を経た世界はいまだ着地点を模索し、米国や欧州、イスラムなどの価値観がせめぎ合う。「日本人として考える」ことが、今ほど大切な時代はないと思う。民族主義を鼓吹するわけではない。偏った情報や分析に惑わされず、じっくりと腰を落として冷静に考えたいと思うのだ。
テロや戦争が続けば人の考え方も荒っぽくなる。身勝手にもなる。イラクの選挙が成功したからイラク戦争は正しかった、などと主張する人々がいる。戦争を批判すると、ではフセイン(元大統領)の復権を望むのか、と言う人もいる。単純であることに気付かない、あるいは恥じないでいい時代に、私たちは生きているのではないか。
冷静な思考や分析は、初当選時のブッシュ米大統領や共和党が重んじた「インテグリティー(正直さ、誠実さ)」を必要とする。01年1月、ワシントンで大統領就任式を取材した時、ブッシュ氏の目に涙が浮かぶのを見て、ああ良かったと思ったものだ。個人的な感慨ながら、当時「ブッシュ乗り」だった私は、激戦の大統領選を実はハラハラしながら見守っていた。
それから4年。今年1月の2期目の就任演説は米国からのテレビ中継で見た。ブッシュ氏は40回近く「自由」という言葉を使った。だんだんシラけてきて、ついにイスラム世界の説教か演説を連想したのは、私がかつて中東特派員だったせいだろうか。コーランを引用し「神は偉大なり」と繰り返す演説に、日本人が共感するのは難しい。そんな空疎な感じを、米大統領の演説に対して覚えたのだ。
4年前、ブッシュ氏の当選を喜んだのは、氏の正直なイメージに期待したからである。米国の指導者として「イラク戦争には問題があった」などとは言えまい。だが、演説で「自由の拡大」や「圧政の終えん」など、誰も反対しない言葉を繰り返して自身の正当化を図るのは、あまりに見え透いた手法である。見苦しいものを見せまいとして、遠くの山脈を指さすような行為は、誠実さを重んじる政治家には似合わない。
反省の時なのである。01年9月の同時多発テロの直後、わがワシントン支局にはテレビが増設され、3大ネットとCNN、フォックスなどを同時に見る生活が始まった。あるテレビは愛国心を鼓舞するように、はためく星条旗を画面の隅にあしらっていた。そんな雰囲気のもとで米国はイラク戦争へと突き進んだ。
戦後になると米マスコミは、大量破壊兵器が見付からないことから政権批判を強め、一部有力紙は自らの報道を反省する検証記事を掲載した。だが、イラク移行国民議会選挙が行われ、レバノンからのシリア軍撤退要求が高まると、イラク戦争が「結果的に」中東民主化に貢献したといった論調も生まれてきた。
揺れやすいのである。同時テロ以降、ワシントンで原稿を書き続けた私自身にも反省はある。だが、マスコミも含めた米国社会に限っていえば、この国は中東・イスラム世界を体験的にはよく知らないし、知る必要も感じていないようだ。だから、「同時テロにおけるアルカイダとフセイン政権の連携」といった、イスラム的には面妖な話が堂々とまかり通ったのだろう。
フセイン元大統領を批判することに異存はないが、彼を悪とし米国は善だとする「善悪二元論」では、結局のところ「鬼畜米英」といったスローガンの域を出ない。米政権に根を張るネオコン(新保守主義派)はユダヤ教と結び付き、大統領選で強い影響力を持ったキリスト教右派もイスラムに厳しい。イスラエルの繁栄が救世主の再来を促すと信じるキリスト教徒(クリスチャン・シオニスト)は、米国に何百万、何千万の規模で存在するという。
こうした特殊事情はイラク攻撃の動機と無関係ではないだろう。だが、米国でも大統領の支持率は低迷している。イラク戦争に対する人々の漠たる疑問を解消するには、単純な善悪二元論では無理なのである。
一方、米国と同盟関係にある日本特有の問題として、寺島実郎氏(日本総合研究所理事長)は「仕方ないんじゃないか症候群」を指摘する。米国についていくしかないという「自虐的な自己納得の中で歩んでいく危険性」を認識すべきだというのだが、「自虐的」とは限るまい。テレビを見ていると、なかば本能的に米政府の意向を代弁したがる日本人もいるようだから。
流されずに、納得がいくまで考えることにしよう。後世の人から「単純・短絡の時代」と総括されないために。
毎日新聞 2005年3月30日 0時11分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050330k0000m070165000c.html