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(回答先: グリクシュ報告【歴史的修正主義研究会】 投稿者 はちまき伍長 日時 2005 年 1 月 28 日 11:28:35)
たけ(tk)が驚いたのは KAORU YAMASAKI さんが、いまだにこんな恥ずかしい文書を自分のサイト( http://clinamen.ff.tku.ac.jp/ → http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/SS_Report.html )に掲示し続けていた、ということです。
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グリクシュ報告【歴史的修正主義研究会】
http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/738.html
投稿者 はちまき伍長 日時 2005 年 1 月 28 日 11:28:35:Zpc9bbdVkJn3c
(回答先: http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/1036.html をご覧ください 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 1 月 27 日 16:19:12)
重要な論点についてのQ&A
<質問009>
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/qa/009.htm
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/ [歴史的修正主義研究会]
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http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/qa/009.htm
論点
@ 上記のホロコースト正史派のサイトによる報告の紹介には、重大な作為があります。報告のファキシミリ版はプレサックの研究書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』238頁に掲載されていますので、転載しておきましょう。
* 「原文」の写真が掲載されています。
よくご覧ください。報告(ドイツ語)の冒頭(1頁目)には(「1943年5月4日から16日に総督府を視察旅行した件についてのSS少佐フランケ・グリクシュが提出した報告の一部」という英文のヘッダーが、また末尾(2頁目)には「私は、これがオリジナル報告の本物のコピーであると確証する。Eric M. Lipman」という手書きの英文と署名がついていることがわかると思います。ホロコースト正史派のサイトは、この部分を、善意に解釈すれば、フレミングの研究書をそのまま孫引きしたため、悪意に解釈すれば、フランケ・グリクシュの「再定住行動報告」というオリジナルのドイツ側資料が実在しているかのように見せかけるために、英文のヘッダーと英文の手書きの部分を省略・削除してしまっているのです。
A また、ホロコースト正史派のプレサック氏によると、アメリカ陸軍に所属して戦争犯罪調査に従事していたリップマン氏が、「バイエルンのどこかにあったオリジナル報告のカーボン・コピーを発見し」、その報告の中からユダヤ人の絶滅に関する部分をタイプ・コピーし、タイプ・コピーしたリップマン氏自身が「本物のコピーであると確証した」のがこの「再定住行動報告」なのです。
B しかし、プレサック氏も認めているように、「オリジナル報告のカーボン・コピー」はどこにも存在していません。つまり、フランケ・グリクシュ報告なるものとして実在しているのは、アメリカ軍の戦争犯罪調査担当者が、オリジナルの長文の報告書(実在していない)から、そのさわりの部分だけを抜書きしてタイプ・コピーした上記の文書だけなのです。
C しかも、この報告を「発見」して「タイプ・コピーした」リップマン氏は、このタイプ・コピーをニュルンベルク裁判の検事団に渡したという話になっていますが、この報告が公表されるのは、ニュルンベルク裁判が終了して30年後の1976年です。ニュルンベルク裁判の検事団は、当時、「大量ガス処刑」に関するドイツ側文書資料を血眼になって捜し求めていたはずですので、検事団がこの報告に飛びつかなかったのもまったく不可解です(おそらく、検事団に渡したというリップマン氏の話は嘘でしょう)。
D このような文書に、文書資料的価値、ましてや、裁判証拠としての価値がまったくないのは、連合国の尋問官マルサレクが、銃弾を受けて死の床についていたマウトハウゼン収容所長ツィエライスの最後の言葉を「聞き取って」「記録」し、その「聞き書き」をツィエライスの「自白」(そこでは、ハルトハイム城では100万から150万人がガス処刑されたと述べられている)としてニュルンベルク裁判に提出した文書が、文書資料的価値、裁判証拠としての価値をまったくもっていないのと同様です。
E また、この報告には、「ガス室」、焼却棟の構造などについて、多くの間違った記述が含まれていますが、もっとも馬鹿げた記述は、この「再定住行動」によって50万のユダヤ人が絶滅されたという箇所です。ビルケナウ収容所の4つの焼却棟が完成したのは、1943年3月から6月にかけてのことで、まさにこの報告が作成されていた時期のことです。ホロコースト正史によると、アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、1944年11月までの1年半以上の期間で、100万前後がガス処刑されたことになっていますが、この報告では、焼却棟が稼動し始めて1、2ヶ月しかたっていない時期に、しかも一部の焼却棟(焼却棟V)がまだ完成していない時期に、犠牲者数合計の半数=50万がすでにガス処刑されていることになっています(ホロコースト正史派は、善意に解釈すれば、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の歴史に無知であるがゆえに、このような記述の非合理性に気づかないのでしょうか)。
結論
@ いわゆるフランケ・グリクシュの「再定住行動」報告なる文書は、歴史学における史料批判(Quellen Kritik)の3つの基本原則(真実性批判、来歴批判、本源性批判)に照らし合わせても、まったくの偽造文書です(おそらく、この文書を「タイプ・コピー」したリップマン氏が、戦後に流布していたアウシュヴィッツ・ビルケナウ「絶滅収容所物語」に依拠して、この文書を捏造したのでしょう)。
A 文書の信憑性に疑問を呼び起こしてしまうような箇所を省略・削除して、この文書を紹介しているホロコースト正史派のやり方は、学問的にはきわめて不誠実です。
補足
いわゆるフランケ・グリクシュ報告の由来についての詳細な検証および批判は、Brian A. Renk, The Franke-Gricksch 'Resettlement Action Report': Anatomy of a Fabrication(本サイトに試訳もあります)を参照してください。
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http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/renk_01.htm
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プレサック(238−39頁)によると、ドイツ占領下のポーランド、すなわち総督府の視察旅行に関するフランケ・グリクシュ報告のカーボン・コピーは、戦後、Eric M. Lipman(プレサックは誤って「Lippmann」と呼んでいる)によって「バイエルンのどこか」で発見されたという。リップマンは合衆国第3軍戦争犯罪局の将校であった。リップマンはフランケ・グリクシュの「経歴ファイル」にある全文を発見したのちに、アウシュヴィッツに関する報告の部分、すなわち「再定住行動」報告をタイプ・コピーしたとされている。プレサックは、全文のカーボン・コピーはニュルンベルクのアメリカ検事チームに引き渡されたが、「国立文書館第二次世界大戦、戦争犯罪記録集に、典拠番号NA RG 238として保管されていると思われる」と書いている。しかしこの文書のことを始めて言及しているCharles Sydnorは、「この文書のオリジナルは、まだ整理されていないニュルンベルク検事側資料集の中に埋もれてしまっている」[2]と書いている。
もし報告全文のカーボン・コピーがニュルンベルクのアメリカ検事チームに引き渡されていたとすれば、なぜ、この爆弾文書が証拠として提出されなかったのであろうかという疑問が生じる。そして、1970年代まで、これについて知っていたのは、なぜリップマンだけであったのかという疑問も生じる。
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フレミングは3月1日に返信をくれて、「お求めの写真コピーを送ります」と知らせてくれたので、私は、フランケ・グリクシュのものとされている報告全文のカーボン・コピーが送られてくるものと期待していた。しかし、フレミングが送ってきたのは、英語のヘッダーのついたタイプが気「コピー」、すなわちプレサックが掲載しているファキシミリ版の写真コピーにすぎなかった。[4]
したがって、「アルフレード・フランケ・グリクシュ報告の3つのカーボン・コピーのうちの1つは、…私が所持している」というフレミングの話は、まったく真実ではない。
まとめ:オリジナル報告のカーボン・コピーがSS将校の経歴ファイルの中で「発見された」という証拠はまったくない。また、この曖昧模糊とした「カーボン・コピー」が国立文書館に存在している、ひいては、このような文書が存在していたという証拠もまったくない。何らかのかたちで存在しているのは、失われた報告書から抜粋したとされるリップマンのタイプ書きの「コピー」だけである。
文書の分析
リップマンがタイプしたというオリジナルのカーボン・コピーのコピーは、本物の公式報告にはついているはずの、そしてオリジナル文書であるならば当然ついているはずのレターヘッドや分類番号に触れていない。また奇妙なことに、リップマンは、報告の日付を1頁の冒頭に示すかわりに、フランケ・グリクシュの総督府(General Gouvernement――ママ、正確なドイツ語の名称はGeneralgouvernement)視察旅行の日付を記している。もっとも、彼は年の記載には苦しみ、最後の数字3――筆者の手元にあるコピーでは判読できない――を手書きで書かなくてはならなかったが。
「再定住行動」報告のテキストを分析すれば、これが偽造であることが明らかとなる。リップマンはドイツ語のオリジナル文書から「ユダヤ人の再定住行動」をたんにタイプしただけであるとされているが、この文書には英語の綴りの影響が存在している。訂正されていないものもあれば、ドイツ語の単語で上書きされているものもある。いわゆる報告の第1行では、hatのかわりにhadとなっており、2行目の2番目の単語derは、theに上書きされている。3行目では、hierがhereに上書きされている。報告2番目のパラグラフの8行目では、コピーしたとされる人物は、hadとタイプしたが、それをhatに訂正しており、正確なドイツの定冠詞dieとタイプしようとして、tから始めてしまっている(theと綴ろうとしたにちがいない)さらに、1頁目の最後のパラグラフでは、英語の時制語尾dがドイツ語の時制語尾tのかわりに2回タイプされている、すなわち、5行目では、ausgestattetのかわりにausgestatted――それは訂正されている――、また9行目では、gebadetのかわりにgebadedとなっている。そして、1頁の3番目のパラグラフの6行目からはじまるセンテンスでは、同じ主語にkommtという動詞が2回使われている。
以上が、フレミングとプレサックがドイツ語のオリジナル文書をたんに書き写したものであると考えている文書の顕著な特色である。あまり能力のない(もしくはもっと誠実な)翻訳者であれば、この文書がドイツ語の資料ではなく、英語にもとづいていると考えることができるであろう。
* スペルミスは、アメリカ人による写本的コピーであれば、あり得るとは思う。「同じ主語にkommtという動詞が2回使われている」というのも、ひょっとしたら、原文でもそうなっていたのかもしれない。
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プレサックは、報告に記載されている大量殺戮の現場がビルケナウの焼却棟Uであると考えている。「再定住行動」報告は死の部屋には「3つの大きな柱」があったと述べているが、プレサックの指摘では(239頁)、この部屋(死体安置地下室であった)には、実際には4つの柱があった。プレサックはまた、この建物には10の大きな焼却炉があったという報告の話が誤りであることも認めている。実際には、焼却棟Uには5つの3燃焼室炉があったのである。プレサックは、フランケ・グリクシュが述べているのは焼却棟UとVの炉の合計であったと説明しているが、この文書は、これらの10の焼却炉は一つの建物にあったととくに述べているので、プレサックの説明は意味を成さない。
* 数字のミスは致命的だろう。写本的コピーで数字の間違いが生じる可能性は少ない。
「再定住行動」報告は1日1万体が焼却されたと述べているが、プレサックは、この数字が物理的に不可能であることを認めている(239頁)。彼は、この馬鹿げた数字がSSのプロパガンダの産物であると説明しているが、それでは、不十分である。なぜ、SSの内部文書でプロパガンダ目的の偽りの数字が登場しているのか説明していないからである。
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プレサックは、50万のユダヤ人が1943年5月までには殺されていたという「再定住行動」報告の話が間違っていることを認めている。彼は、本当の数字は「20万から25万のあいだであろう」と根拠もなく主張している。プレサックは、殺人者たちが自分たちの容赦のない数字を少なくとも2倍も誇張しようとしていたい理由を十分に説明していない。さらに、ビルケナウの4つの焼却施設が完成したのは1943年3月から6月のあいだであること[9]を念頭に置くと、この減らされた数字でさえも認めることはできない。
プレサックによると(239頁)「再定住行動」報告の中で、「もっとも驚くべき、そしてもっとも重大な誤り」は、「ガス室」の両端にドアがあったと述べていることである。実際には、この部屋にはドアは1つしかなかった(「そこを通って犠牲者が室内に入り、そこから死体が取り除かれた」)。プレサックは、フランケ・グリクシュの「混乱」を、「焼却棟を訪れているあいだに中断があり、そのために方向感覚を失ったのかもしれない」と説明しているが、この説明では不十分である。
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また、報告は「この目的のために設置された収容所の特別区画への特別線」について触れているが、プレサックはこれについて説明しようともしていない。これは、アウシュヴィッツの幹線(ウィーン・クラクフ間)からビルケナウへの支線についてのことちがいない。しかし、ビルケナウ支線の建設作業が始まったのは、1944年1月以降のことである。[12]