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□サダムの時代の方が良かった/マルコム・ラガウシュ [イラク情勢ニュース]
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URUKNEWSイラク情勢ニュース (転送・紹介歓迎)
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2005/03/19(土)
[飛耳長目録 today'snewslist]
☆サダムの時代の方が良かった byMalcomLagauche
Saddam'slookingbetterallthetime
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☆★サダムの時代の方が良かった
Saddam'slookingbetterallthetime
LAGAUCHEISRIGHT 2月25〜26日
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http://www.malcomlagauche.com/id12.html
マルコム・ラガウシュ
MALCOMLAGAUCHE
February25-26,2005
「彼らは花束とキャンディーを手にしてわれわれを歓迎するだろう」−−
2003年3月の違法なアメリカのイラク侵攻に先だって、引退したバリー・マ
カフリー将軍は、全国放送のテレビでこう述べた。彼の引き立て役も同意し
た。唯一の見解の相違は、その仕事をこなす期間にあった。18の勲章を授
かった将軍が6日と言ったのに対して、彼の仲間は3日だと言った。そのと
きスコット・リッターは彼らの脇で頭に両手を回していた。彼は当惑し、疑っ
ているというしぐさで首を前後に振った。
ほぼ同じ頃、当時イラク副首相だったタリク・アジズは、イラク国民は明ら
かにアメリカ人を歓迎するだろうと述べた。そしてイラクはキャンディーを使
いはたしたとお詫(わ)びを述べ、イラク国民はその替わりに弾丸を使わな
ければならないと表明した。アジズとリッターが正しかった。
これは簡単なことではなかったが、アメリカの政権は民主党も共和党も妄
想を実行に移すことを決定した。「誰もがサダムを憎んでいる」と彼らは言っ
た。彼らがその情報を受け取ったのは、完全に信用されなくなっていた20
〜30人ばかりの亡命イラク人からだった。それにこの連中ときたら、アラウ
ィとチャラビを含めて、ウソをついてはワシントン(米政府)から給料をせしめ
ていたのだ。
いや、論理的な思考の持ち主なら誰であれ、侵略がスムーズにおこなわ
れないことぐらい明確に理解していただろう。一つの統治制度が30年も続
いてきた国を奪い取ったり、それを戦争によって変えることなどできはしな
い。教育、経済、安全確保など、イラクの社会基盤全体が長い時間をかけ
て築かれてきた。そしてこの面では、国はうまく機能していたのである。
ウソにもとづく違法な経済封鎖のもとでさえ、イラクは苦闘こそしたが、そ
れでもうまく機能していた。1991年には、配電網は完全に破壊されたが、
システムは5週間内に回復された。だが2003年3月の侵略からほぼ2年
たった今、アメリカの技術と管理のもとでは電気はイラクで贅沢品になって
いる。多くの家庭は、一日のうちに、よくて3〜4時間しか電気がこない。
語られない真実−−アメリカでは誰も承認しないが、イラク人はアメリカが
持ち出す論争点についてウソをつかなかったし、イラクは政権交代(レジュ
ーム・チェンジ)の準備がなかった。
確かにイラクにはサダム・フセインに反対する者がいたかもしれないが、
それは大衆的な運動になるほどの大きさではなかった。アメリカと手を組ん
だいわゆる反体制グループ(イラク国民会議やイラク国民合意など)のすべ
てが、ほんのわずかの人々を代表しているだけだったことを想起してみたま
え。そのうえ、彼らの一部は、決してイラクで生活しなかったか、イラクに来
たことさえなかった。彼らはほとんど承認を得てなかったのだ。
現在のイラクの指導者を見ても、何年も国外で生活したか、イラク国内に
いてテロ行為を命令した者さえいる。アラウィのグループは1995年のバグ
ダッドでテロ騒ぎを起こし、バスの停留所と映画館で一般市民を殺害した。
チャラビのグループはそれほど過激ではなかったが、欲張りなことでは負け
てない。彼らはアメリカに都合のよいことを主張して、数千万ドルの資金を
貯(た)めこんだのである。2003年4月6日には、チャラビが米軍にエスコ
ートされてイラクにやってきた。それは国の救世主としての華麗なる登場だ
と思われた。
そこで小さな事件があって、アメリカは彼の信頼性を疑い始めることになっ
た。彼はアメリカ陣営に、イラクでは10万人以上の「自由の戦士」を配下に
持っており、彼が帰国すると会うことになるだろうと言ったのだ。2003年4
月6日、チャラビはイラクに入ったが、彼の「自由の戦士」は1人も姿を見せ
なかった。彼の勢力の総数はゼロだったのに、彼は米国をダマして軍事組
織を持っていると信じ込ませた。
今では、おそらくイラクの次期首相になるであろう人物として、イブラヒム・
アル・ジャファリを迎えているが、彼はかつての誇り高いアラブの国の指導
者として米国モデルにぴったりである。ジャファリは宗教的にはシーア派で
あり、イラクはイスラム国家となるべきだと考えたことから、1970年代後半
にイランに逃亡した。イラン・イラク戦争の期間は、彼はイラクの一般市民に
対するテロ攻撃を指揮していた。それだけでは足りないなら、彼は1991年
の失敗に終わったシーア派の蜂起に加わっていた。
これら3人の人物は皆、イラクを改善するのでなく、イラクを破壊する行為
を背後で画策していたのだ。彼ら3人ともが2003年4月にイラクに戻ってき
たとき、3人が3人ともバグダッドに辿(たど)りつくのに道路地図を使わなけ
ればならなかった。言葉を変えて言うなら、彼らはイラク人ではなく、それ以
上にイランとかアメリカと親密だったのである。
サダムは倒された。いわゆる反戦的な人々さえ、この戦争は間違っている
が、少なくともサダムを追放できた、と表明する。同様に、「バグダッドを核
攻撃せよ」と言った者もいたかもしれない。それらはブッシュが使う論法と同
じである。大量破壊兵器はなく、ビン・ラディンとサダムの連携もなく、そして
この政権に関して聞かされてきた他の恐ろしいことの全部が、一つ一つ、今
ではウソだったと判明した。そのうちの幾つかをみてみよう。
●2003年には、イラク南部の集団墓地で40万体の死体が発見されたと
発表された。だが2004年6月18日になると、トニー・ブレア(英首相)はこ
の数字を引用したことを謝罪した。実際は5000に満たない墓が発見され、
しかもその大部分は『砂漠の嵐』作戦などの戦争で死んだ兵士のものだっ
たのだ。このニュースが一連のものとしてアメリカで流されることはない。
※訳註: 『砂漠の嵐』は湾岸戦争に米軍がつけた作戦名。
●「サダムは自国民を毒ガスで攻撃した」−−われわれはハラブジャにお
けるクルド人への毒ガス使用について何度も何度も聞かされた。だが現実
は、クルド人を殺害したのはイラン軍のガス兵器だった。1988年にCIAが
このことを報告し、2004年に再度CIA報告に盛り込まれた事実は、イラン
軍がクルド人を毒ガスで攻撃したということだった。
●1988年のアンファル作戦では、18万人と推計される人々がイラク軍
に殺され、そのほとんどがクルド人だった。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(人
権監視、団体名称)がこの数字を発表した。だが、18万人のうちの1人とし
て、その死体は発見されなかった。今日では、ヒューマン・ライツ・ウォッチは
ダマされていたことを認めている。
●アブグレイブ刑務所における「人間シュレッダー」という話は、イラク・オ
リンピック委員会の拷問部屋という話が偽造文書だと判明したのと同様の
偽造である。一つ一つ、その主張がウソであったことが実証されてきた。そ
れはサダム・フセインとその政府を悪魔のように描くために、アメリカが使っ
てきたウソだった。
現在、サダムは収容所の独房に座って読書をしたり詩を書いたり、またわ
ずかな花の手入れをしている。彼の裁判はおそらく開かれないだろう。とい
うのは、彼について語られてきた主張に、事実上、なんの証拠もないからで
ある。法廷は侵略への支持を取りつけるためにアメリカが用いた二枚舌を
暴露することになるだろう。ほとんど知られてない事実は、大量虐殺の訴え
は既に証拠なしとして取り下げられた。残る唯一の訴えと考えられているの
は、1991年のシーア派反乱の鎮圧とクウェート侵攻である。だがアメリカ
がグレナダ、パナマ、ソマリア、そしてイラクに違法かつ独善的に侵攻してき
たことから、これらの訴えも弱々しい。それに暴動から政府を守ることを認
めていない国というのは、この地球上には一つとしてないのだ。
もし彼が最近のイラクの選挙に立候補していたなら、サダム・フセインはお
そらく勝利しただろう、ということに言及する報道機関はない。彼は多くの票
を獲得したが、そのことは報道されなかった。以前には(サダムに)反対して
いた多くの者さえ、今ではサダムの復権を望んでいる。しかし、このことは、
私は一貫して言及するが、報道されることのないテーマである。
2003年9月25日にインターネットで初めて発表した私のコラムは、この
問題を論じたものだった。私はそのなかで、脱バース党という重大な間違い
が逆転するまで、イラクに平和は訪れないだろうと指摘した。ラガウシュは
正しかった。
※訳註: ラガウシュというのはこの文章の筆者名であり、<ラガウシュ
は正しい>というのがこのブログの名前である。
『砂漠の嵐』作戦のあと、サダム・フセインとはどんなタイプの軍事指導者
か、とシュワルツコフは尋ねられることがあった。彼は笑った。今、もしも彼
が個人として、また軍事専門家として正直な人間だったら、シュワルツコフ
はそのときの笑いを取り戻すだろう。
※訳註: シュワルツコフは湾岸戦争時の多国籍軍司令官
現在のレジスタンスは前もってサダム・フセインによって計画されていた。
それは強力であり長期に続くだろう。この計画は、アメリカにイラクを占領さ
せるものであった。なぜなら、イラク人は米軍が採用しているような進んだ
軍事機器を撃退することはできないことを十分に熟知していたからだ。その
あと、いったんイラクに引きこむと、米軍はゲリラ戦術の標的となった。
1974年、ボクシング世界ヘビー級のタイトル・マッチにおいて、モハメド・
アリは第7ラウンドでジョージ・フォアマンに連打を許した。そして第8ラウンド
になると、彼は疲れきったフォアマンをノックアウトした。その作戦は『ロープ
・ア・ドープ』と呼ばれた。私はイラク・レジスタンスの戦法を『ロープ・ア・ブッ
シュ』と呼ぶことにする。
※訳註: ロープ・ア・ドープ RopeaDope
興奮して気負った相手をロープ際に誘い込んで疲れさせる戦法
他に何もなければ、もしサダムが政権にもどってくるなら、1ヶ月以内にイ
ラク全土に電気が行き渡るだろう。今イラクで発生している恐ろしい損失と
失業、大虐殺は、ほとんどのイラク人にとって、もう、たくさんなのだ。
バグダッドにいる僚友(引退したイラク軍の大佐)に、選挙の総括とサダ
ム・フセイン票の消滅という問題を投げかけてみた。彼の返答は次のような
ものだった。
私たちは選挙の日には電気が灯(とも)るほど偉大な民主主義のなかにい
るんだ。突然・・・選挙の日に! なぜかって? 新しい候補を選ぶための一
休みだろう。だが多くの投票箱にサダム・フセイン票があったのに、それは
消えてなくなった。犯罪的な米軍がイラクに侵攻すると彼の姿が消えたよう
に・・・。イラクの国民はそのことを忘れていない。その男はいつも彼らに良
いことをしてくれた。この侵略者どもとは違って!」
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