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(回答先: 今朝の読売新聞「伊・誘拐事件CIA関与」のフォローどなたかお願いします。 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2005 年 3 月 15 日 19:41:56)
ジャック・どんどんさん
読売じゃないのですが、ローマの左傾全国紙から翻訳・転載します。
なんとも??な事件ですが、イタリアの役割って何なんだと自問自答中です。
記事中取材元がないのは、当事者がメディアにしゃべっているからです。
「CIA エジプト人の誘拐と拷問、イタリアで捜査中」
http://www.repubblica.it/2005/b/sezioni/cronaca/inchiestacia/inchiestacia/inchiestacia.html
ミラノ
ミラノの’反テロリズム’犯罪組織摘発は、少なくとも1ダースのCIA職員により
行われた。03年2月17日白昼、ジェンナー(Jenner)通りのイスラム教施設から
ほど近い路上で、42歳のエジプト人男性 ハッサン・ムスタファ・オサマ・ナスル
(通称アブ・オマル)が拘束され、同日アヴィアーノ(Aviano)の米軍基地に
移送された。そこでオマールは、殴打を受けながらの尋問を7時間に渡って受けた
という。2月18日朝、エジプトの拷問特殊施設として知られる刑務所に送還される
前のことで、彼はいまだそこに拘置されている。アブ・オマルは足と聴力に部分的
障害を負った。拘束を行った米エージェントの写真と書類(本物かもしれないし、
偽物かもしれない)を入手したミラノ検察は、誘拐・不法監禁で逮捕を求めるかを
検討中。これが実際に起きたこと。
まずはじめに、アブ・オマルとは何者だろう?冗談好きで、おそらくそれが行き過ぎた
人物かもしれない。ミラノに姿をあらわした時点から、好奇心を呼び起こす。
論議の的を肩に背負っていた。63年3月18日エジプト アレッサンドリア生まれ。
90年代に祖国を後にする。内偵記録(アメリカ、イタリア、エジプト)によると、
「アフガニスタンとボスニアの戦士」。96年、アルバニアでマルセラ・グリーナと
結婚。息子が生まれる。ティラーナを訪れていたエジプト外相暗殺計画を立てた
かどで告発を受け、国を慌てて後にする。ミュンヘン経由で97年5月初旬に
バーリ(イタリア)に姿をあらわす。99年、ローマ警察により難民認定。
滞在許可を取得。2000年夏、ミラノへ。ジェンナー通りのイスラム協会による
「無一文でこの町に来た人たちのための〜旅人の家〜」、コンテヴェルデ通り
18番のアパートに迎え入れられる。コンテヴェルデ通りはただの道ではない。
ミラノ市が捜査中である”アルカイダ構成員”数名もここに潜伏していた。
とにかくそのアパートは、ミラノ公安所轄の”状況証拠”である。アブ・オマル
とその友人たちの通話、面会、外出は監視下にあった。興味は無駄にはならな
かったようだ。その男は”大物”の雰囲気を自ら醸し出していたのだから。
烈火のごとき会話、文章。警察には”頭がいっちゃってる男”と映った。
一方彼の仲間には、ナルシストがかった”ぺてん師”と映ったようだ。情報局
には、マークすべき男と映った。ある事情通は(スパイではないと確信している)
欧州テロ組織を再編成できる男と証言した。アブ・オマルは周囲に、その用意
のある人物として振舞っていたのだ。
・・・
その同じ年、ジョージ・テネットはアブ・オマルのような人物が辿るであろう
運命を公然と口にしていた。当時のCIA長官は、10月17日の上下院公聴会に911事件
の証言者として立つ。「タワー攻撃後、CIAはFBIとの協力関係のもと、70名の
テロリストに国際司法機構(?)を設立した」”extraordinary rendition”と
名付けられたこれは、渡すべき”荷物”の配送に、米国主権は心遣いがいらない
方法だ。一旦目的地に到着した荷物の運命には、心配ご無用ということだ。
「CIAとFBIは、アルカイダとアルカイダの人的資源、技術の破壊を目指す
外交ポリシーを組織した」とテネットは語った。「我々はまた、50カ国で
36の親テロ組織を洗い出す作戦を行った。うち21は成功し、逮捕・収監・
監視、引渡しなどが実現していると私の耳には入っている」。
80年代後半に洗礼名を得た”extraordinary rendition”は、911事件の後に
ルーティンとなる。”荷物”の配達は常に同じ飛行機だ。04年11月付サンデー
タイムスは、CIAが’囚人’護送に使う乗り物を少なくとも2つ突き止めた。
5−14席のガルフストリーム(コードN379P)、旗印のない52席のボーイング
(コードN313P)。どちらもマサチューセッツの輸送サービス会社プレミア・
エグゼクティヴ社所有。ワシントンからヨルダン、モロッコ、イラク、
アフガニスタン、リビア、ウズベキスタンなどの海外目的地に飛ばしている。
エジプト便は頻繁だ。
・・・
ミラノに戻ろう。03年2月17日は月曜日だった。すべては12:00-12:15の間に
起きた。アブ・オマルがコンテヴェルデ通りのアパートの緑の門を出る。
「モスクに行く」と妻に言い残して。ジェンナー通りのモスクまでは1キロに
満たない距離である。コンテヴェルデ通りを歩いていたアブ・オマルは、向かい
から来た白の小型トラックが減速したのに気付き、歩みを速めてチアイア通りに
進む。小型トラックは大きく迂回し、グエルゾーニ通りで待っていた。市民公園
とクローチェ・ヴィオラ ゴミセンターを結ぶ両面通行の通りである。
”荷物のピックアップ”には、うってつけに思える場所だ。交通が途絶えることも
しばしばあるゾーンで、ジェンナー通りの交差点とチアイア通りは、2台の車が
もたもた駐車スペースを探すのに願ったり適ったりの場所であろう。白い小型
トラックの2人は、もう一台の車が通りをブロックしている間に、やすやすと
”荷物回収仕事”を遂行する。少なくとも12人。すべてアメリカ人だった。
彼らの連絡手段は携帯電話。少なくとも1週間前から、抜き取り作業を始めていた。
彼らがアブ・オマルの前に姿をあらわす。アブ・オマルは、グエルゾーニ通り23番
の標識の脇に後ろのドアを開けて待ち構えている白い小型トラックに気付く。
イタリア語を話すこの人物を、’警官’とめぼしをつける。アイデンティティ・
カードの提示を求められ、短い職務質問。オマルは圧倒されただろう。太っている
とはいえ1m65の体では、顔にスプレーを浴びせたあとに荷物室にたたきつける
力に抗えなかった。
グエルゾーニ通りに車はいなかった。目撃者もいない。いてはいけないはずだった。
市民公園から子供と一緒に出てきたエジプト人女性が、アブ・オマルの通りに
足を踏み入れる。あの2人の男がひそひそ話しているのに気付く。格闘の兆候を
肩に感じながら通り過ぎる。小型トラックのドアが閉まる大きな音と、猛スピードで
走り去る音を聞く。アブ・オマルが消えた。アブ・オマルはどこ?
ジェンナー通りのモスクに通う夫に、女性は目撃したことを話す。悪魔がしっぽを
ふった。(もし警察に証言を求められても、この女性は無言を通すだろう。そして
イタリアから消えてしまう)
・・・
アブ・オマルはどこにいる?消息を絶ってから2週間後の3月3日、米国情報局が
単独でひっそりことを進める。「確認できない消息筋によると、アブ・オマルは
バルカンにいるらしい」イタリア政府に通達。歪曲情報だ。あの時点では誰も
確認できなかった。これで話が終わったかのように見えた。
返事はアブ・オマルから届いた。04年4月20日、妻のナビラ(Nabila)が電話で
夫と話した日、情報はローマに届き、イタリアの新聞が記事にした。電話は
「アレッサンドリア管轄区」から。傍受記録より、妻を安心させたアブ・オマルは
200ユーロの送金と、もうメディアに話さず兄弟だけに伝えることを要求した。
アブ・オマルのことばは、”生きている”だけだったそうだ。同日再び電話が鳴る。
モハメド・リーダハ(Ridha)、クアランタ通りのモスクのイマムの家だった。
アブ・オマルのようなエジプト人たちの個人的友人である。2人が最初に電話で
話したのは5月初旬で、アブ・オマルは5月18日にもう一度電話をかける約束
をした。その日、グエルゾーニ通りで彼を乗せたトラックがドアを閉じたあの
時のことを語り始めたという。これが彼の話。
・・・
アブ・オマル「わたしを拘束した2人はイタリア人に見えた。少なくとも見かけは。
だが確信はない。彼らはわたしがスプレーで意識を失ったと思ったようだが、
小型トラックが走り始めてから足を動かすことができた。口にテープを張られたが、
目はそのまま。腕時計は外されなかった。5−6時間走っただろうか。トラックが
停まってドアが開くと、日が暮れていた。5−6時頃。米軍基地にいると思った。
飛行機の舵を見てわかったんだ。わたしを拘束した2人は、わたしをある部屋に
入れて去って行った。半時間後、4人やってきた。翌朝3時まで尋問を受けた。
最初はイタリア語で、しかし上手くしゃべれなかったようで英語に切り替えた。
ずっとひとつの点にこだわっていた。「お前はイラクにおける米国介入に反対する
プロパガンダを流した、米国への憎悪を扇動しながら。イラクに送る兵士を
リクルートしていたというのは本当か? ノーと答え続けた。事実ではないからだ。
彼らは同じ質問を繰り返した。ある時点で、わたしが書いたイタリアがリビアと
ソマリアでおかしたしくじり告発文章を見せはじめた。それから殴打が始まった。
深夜までこてんぱんに殴られた。それからわたしを飛行機に載せた。3人だった
と思う。席数の少ない小さな飛行機で、4時間ほど飛んでから別の米軍基地に
着いた。おそらくマル・ロッソ(MarRosso)基地だと思う」
技術的寄航だった。飛行機はまもなく離陸し、1時間後にカイロの民間空港へ
到着する。「タラップを降りるやいなや、エジプト人役人に引き渡された。
目隠しをされて最初はLazoughli、情報局の保護監視部屋に、そこからエジプト
内相の部屋に連れて行かれた。そこでのやりとりは簡潔。イタリアに戻りた
ければ、24時間以内に戻してやる。条件がひとつ。我々のために働け 」
拒否したアブ・オマルは、自らの運命を決めてしまった。03年2月18日同日、
トーラー、苦しみの町として知られる、に移送。”死ぬより辛いことが存在
する”刑務所の町へ。
アブ・オマル 「尋問は軽いものだったが、拷問はきつかった。すっ裸のまま
冷蔵室に入れられた。マイナス20度くらいか、体中の骨がぽろぽろ鳴る音が
聞こえた。凍傷にかかるころになると、今度は火が燃える部屋にひきづって
行かれた。少なくとも50度はあっただろう。別の日は床が水浸しの部屋に
寝かされ、電線を投げ入れられた。あの時の感電で、片足がよく動かなくなり、
背中の半分の知覚がなくなった」。
エジプト人はアブ・オマルから何を引き出したかったのか? クアランタ通りの
イマムに語ったところによると、”無駄な質問ばかりだった。ボスニアに
行ったか?アフガニスタンには? 目的は拷問で、質問はみせかけと思えた”。
実際は、彼らは彼からひとつのものを引き出したかったようにみえる。
それをクアランタ通りの友人に、誇らしげに託した。”名前のリストを見せられた
んだ。一番上に君の名前があった。モハメド・リーダハ。それからジェンナー通り
のイマムの名、アブ・エーマド(Emad)わたしの名前は3番目にあった。
ここから出たければ、君たちを彼らに引き渡せと言われたよ”。
アブ・オマルはトーラに14ヶ月いる。
”ここから生きて自分の足で出たければ、ここで起きたことをしゃべっては
いけない。エジプトには自分の意思で来た、イタリアで買った航空券でと言う
のだ”。アブ・オマルは署名し、04年4月19日に自由の身になった。しかしその月
20日と5月8日の電話がイタリアメディアに載ったことで、再び刑務所の門が開いた。
5月12日、エジプト情報局がアレッサンドリアの彼の家から拘束し、その日から
の消息が途絶えている。
彼は何者か? はたして真実を語っているのか?
・・・
上記はアブ・オマルの真実ではないが、2年前の2月17日の彼の周辺には、
ミステリアスな存在がある。”実行隊”CIAとFBIは雑多な痕跡をあちこちにふり
まき過ぎている。ミラノ検察アルマンド・スパタロによると、この組織は12時頃に
ゲルゾーニ通りにいた。同じ組織はまもなくアヴィアーノに向けて’移動’している。
同じ組織から、ローマの米大使館とバージニア州(ラングレーにCIA本部がある)
の利用者へ電話が発信されている。同じ護送隊は、翌日カイロに飛んでいる
(おそらくアブ・オマルとともに)。イタリア側の組織、調査官たちは、このとき
使われたテレフォンカードの使用者の名前を掴んでおり、ここから幾つかの名前が
あがっている。ここからグループが投宿していたミラノのホテル、小型トラック
他ミッションに使われた車を借りたレンタカー会社に繋がった。
通話記録、ホテルに残されたメモ、写真、レンタカーの契約書、、調査はこれで
解決しそうだ。しかしここで我々は、質問には質問、警告、論争で答える始める
べきだろうか?彼らはいったい、CAI反テロ特別チーム12人を誘拐で逮捕できる
のだろうか? ワシントンに彼らの引渡しを要求できるのだろうか?
グエルゾーニ通りでおきた extraordinary rendition を、ローマのイタリア
政府とイタリア情報局はどのくらいあとで知ったのだろうか?
・・・記事訳終了