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核心
2005.02.12
歴代首相にみる『9条』骨抜きの歴史
憲法九条には、「戦争を放棄し、戦力を持たない」と書いてある。しかし、戦後の世界情勢の荒波にほんろうされるように、警察予備隊に始まった自衛隊の活動領域は、なし崩し的に広がっている。憲法九条骨抜きの歴史を、歴代首相の答弁の変遷を中心に振り返った。 (政治部・吉田昌平)
■自衛戦争も放棄
一九四六年の憲法制定議会。吉田茂首相は九条の戦争放棄規定について「自衛権の発動としての戦争も放棄したものだ」と答弁した。
吉田氏は、過去の戦争は仮に侵略戦争に近いものでも、「自衛」を理由にして行われたものが多いと指摘。交戦権を全面的に放棄することで、世界平和実現の先頭に立つ決意を示している。
敗戦の傷あとが生々しかった当時。吉田氏の姿勢は多くの国民に歓迎された。このころは、「戦争放棄」「戦力不保持」をより明確にするための改憲論が議論されていたほどだった。
ところが、朝鮮半島情勢が不安定になると、米国側の対応が少しずつ変化。日本にパートナーとしての期待を強めていくようになった。
五〇年、朝鮮戦争が起きると、「治安維持が目的」の警察予備隊が創設。そのころ、吉田氏は「自衛権を放棄するとまで申したことはない」と答弁を修正、政府は迷走した。
実は憲法制定時、衆院で改正案を審議する委員会の芦田均委員長らの手で、九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が書き加えられていた。この「芦田修正」は、吉田氏が答弁を修正し始めたころから、「自衛の戦争は禁じていない」という政府見解の根拠として利用されるようになっていった。
■海外出動せず
警察予備隊は保安隊を経て、自衛隊に。こうした動きは、戦争放棄を支持する勢力からは「逆コース」と批判された。
ただ、国会や政府は、誕生間もない自衛隊の活動を厳しく制限しようとしていた。五四年、参院は「自衛隊の海外出動は行わない」と決議。その際、「一度この限界を超えると、際限なく遠い外国に出動することになることは、先の戦争の経験で明白だ」との提案理由が説明されている。
六〇年、日米安全保障条約改定の際、岸信介首相は「自衛隊が日本の領域外に出て行動することは、一切許せない」と断言した。岸氏は歴代首相の中でもタカ派として語られることが多いが、当時の答弁はかなり自制が利いていた。
■“禁”破り海外へ
ところが、こうした積み重ねも、一九九一年の湾岸戦争の発生を機に変質する。自衛隊はこれまでの“禁”を破り、海外出動の道を歩み出す。キーワードは国際貢献だ。
湾岸戦争後にペルシャ湾に遺棄された機雷の除去が目的で、海部俊樹首相は「憲法の禁止する海外派兵には当たらない」と力説した。
九二年、自衛隊は国連平和維持活動(PKO)協力法に基づいてカンボジアへ。「武力行使と一体とならないものは憲法上許される」という政府見解を根拠にしていたが“外国領土”での活動に初めて道を開いた。
■そして戦地へ
その後、自衛隊の活動は、対米協力の色彩を強めながら、さらに広がっていく。
九九年には、周辺事態法が制定。九六年の日米安保共同宣言に基づいて、日本周辺地域での米軍支援(後方地域支援)を可能にするものだ。この時、小渕恵三首相は同法の対米支援の範囲について「中東とか、インド洋とか、地球の裏側は考えられない」と答弁していた。
ところが、二〇〇一年には、米国によるアフガニスタンでのテロ掃討作戦支援のため、テロ特措法をつくり、インド洋に海上自衛隊を派遣することになる。小泉純一郎首相は「武力行使はしない。戦闘行為には参加しない」と強調したが、自衛隊の海外活動は“戦時”に広がった。
自衛隊の海外活動をついに“戦地”まで広げたのが、〇三年のイラク特措法。武力行使との一体化を避けるため、政府は活動地域を非戦闘地域に限定したが、この定義について、小泉首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と“迷答弁”。今国会でも議論は続いている。 (肩書は当時)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20050212/mng_____kakushin000.shtml