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産経【アウシュビッツ解放60年、あす式典 拡大欧州結束の好機】
注目すべきことには、この記事には「ホロコースト」という言葉がない。
代わりに、「収容所内で蔓延(まんえん)したチフスで死去」という文章が入っている。
この記事には、「ガス室」による民族殲滅政策を否定した拙著、『アウシュヴィッツの争点』と拙訳『偽イスラエル政治神話』の記述に反する文章は入っていないのである。
この記事の存在を私に知らせてくれたのは、拙著の読者であり、わが木村書店発行の季刊『真相の深層』の定期購読者である。
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http://www.sankei.co.jp/news/morning/26int001.htm
平成17(2005)年1月26日[水]
アウシュビッツ解放60年、あす式典 拡大欧州結束の好機
EU加盟希望、ウクライナ大統領も出席
【パリ=山口昌子】第二次世界大戦中のドイツ・ナチスによるユダヤ人迫害の象徴であるアウシュビッツ強制収容所(ポーランド南部)が解放されて六十周年の二十七日、四十人以上の国家元首や政府代表が同地に集合して式典が行われる。生還者の老齢化や記録の風化、反ユダヤ主義の台頭という状況の中で、悲劇の歴史を知らない世代への「記録の伝達」はもとより、欧州にとっては拡大欧州の結束の意味も含まれていそうだ。
一九四〇年に建設されたアウシュビッツ収容所には、ユダヤ人のほかにポーランド内のロマ(いわゆるジプシー)やフランスなどのレジスタンスの闘士らも含む約百三十万人が収容されていたが、百十万人が死亡、うち九十六万人がユダヤ人だった。フランスからアウシュビッツなどの強制収容所に送られたユダヤ人は約七万六千人で生還者は約二千五百人だ。
その一人のシモーヌ・ヴェイユ元仏厚相は昨年暮れ、息子二人と孫六人を連れて初めて同地を再訪した。ヴェイユ氏がアウシュビッツに送られたのは四四年、十六歳の時。建築家の父親と兄は収容所行きの列車内で行方不明に、母親は収容所内で蔓延(まんえん)したチフスで死去。生還したのは姉と彼女の二人だけだった。今でも収容所で腕に彫られた囚人番号を消さずに残している。
式典を前にフランスをはじめ欧州では、「二度と起きないように、そして記録を伝達するために」(仏大統領府筋)、記念行事が行われたり、生還者の証言など当時の記録が盛んに紹介されている。生還者の老齢化や記憶の風化への恐れ、そして記憶を若い世代に伝達する必要性を痛感してのことだ。
政治的事情もある。この数年、フランスではユダヤ教徒の墓地が荒らされるなどの反ユダヤ主義が台頭し、若者層に広がりつつある。しかも、ナチスの鍵十字を意味も知らずに使用している暴走族などもいる。
こうした傾向はドイツでの極右政党の躍進、あるいは英国のヘンリー王子の仮装パーティーでのナチスの制服着用など、他の欧州各国でも見られる。
これに加え、九五年の五十周年時とは歴史的状況が異なってきた背景もある。五十周年の式典では「ナチスの犠牲者、ポーランド」という面を強調した当時のワレサ・ポーランド大統領の招待を、ポーランド一国の問題ではなく、「強制収容された者の問題」(ミッテラン仏前大統領)として辞退した政府代表者は多い。
すでにベルリンの壁が崩壊してドイツが再統一し、東西冷戦も終了していたが、アウシュビッツを解放したのが旧ソ連の赤軍だったことに加え、ボスニア紛争など冷戦後の新たな地域紛争や民族紛争が相次いで発生し、欧州は「強制収容所の犠牲者を悼む真のゆとりを欠いていた」(仏外交筋)ともいえる。
しかし、昨年五月には欧州連合(EU)は旧ソ連圏を含む中・東欧十カ国が加盟して二十五カ国に拡大し、ポーランドは晴れて欧州の一員になった。十年前に比較すればドイツはもとよりロシアとの関係もずっと、すっきりしつつある。
さらに、これまで小国としての地位に甘んじたポーランドが式典の主催国として四十カ国以上を招待したのは、イラク戦参戦に次ぐ国際舞台での絶好の見せ場との考えもあるからだ。
一方で、欧州側、特に仏独は、第二次大戦とその後半世紀にわたる米欧関係のきずなの強さにそろそろ終止符を打ち、六十年の節目に中・東欧も参加した欧州統合の歴史的意義を強調する機会ととらえている節もある。昨年六月のノルマンディー上陸作戦六十周年記念式典にも、その傾向がうかがわれた。五十周年式典には招待されなかった独露の首脳も出席した。その意味では、EU加盟希望を表明したウクライナのユシチェンコ大統領が出席するのも象徴的だ。
それにしても十年前に比較して、ヴェイユ氏ら生還者らが重い口を開いてやっと積極的に証言しはじめている事実は、「世界最大の墓地」「死の工場」といわれる強制収容所の非人間的な思い出を語るためには、半世紀以上の年月を必要としたともいえる。「あそこでは、私は決して泣かなかった。あそこは涙を超えていた」というヴェイユ氏の言葉が、何よりの証左だ。
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