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消える『軍縮』月刊誌
宇都宮徳馬氏 亡くなり4年半
四半世紀前、「軍縮」を公約に掲げ当選した1人の参院議員が、その公約を果たすために月刊誌を発刊した。創刊者の宇都宮徳馬氏が亡くなって4年半、その「軍縮問題資料」が財政的な理由で4月号を最後に廃刊となりそうだ。憲法改正や自衛隊のイラク派遣などの急流に「軍縮」という言葉そのものがのみ込まれそうな中、先人の遺志を継ぐ雑誌の命運に関係者らは気をもむ。 (早川由紀美)
■長男の会社『出資は限界』
「軍縮問題資料は(徳馬氏)本人の存在証明だったと思います。読者や仲間を勇気づけることもできたかもしれないが、思いを伝えることができて、自分自身も勇気づけられていた」
九十三歳で他界した故徳馬氏の長男で、ミノファーゲン製薬(本社・東京)社長の宇都宮恭三氏(66)は、かみしめるように話す。
徳馬氏が雑誌を出す契機は一九八〇年の参院選にさかのぼる。自民党異色のハト派として衆院議員を十期務めた徳馬氏は、七六年にロッキード事件と金大中事件の党の対応に抗議し、離党、辞職。無所属での転身だった。当時、民社党の栗栖弘臣・元防衛庁統合幕僚会議議長と議席を争った東京地方区は「タカ対ハトの争い」とも騒がれた。
当選するや設立したのが民間団体・宇都宮軍縮研究室であり、月刊誌「軍縮問題資料」を創刊した。平和問題などに取り組む学者やジャーナリストらが執筆陣に名を連ね、徳馬氏自身も生前は日米安保などについて持論を展開。創刊当初は無料だったが、その後ページ数を増やし、現在は一冊四百十円。表紙裏には「核兵器に殺されるよりも、核兵器に反対して殺されるほうを私は選ぶ」という氏の言葉が載っている。
「(冷戦下だった)創刊当時、『軍縮』という言葉は共産党の旗印のように思われていて、新聞記事にもなかなか出なかった。こんな硬い本が読まれないのは分かっていたが、新聞に広告を出すことで『軍縮』という文字が紙面に載り、一つの意見広告となっていた」。同軍縮研究室の樋口亮一室長はそう振り返る。
■負担年間8000万円発行は7000部に減
「雑誌のもう一つの目的は、平和勢力をつくることだった。原稿料も比較的高く払い、軍縮や平和に取り組む学者に書く場所を提供した。『軍縮』の執筆者が今は高校の現代社会の教科書で、軍縮のページを担当するようになっている」
全面の意見広告を出すため、徳馬氏は所有地を売却して充てたこともあったという。さらには、徳馬氏が創業したミノファーゲン製薬がずっと財政面で本の発行を支えてきた。
多いときには三万部だった発行部数は、現在七千部程度に落ち込んだ。廃刊にいたった事情を恭三氏はこう打ち明ける。
「二〇〇〇年七月に(徳馬氏が)他界したときにやめようか、という話になったが、続けることに決まった。しかし、経済が右肩上がりのときは自由なことをやってもいいが…。よく考えてみると、(この活動が)会社にとって(浮いた資金の使途として)有益でありうるのかと」
軍縮研究室によると、年間負担額は約八千万円で、そのほか三千万円余が税金として全額、製薬会社にのしかかる。製薬会社が軍縮に取り組むことは「業務」とはみなされない。
「軍縮問題資料には、毎月何百万円もの広告を出した。だが、税務署は『それはこの雑誌への広告費としては多すぎる。(課税対象となる)寄付にしろ』と。会社から出向している編集スタッフの人件費も寄付でなくてはならないとか、厳しくなった」(恭三氏)
出てきたのは廃刊という結論だった。「ああいう雑誌を政治家がやった方がいいのか、大学、あるいは市民団体がやった方がいいのか、はいろいろ議論があるだろう。でも製薬会社がやっても仕方がない」
■寄付金使い明大が発行『大学では性格変わるのでは』
同社はその代わりに、明治大学に年間三千万円の寄付を十年間続けることを昨年十一月に決めた。同大学には、かつて徳馬氏の秘書を務めた福田邦夫教授(商学部・貿易論)がおり、恭三氏が相談を持ちかけたのがきっかけという。明大は軍縮平和研究所を設立し、二千万円で季刊誌を発行、一千万円を公開講座や懸賞論文などに充てるという。受配者指定寄付金という形をとり、こちらだと税金はかからないという。
その福田教授は「現在の産学提携の流れの中では、大学が企業の下請けになりかねない。そういう中で平和研究で十年というのは他に例がないんじゃないか」と理想的な産学連携の例になったと力説する。
■執筆者ら困惑しNPO化模索も
だが、「軍縮問題資料」の執筆者らにとって、廃刊は寝耳に水だった。そのうちの有志約三十人は昨年十二月、福田教授らと話し合いの場を持った。経緯に納得していない有志らからは「平和を扱う学者として編集部に一言あってもよかったのではないか」と明大側に詰め寄る場面もあった。
有志らは研究室の民間非営利団体(NPO)化などで、明大とは別に同誌を存続する道も探っており、三十一日に二度目の会合を開くが、混乱は続いている。
軍縮・安全保障論で著名な東京国際大学国際関係学部の前田哲男教授も廃刊を危ぐする一人だ。
「冷戦下の八〇年代前半、中曽根康弘首相とレーガン大統領のロンヤス関係で軍拡が進む中、『軍縮』という形で月刊誌を出したのは貴重な試みだった。今も同じような危機感をはらむ状況だ。自衛隊は行動範囲を広げ、ミサイル防衛システムで軍事の領域を宇宙に広げ、武器輸出三原則の見直しで兵器輸出の枠を広げる。軍縮とは相反する動きの中で、月刊誌としての『軍縮』がなくなるのは、闘いの前に旗を降ろしてしまうように見えてしまう」
編集部には「(中越地震に被災したが)避難所から一時帰宅したときに『軍縮』は捨てずに箱につめたのに」という新潟県長岡市の女性(76)など、廃刊を惜しむ手紙が寄せられている。
政治評論家の浅川博忠氏は「宇都宮徳馬という政治家の生の声が載っていてこそ、迫力のある本だった」と振り返る。浅川氏は大学時代、新聞部の記者として徳馬氏を取材した。選挙を手伝ったこともある。
「派閥の親分にごまをすって出世していく五五年体制の自民党にあって、ポストを求めず信念を主張した。日中国交回復にも先鞭(せんべん)をつけるなど、米国一辺倒でない長期的な外交戦略も持っていた。宇都宮イズムを引き継ぐ受け皿が、どこかの政党に必要とは思うが見あたらない」
全国で初めて平和学研究で博士号を取得した広島修道大学法学部の岡本三夫教授は「(『軍縮』は)被爆地としての広島の声を訴えていける数少ないメディアだ」と評価したうえで、廃刊の報を悔しがる。
「明大が出すということで、軍縮についての本が完全に消えるということはなくなった。しかし、例えば大学が新聞を出すとなれば、一般紙とは性格が変わってしまう。大学というアカデミズムの中に入れば、今までの草の根の形とは違ってしまうのではないか。存続して、というかすかな望みは今も持っている」