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(回答先: アウシュビッツ解放60年、あす式典 拡大欧州結束の好機 (産経新聞) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 26 日 06:37:33)
■■■第3章:ハザール王室直系の子孫、カガノビッチの暗躍
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■■スターリンを操ったモンスター、カガノビッチの正体
10月革命以降、特に1920〜1930年代に、ユダヤ人はロシアで「国家内国家」をつくっていった。それはまさしく、8世紀〜10世紀ごろに栄えたハザール王国の再現であった。
ロシアにはハザール王国の皇帝の子孫がいたのである。スターリンは傀儡であり、ユダヤ人たちのロボットであった。スターリンは表向きの指導者であって、ユダヤ国家には陰の指導者がいたのである。その陰の指導者がすべての実権を握るほんとうの支配者であった。
◆
それは誰か。 世上、スターリンの片腕といわれたユダヤ人、ラーザリ・カガノビッチである(カガノビッチはいかにもロシア的な姓のように「ビッチ」を付しているが、祖父の時代にはカガンと名乗っていた)。カガン(可汗)とはハザール人たちの言葉で、ユダヤ教の宗教の指導者、皇帝などを意味している。ハザール王国もハザール・カガン国と名乗っていた。カガノビッチの元の姓がカガンであるということは、彼がかつてのハザール王国皇帝の直系の子孫であることを示している。
ハザール王国は数世紀前に消滅したが、その皇帝の直系の子孫が生きていたのである。
スターリンの片腕といわれたユダヤ人
ラーザリ・カガノビッチ。
ハザール王室直系の子孫だった。
スターリンは共産党書記長というポストについていたが、カガノビッチはただの書記にすぎなかった。しかし、実際にはカガノビッチやカガノビッチの補佐官が、すべての政策を取り仕切っていた。スターリンはこのカガノビッチの政策の執行者にすぎなかった。
ハザール王国では宗教的権威をもつカガン(皇帝)のほかに、実際の政務を行なうビャク(執行者)があった。その意味でも、当時のソ連政府はまさしくハザール王国の再現であった。
一般に「スターリンの独裁」とよくいわれるが、事実はハザール人のハザール王国の指導者による独裁だったのである。この事実は決して触れられることがない。
■■ハザールの王・カガノビッチがロシアを支配した
カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。共産党によったのではない。共産党も表向きの形式にすぎなかった。実際には裏の組織があった。それが国家保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた。
国家保安省にはベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人とのハーフで、グルジアの北コーカサス出身のユダヤ人であった。ベリヤはカガノビッチの従兄弟にあたる。カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=ハザール国家を支配していったのであった。
カガノビッチの従兄弟である
ユダヤ人ベリヤ
またその頃、ユダヤ人は国家保安省の中に「収容所」という新しいシステムをつくった。ソルジェニーツィンの著書『収容所群島』には、このシステムについて詳しく述べられている。各収容所の所長は9割がユダヤ人だった。収容所システムを初めに導入した人物は、フレンケルというユダヤ人の革命家である。収容所はロシア人の奴隷を収容するためにつくられた施設だった。
◆
革命が成功すると、ユダヤ人たちはロシア人を完全に支配下におこうとした。そのためにはロシアの「頭」を切り落とさなければならない。「頭」というのは日本でいえば天皇であるように、ロシアでいえばツアー、すなわち皇帝であった。
ニコライ2世(最後のロマノフ王朝一家)
ユダヤ人はまず当時のツアー、ニコライ2世を家族もろとも全員暗殺した。革命の翌1918年7月、ユダヤ人はウラル山脈のエカテリンブルグ(現在のスベルドロフスク)のある家の地下室で、ツアーとその家族をすべて銃殺に処した。
そして、その家の壁にサインを書き残したのである。それはヘブライ語で「皇帝は暗殺された、国家は破壊された」と書かれていた。私(イワノフ)はそのサインを自分の目ではっきりと見ている。
エリツィン大統領は当時、その町の第一書記だったが、このエリツィンの命令によって、ツアーが殺害された家は完全に破壊されてしまった。今はもう誰もこのサインを見ることはできない。家も壁も残されていないからである。
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■■■第4章:ロシア文化を徹底的に破壊したハザール系ユダヤ人
■■革命はロシアの頭脳を流出させロシアの文化・宗教を破壊した
ロシアの「頭」はこうして切り落とされた。では彼らの次の目標は何か。その次に彼らは何をしなければならなかったのだろうか。
ロシアの伝統、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を殺すこと、それが彼らの次の課題であった。が、ロシアの貴族はそのとき、幸か不幸かほとんどが国外に亡命していた。少なくとも300万人の貴族がアメリカやヨーロッパなどに脱出したが、彼らはいわばロシアの頭脳ともいえる人々だった。要するに、革命によってロシアの頭脳が全て国外に流出してしまったのである。
◆
アメリカには世界でも有数の技術を発見した学者たちが多くいる。あまり知られていないことだが、それらの学者たちの中にはロシア人が最も多いのである。少なくとも彼らロシア人が20%を占めている。
たとえばヘリコプターの発明者のシコルスキー、ノーベル賞をもらった経済学者ワシリー・レオンツェフ、また作曲家のラフマニノフなど、挙げていけばきりがないほどだ。ロシアの頭脳はほとんどアメリカに行ってしまったのであった。アメリカは革命によってロシアの頭脳を獲得したのである。
優秀な実業家、デミドフ、ストロガノフ、エリセエフなども外国に行ってしまった。ロシアはユダヤのために優秀な実業家たちをすべて失ってしまった。ロシア人の「頭」の代わりにユダヤ人の「頭」が、ロシアの体、すなわちロシア人の国家の上に乗せられたのである。
◆
さらにロシアの古い伝統、習慣、文化をもっているのは誰か。農民である。彼らは個人の農地をもっていた地主であった。しかしユダヤ人は革命を推し進めるためには、農業システムを破壊しなければならないとして、各地にコルホーズ(集団農場)やソホーズ(国営農場)をつくっていった。その結果、ロシアの農業システムがすべて破壊されたのである。
こうして、文化人も、優秀な実業家も、伝統的な農民もロシアからいなくなった。全部ユダヤ人のやったことである。またロシア正教もほとんど壊滅の状態にまで弾圧された。ロシア正教はロシア人にとって最も神聖な宗教である。少なくとも1000年の歴史をもっており、ロシア人に大きな精神的影響を与え続けてきた。しかし革命後、ユダヤ人はロシア正教会の90%を破壊してしまったのである。
共産主義にとって“宗教はアヘン”だった。アルメニア教会の寺院も数多く破壊された。しかし、シナゴーグ(ユダヤ教会)だけは無傷であった。
ロシア正教会
ロシアでは10〜11世紀にかけて、ロシアの伝統的な建築技法によって美しい多くの教会が建てられた。今では12世紀に建てられた教会が、わずかに破壊されずに残っているが、古い教会のほとんどがユダヤ人によって破壊されてしまった。破壊されたものの中には、建物以外に絵画や9〜11世紀のイコンもたくさんあった。
こうした破壊はロシアにとっては耐えがたい残酷なる悲劇であった。
■■軍幹部と知識人の粛清
第二次世界大戦が始まる前に、ユダヤ人たちはもう一つの陰謀を企てていた。それはロシア軍隊の幹部たちを粛清することだった。少なくともその当時、約3万人の将軍や将軍クラス、大佐クラスの軍人が殺された。彼らはちょうど第二次世界大戦が起こる1、2年前に殺されたのである。
◆
ユダヤ人たちはヒトラーからの侵略の脅威を感じなかったのだろうか。ロシアを外敵から守る必要がありながら、なぜ優秀な軍人を殺すことに躊躇しなかったのだろうか。
彼らにとっての問題は国外ではなく国内にあったからである。ロシア人の将軍や大佐などが赤軍を指導し、反ユダヤ感情が高まってきたために、ユダヤ人たちは危険を感じて軍隊の幹部たちを殺した。実に第二次世界大戦が起こる直前のことであった。それら将軍の中にはユダヤ人も交じっていたが、ユダヤ人であろうとも、不穏な動きを一掃するためには無差別に殺されていったのであった。
◆
戦争が始まった。優れた司令官をすでに失っていたロシア軍は、はじめの1、2年間は敗北を重ね、モスクワまで撤退して敵を迎え撃つ戦法をとることにした。そして、後のモスクワ戦線では激烈な戦闘の結果、最終的にロシアが勝利を収めたのだが、そのときには、ようやく世代交代がなされ、次世代の優秀な軍人たちが指揮をとっていた。それらの指令官の中でも、最も優れた司令官がジューコフ元帥だった。
◆
1941年10月、ドイツ軍はモスクワ大攻撃を開始した。それに対して、その年の12月、ジューコフ元帥の率いるロシア軍が大反撃を行なったのである。これをロシアでは「モスクワの祖国戦争」という。戦争は1943年2月まで続いたが、ついにドイツ軍は降伏し、ロシア軍の勝利の第一歩が印された。ジューコフ元帥の果たした役割は、すべての戦争において最も大きいものだった。
戦争が終わると、急速にロシア人の民族的自覚が高まっていった。ドイツとの戦争で勝利を勝ち取ったからである。ユダヤ人はロシアを恐れた。
危機を感じたユダヤ人は1948年、ロシア人に対して攻撃を開始した。優秀な政治家たちを次々と裁判に送り、ロシア人知識階級を殺していったのである。カガノビッチがそれらの指揮をとっていたが、スターリンもそれに同調していた。
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■■■第5章:スターリンとジューコフ元帥の反乱
■■ユダヤから離れて暗殺されたスターリン
スターリンはその頃からユダヤ人のやり方に反発するようになった。スターリンの妻はカガノビッチの妹であり、その前のスターリンの2番目の妻も同じくユダヤ人だった。それにもかかわらず、スターリンはユダヤ人に対抗していった。戦争の勝利で自らのイメージが上がったこともあり、ユダヤの横暴なやり方に我慢できなくなって、反ユダヤの態度をとりはじめたのであった。1949年から亡くなる1953年までの間、スターリンは実際にそうした行動をとり続けていった。
スターリンと妻のローザ(ユダヤ人)。
彼女は、カガノビッチの妹だった。
スターリンの身辺には常にベリヤがいた。ベリヤは国家保安省のリーダーであり、スターリンと同じくグルジア人だったが、ユダヤとのハーフであった。ベリヤは終始スターリンの見張りを怠らず、スターリンの行動をすべてカガノビッチに報告していた。そのため、スターリンはベリヤに隠れて密かに反ユダヤの陰謀を画策していった。
◆
1952年、「医者事件」が起こった。「医者事件」とは、1948年、ユダヤ人の医者たちが多くのロシア人の新生児、それも男児を毒殺した事件である。そのときに殺された男児の数はかなりの数に上った。とくに大都会のレニングラード、モスクワ、キエフなどで多くの男児が殺された。
なぜユダヤ人たちはこのような暴挙をやるのか、このまま多くの男児が殺されるならば、いったいどのようなことになるのか──。
スターリンは1952年、この事件に関係した医者をすべて逮捕し、ユダヤ人自身がつくった収容所に送って、その半数を殺したのであった。
◆
スターリンは更に大きな反ユダヤのプランをもっていた。シベリアの極東地方にビロビジャンというユダヤ人の自治州があったが、彼は大都会からすべてのユダヤ人を集めて、シベリアのビロビジャンに送ろうとしたのである。が、それが実行に移される前に、彼はベリヤによって暗殺された。1953年3月のことであった。
極東地方に存在する「ユダヤ人自治州」(黄色に塗られた地域)
スターリンは自然死であるという説があるが、実際はそうではなかった。ユダヤ人による暗殺であった。ベリヤによってスターリンは殺されたのである。スターリンの息子ワシーリーは空軍の将校だったが、彼はこの事実をよく知っていた。彼は隣人にこの経緯をすべて話している。しかしワシーリーもまもなく暗殺されてしまった。
■■ソ連の全権を握ったカガノビッチ
ユダヤ人は強大な力をもっている。彼らは世界的な規模で力をもっており、ユダヤ民族が不利な状態になったときには一致して攻撃に出ることができる。スターリンは強力な独裁者といわれたが、その実は彼らに操られたロボットであり、自ら独裁者ぶりを発揮したとたんにユダヤによって暗殺されたのである。
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スターリンが亡くなって後、ベリヤはカガノビッチの真の右腕になった。この2人はスターリンが暗殺されてから130日間、実質的にロシアを支配していた。この間、彼らは何をやろうとしていたのだろうか。それは、ソ連の分裂への策謀であった。ベリヤが逮捕されて後に、こうした計画のあったことが発覚している。
ハザールの王・カガノビッチは、
スターリンが暗殺されてから130日間、
実質的にロシアを支配した
今から40年前の1953年、カガノビッチは当時のソ連の全権を掌握した。このとき、ロシアは本当のユダヤ国家になってしまったのである。
ロシアのユダヤ人とアメリカのユダヤ人たちはこうした事態を大いに喜んだ。なぜならば、ロシアのユダヤ人もアメリカのユダヤ人も、いずれもアシュケナジー・ユダヤ人という同胞であり、すっきりと手を組むことができるからだった。
ユダヤ人たちはソ連とアメリカという2つのユダヤ国家が力を合わせれば、全世界を支配できると考えた。当時の誰がこのような陰謀を阻止できただろうか。
その当時、国家保安省のエージェントはあらゆるところにいた。そして、密告が制度として国民の義務となっていた。当時のロシア人は、こうしたユダヤのネットワークには、何らの抵抗するすべをもたなかった。
■■ユダヤ権力を壊滅させたジューコフ元帥
しかし奇跡が起こった。第二次世界大戦におけるファシズムとの戦争で勝利をもたらしたジューコフ元帥が、1953年にユダヤとの戦いでも勝利を収めたのである。
1953年6月26日、モスクワ郊外でジューコフ元帥は陸上演習を行なっていた。この演習の途中で、ジューコフ元帥は突然、自ら戦車部隊二個師団を率いてモスクワ市内に入り、国家保安省本部に向かって進撃を始めたのである。国家保安省はこの動きをまったく感知していなかった。そのため、ジューコフはあっという間に国家保安省本部の占拠に成功することができたのであった。
カガノビッチとベリアを逮捕した
ジューコフ元帥
ジューコフ元帥はまずベリヤを逮捕した。そしてその次にカガノビッチらを逮捕した。これはまったく異例の事態であった。ロシア人の民族性からすると、こうした過激な反発行動に出ることはあり得ないことであった。しかしジューコフは、誰にも相談せずに、自らの判断で直ちに戦車部隊二個師団を動かし、モスクワに入って国家保安省本部を乗っ取ったのである。
そのときからロシアは新政府となり、ユダヤ人は国家保安省や軍隊の司令部を含めて、あらゆる組織から追放された。少なくとも1960年まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃されたのである。
ようやく、ロシアをロシア人が指導するところとなった。一時的にではあったものの、明らかにロシア人の勝利であった。このとき1953年から、1985年にゴルバチョフが書記長となり、翌年にペレストロイカ(改革)が始まるまでの間、ロシア国内にハザール国家は存在することがなかったのである。ユダヤ人たちはそのままロシアに住んではいたが、もはやユダヤ人たちが「国家内国家」をつくるようなことはなかった。
ブレジネフの時代はロシア人にとって歴史上非常に安定した時代であったといえる。ユダヤ人たちはこの時代を「停滞」時代という。革命が起きていなかったので、彼らにとっては「停滞」と呼ぶにふさわしい時代なのである。
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■■■第6章:ソ連崩壊の舞台裏 (ロシア人とユダヤ人の対立)
■■1991年8月のクーデターは「ユダヤ第二革命」だった
共産主義体制崩壊後のロシアの政治を、日本では、改革派(民主系)と保守派(旧共産党系)の対立を軸にしたものとしてとらえ、そこに中間派系、民族派系などの諸派が絡んだ政争の流れとして見ている。しかし、本当の問題は民族闘争なのである。ロシア人とユダヤ人の対決、それがロシアで起きていることの根本にあることである。
◆
1991年8月、世界を揺るがしたソ連のクーデターはあっけない失敗に終わった。しかしその結果起きたことは、紛れもない革命だった。これはユダヤ人によるクーデターであり、「ユダヤ第二革命」と呼ぶべきものだった。過激派のユダヤ人たちは、穏健なゴルバチョフ政権を倒して自らが政権を握ろうとしたのである。クーデター失敗後、エリツィン・グループが政権を握ったが、エリツィン大統領を取り巻くロシア政府高官のほとんどがユダヤ人であった。
エリツィンはユダヤ人の妻を持つが、彼自身は純粋のロシア人である。しかし彼は頭が悪く、しかもアルコール中毒である。彼は使われているロボットにすぎない。彼の補佐官は80%がユダヤ人であり、彼の補佐官の中には20人のアメリカ人がいた。そのアメリカ人の中でも指導的な役割を果たしているのは、ジェフリー・サックスというハーバード大学の教授であり、もちろんユダヤ人である。
(左)ゴルバチョフ (右)エリツィン
ロシア国内のユダヤ人たちは、8月クーデターでロシア政府内の実権を握ったことを幸いに、次に海外のユダヤ人と相呼応して、ロシア経済を支配下に置こうとした。そのため、欧米の、中でもアメリカのユダヤ資本が怒涛のようにロシアになだれ込むことになったのである。
エリツィンと取り巻きのユダヤ人たちは、8月クーデター以後、急進的な市場開放路線を議会で承認させると、ガイダル政権を発足させた。そして年末の連邦崩壊・CISの形成を経るや、一気に市場開放、価格自由化というショック療法を実行に移したのである。その結果ロシアでは、国際派ユダヤ人による猛烈な「ゴールド・ラッシュ」が起きた。1991年8月クーデター以後しばらくの間、ニューヨークからモスクワ行きの飛行機は、ほとんどユダヤ人たちに占められていた。
■■やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう
8月クーデターで、彼らユダヤ人たちは再びロシアの権力を握ったと思っているだろう。しかし、70年余年前の10月革命のときとは、その事態には根本的な違いがあることに彼らは気付いていない。
ユダヤ人たちは1917年10月革命当時には大きな力をもっていた。しかし今日のロシアのユダヤ人たちには力がない。彼らは二度目の革命を起こしたが、今日のロシア人は75年前のロシア人とは異なっている。当時のロシアは農業国家であった。多くの農民たちは読み書きができなかった。しかし今は違う。共産主義時代に受けた教育レベルは非常に高いものである。ロシア人の年輩者もそして若い人たちも、ますますユダヤ問題がわかってきている。そして愛国心の高まりとともに、ユダヤ人に反発する行動をとるようになり始めているのである。
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ユダヤ人はモスクワやサンクト・ペテルブルグ、キエフなどの大都会では力があるが、農民や労働者の中にはユダヤ人はほとんどいない。これは喜ばしいことである。さらに、ユダヤ人たちの影響はまだ地方にまでは及んでいない。ロシアの地方には本当のロシアが残っている。
ロシア人たちの反発は、ロシア人によるユダヤからの解放運動として、すでに地方に広がりはじめている。ロシア人たちは必ず自分たちのロシア人のリーダーを選ぶだろう。
以前ゴルバチョフはペレストロイカは地方からの革命ではなく「上からの革命」であると言った。しかしこれは「革命」というよりは反ロシア的な陰謀であった。決して下からの解放運動、革命ではなかった。
私たちロシア人はすでに革命の歴史をもっている。最初の10月革命、これは明らかにユダヤ革命だった。そしてまた、2年前の1991年8月にあった革命も、ユダヤ革命であった。ロシア人たちはユダヤ革命はもう十分だと思っている。我らはもうこれに我慢できない。ロシアのユダヤ人たちは、ロシアにおいて悪質なことをやってきたし、今もやっている。しかし彼らはすでにやりすぎている。
今後、ロシア人とユダヤ人との闘いは、もっと激しくなっていくにちがいない。やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう。私(イワノフ)は固く信じている。
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