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米国のアフガニスタン攻撃などを支援する自衛隊派遣から半年を経た2002年5月の連休。額賀福志郎・元防衛庁長官は米フロリダ州タンパの米中央軍司令部を訪れ、不思議に思った。
「あれ、なぜ日の丸がないんだ」
対テロ戦争の「有志連合村」では、「協力国」の旗約30本が翻る中、日本の国旗はなかった。理由は単純だった。自衛隊の連絡官を派遣していなかったのだ。
米国防総省がこの年2月に公表した26の協力国のリストから日本が漏れたのも、タンパの連絡官不在が原因だった。
政府は当初から、自衛官派遣を検討していた。だが、外務省が「外交官もセットで送りたい」と主張。米側に「軍人以外は入れない」と拒否された後、調整は全く進んでいなかった。
額賀は帰国後、政府に「米艦船などに燃料補給している以上、早く連絡官を出すべきだ」と働きかけた。
外務省は外交官派遣を断念し、同年8月、1等海佐と3等空佐がようやくタンパの地を踏んだ。
有志連絡村には当時、30数カ国、300人以上の連絡官が詰めていた。日本の連絡官2人は海辺のトレーラーハウスを改造した事務所を拠点とし、毎日、中央軍司令部の作戦会議に出席した。入手できる米軍情報は飛躍的に増えた。
各国との情報交換も活発だった。海自の給油に関心を持つ国が「わが国にも可能か」と打診してきたこともあった。「針小棒大になろうとも、とにかく日本の活動をPRした」と、ある連絡官は振り返る。
日本が最も重視していたのは、米国のイラク攻撃に関する情報だった。
ある米統合参謀本部幹部は予言していた。
「我々の方針はストレート、ジャブ、ストレートだ」
アフガン攻撃後は、世界各地でのテロ掃討作戦で一息つく。その次が”本命”のイラク攻撃という意味だ。
イラク情勢が緊迫した翌年1月初め。米軍がタンパの有志連合村内に「イラク村」という独自グループを作った。入れたのは、30数カ国のうち、イラク攻撃への具体的な支援表明という「踏み絵」に合格した英国など数カ国だけだった。
日本も懸命にイラク村入りを目指した。加藤良三駐米大使は3月15日、「戦後復興支援」「テロ対策特別措置法に基づく対米支援の拡大」「在日米軍施設の警備」など6項目を米側に提示した。現行法の枠内で、ぎりぎりの内容だった。
だが、米軍の回答は「ノー」。「検討中の支援策では実際の作戦に役立たない」という軍隊らしい冷徹な反応だった。
加藤は「奥の手」を使った。15年来の友人のアーミテージ米国務副長官に仲介を頼んだのだ。
アーミテージは国防総省の担当者に電話すると、独特のだみ声で一喝した。
「一体、何をやってるんだ。我々は日本の支援を頼りにしているんだ。彼らをタンパに入れろ」
急転直下、日本のイラク村入りが決まった。開戦4日前の3月15日のことだった。このエピソードは、関係者の間で「最後の2日間の逆転劇」と語られた。
イラク村での初日。大塚海夫1等海佐がコンピューターの電源を入れると、画面に
「Shock and Awe(衝撃と恐怖)」の文字が躍った。イラク戦争の第1段階の作戦計画名だった。米軍が想定する作戦内容や部隊配置なども入手可能となった。
協力する国だけが情報を共有できる。有志連合村は、「ギブ・アンド・テーク」の世界そのものだった。(敬称略。肩書きは当時)
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小説だったらまだよかったのに、と思う。これが現実の日本の姿なのか。愕然とした。
この記事を読む限りにおいては自衛隊が外交を演じていることになる。
外務省は足を引っ張っているというニュアンスだ。
『さらば外務省』の天木直人さんのイラク戦争反対の外電とは正反対の道を「外交」といっているわけだ。一体これのどこが外交なのか。
読売新聞は日本がアメリカの戦争に参加することがそんなにうれしいのだろうか。
こんな新聞を日本中の多くの人がおかしいと思わずに読んでいることは恐ろしいことだ。
日本は戦争を放棄したはずなのに。
この記事でわかることは多い。日付や個人名、組織名がはっきりと記されている。
この動きと小泉の国会などでの発言を比較してみると面白いのではないか。