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URUK NEWS イラク情勢ニュース (転送・紹介歓迎)
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2005/02/20 (日)
[飛耳長目録 today's news list]
☆現実を伝えることもレジスタンスの一つ
ソーシャリスト・ワーカー・オンライン 2月19日
☆イギリス兵、イラク戦争に反対し国防義勇軍を辞める
ガーディアン 2月15日 英字報道から部分訳
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☆★現実を伝えることもレジスタンスの一形態
To show the reality is also a form of resistance
ソーシャリスト・ワーカー・オンライン 2月19日
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http://www.socialistworker.co.uk/article.php4?article_id=5893
※ いきなりですが訳註:
ページ冒頭に、この記事を読む前に<Fallujah: the truth at last 英字/
ファルージャ:真実のきわみ>を読むようにとの案内註と次のリンクが示され
ている。写真は昨年末にダール・ジャマイルが紹介した写真帳でも見られた
もの。 http://www.socialistworker.co.uk/article.php4?article_id=5891
カメラマンのイッサム・ラシード・アブデル・ラフマンは占領に対する抗議場
面をイラクで撮影してから、やっかいなことになったと気づいた。そこで起こっ
たことを、彼はサイモン・アッサフ(=ソーシャリスト・ワーカーのスタッフ)に語
った。
私は、いつも、占領に反対したり国民の権利を求める抗議とデモを撮影し
ている。そのことが私をトラブルに引き込んだのだ。最初に逮捕されたのは
2003年だったが、2〜3時間後に釈放された。2度目はそれよりずっとひど
いものだった。
2004年の1月30日、米兵が私服姿のイラク人警官を伴って、午前3時に
私の家に現れた。彼らが私を連行しに来たことは判っていた。なぜなら、彼ら
は私の撮影を快く思ってなかったからだ。ドアを破られないように、私は自分
でドアを開けた。
丁重に対応したのは、彼らは相手が不作法だと思ったら、家屋を壊し、家
族に殴りかかるからだった。それに私は年老いた父親や、2歳と4歳の子ど
もを含む他の家族と一緒に住んでいたので、彼らに暴力をふるわせたくなか
った。そのために英語で、「どうぞ入りなさい、歓迎しますよ」と言ったのだっ
た。
彼ら(米兵)は私に、ジャーナリストのイッサム・ラシード・アブデル・ラフマン
かと尋ねた。そうだと答えたが、抵抗はしなかった。彼らはカメラとフィルム、
テープ等々を渡せと要求し、私はそれに従った。
しかし彼らは、他の資材を隠していると疑った。家中をひっくり返したのだ。
78歳の年老いた父親と子どもにまで身体検査をした。何も発見されなかった
のだが、監獄への連行は中止されなかった。
四日が過ぎて、アダミヤ地区の監獄に移送された。彼らは私の両手にプラ
スチック製の手錠をかけ、頭からは袋をかぶせたので、私は昼と夜とが判ら
なくなった。
数日間は食事も与えられず、飲み水もほとんどなかった。腹が減って、ノド
が渇いたうえに、恐かった。
最も辛かったのは手錠だった。眠りたいときでさえ彼らは私をしばりあげ、
袋をかぶせ、両手を背中の後ろにまわしたままにした。何日もそのような状
況におかれた。
何度か、特に夜には、息をするのも難しいことがあった。手錠はうごかすだ
けの余裕もなく、両手がマヒした。唯一親切にしてくれたのはメキシコ人(ラテ
ン出身の米兵)で、彼は私が辛そうなのを見て手錠をゆるめ、しばらくのあい
だ袋を外して、缶入りのコーラをくれた。
そうしてある夜、見知らぬ男が獄房にやってきて、尋問を始めた。名前を尋
ねられて答えると、彼は私を壁にぶっつけて、そして同じ質問を繰り返した。
私がジャーナリストでカメラマンだと告げると、彼はまたも私を壁にぶつけた。
私は女性の権利を求める抗議などを撮影しただけだと彼に話した。米兵が
私のカメラとフィルムを持っているので、私の行動を知ることができるはずだ
と彼に言った。
彼は私を殴り続けた。彼は情報を欲しかったのではなく、私を脅したかった
のだ。その後、私は別の房に移され、再び拷問された。今度は、彼らは私の
家族のことをなんでも知っているぞと脅した。家族の名前をあげて、彼らがど
こで働いているかを言った。彼らはさらに、私の子どもの通っている学校につ
いても、彼らの誕生日さえも知っていると言った。それはまさしく脅迫だった。
彼らは父の家を攻撃するぞというので、私は彼らが欲しいのは何か、そし
て、なぜ、こんな仕打ちをするのかと尋ねつづけた。しかし彼らは何も答えな
かった。脅迫そのものだった。
そのうち、私は知らなかったが、イラクにいるジャーナリスト、それもアメリカ
人のジャーナリストが私の釈放を求めてキャンペーンを開始した。イギリスの
NUJジャーナリスト連盟によるキャンペーンも加わって、このことに私はひじょ
うに感謝している。
私は釈放されたが、その後、もう一度逮捕された。今度は、アメリカ軍がモ
スクを攻撃し、金曜日の礼拝に集まった多くの信者を殴ったり殺したりしてい
る場面を撮影したからだった。
バグダッドのアブ・ハニファ・モスクは、(その時)1500人にのぼる礼拝者
で満員だった。50人ほどのアメリカ兵とイラク国家警備隊がモスクを包囲し
た。彼らは目つぶし用の閃光(せんこう)弾を投げつけて、人々にモスクから
離れるように絶叫した。
それで私は撮影を始め、彼らがモスクを離れようとする礼拝者を殴るのを
撮影した。兵士たちは彼らをライフルで殴打し、蹴っていた。
人々がパニック状態になり、他の者はアラーフ・アクバル(神は偉大なり)と
大声をあげはじめた。アメリカ兵はその声を聞くと礼拝者たちに発砲し、4人
を殺害、そのほかにも多くの負傷者をだした。
一人の米軍将校がその攻撃場面を撮影している私を見とがめ、殴りかかっ
てきた。さいわい、イラク人警官が私が殴られているのをみて、生活の糧(か
て)であるカメラを救ってくれた。しかし彼はテープを没収した。
米兵たちは私を彼らの車に乗せ、またも殴った。その後、兵士たちのなか
には私の腕にタバコの火を押しつける者もいた。最終的に、私はモスクの警
備員であり、礼拝の場所を警護するボランティアであることを示す身分証明
証を彼らに見せて、逃げ出した。6時間も虐待されたあとで、彼らは私を解き
放った。
これが米軍がイラクにもたらした奇妙きてれつな民主主義なのだ! 私た
ちの祖国は悲惨な場所となってしまった。しかし多くの者は、それぞれにでき
る方法で抵抗している。
私にとっては、最も重要なレジスタンスは、シーアとスンニが肩を組んでアメ
リカ人が私たちを分断するのを許さないということである。スンニとシーアが
占領に反対してデモをしているのを確認するために、シーアはファルージャ住
民を助けることにした。このこともレジスタンスである。そして私にとっては、
私の国で進行している事態をカメラで撮影し公開することもレジスタンスなの
だ。
(イッサム・ラシード・アブデル・ラハマン: チャンネル4そのほか多くの通信
社のために働いているフリーランスのカメラマン。)