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侵略を正当化したいのではなく、議論のたたき台にしたいと思い、岡崎久彦氏のHPの中から興味深い文章を抜粋しました。↓
http://www.okazaki-inst.jp/okazaki-inst/hyakuisanfront.html
(岡崎久彦
「百年の遺産-日本近代外交史(40)」より抜粋
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【中国の革命外交】
済南事件により英米派台頭
(産経新聞2002年5月18日掲載)
関東軍は張作霖爆殺を機に満州を制圧しようという意図でした。三年後の満州事変と同じ発想です。陸相はこれを提案しましたが、田中首相は、これを抑え、張作霖の生前に成立した合意の線で満州問題の解決をはかろうとして、後継者には、他の親日的人物という案もありましたが、敢(あ)えて息子の張学良を立てます。しかし、張学良は父を殺したのは、日本軍と知り、報復の機を待っていたのですから、この点田中の判断は甘かったわけです。
≪張学良が蒋介石に帰順≫
張学良は、後継者と決まると、たちまち蒋介石に電報で恭順の意を表し、満州に中華民国の国旗青天白日旗を掲げることを決定します。
その後の歴史で、反日運動では日本を挑発し、満州事変に導いたのは彼ですし、後に、西安事件で国民党と共産党の統一戦線を作らせて支那事変へと導いたのも彼です。日本を戦争と敗戦に一歩一歩追い込んだのは、親の仇を討つ彼の執念だったと言って過言でないでしょう。
もう一つの後遺症は、済南事件で国民党政府内の親日勢力が弱まり、代わって英米派の王正廷が外交部長となって、国権回復外交を推進したことです。公表されたスケジュールによると、第一期に関税自主権回復、第二期に治外法権撤廃、第三期に租界回収、第四期に租借地返還、第五期に鉄道利権等回収です。
一九三一年、満州事変の年の春、重光葵臨時公使がその真意を訊(たず)ねると、王正廷はこの計画を肯定し、租借地には旅順、大連、鉄道利権には満鉄も含まれると答えました。
これでは全くの衝突路線です。重光は日本でこれを幣原に報告し、事態が行き詰まるにしても「堅実に」行き詰まるようにすべきだと述べ、幣原と「堅実に」を合言葉として、固い握手をして別れました。「堅実に」というのは、「いかなる場合でも、外交上日本の地位が世界に納得されるようにしておく」ことだと、重光は説明しています。
さすがの幣原も、再任以来、王正廷との外交では苦労しています。日本の駐支公使を新任しようとすると、その人物がかつて二十一カ条要求に関与したことを理由にアグレマン(同意)を出さず、外交儀礼を破って、その理由を新聞に公表しています。
かつて幣原が率先提案した関税交渉は、済南事件のおかげで、かえって日本が最後に協定を結ぶことになります。
それでも幣原の外相復帰は、「田中武断外交去り、幣原平和外交来る」と、民間の反日運動もやや下火となり、日本の軍事顧問招聘(しょうへい)の数も増えたりしています。
≪排日侮日運動が奏功≫
しかし、満州事変の年早々に、蒋介石と反蒋連合軍の天下分け目の戦いがあり、張学良は蒋側に参加して勝ち、大いに地歩を固め、それ以降は自信をもって反日運動を進めるようになります。
田中時代に張作霖が合意した鉄道問題も、南京政府と話してくれ、といって取り合わず、逆に、満鉄と競争する平行線の計画を宣伝して日本側を刺激しました。
最も効果があったのは、排日侮日運動です。利権回収といっても、条約上の権利はなく、実力で取り返そうとしても、かえって日本の武力にやられてしまいます。そこで日本に武力行使の口実を与えないギリギリの範囲で、在留邦人、とくに女性、学童に、唾(つば)を吐く、石を投げる、殴る、小売を拒否する等のいじめで、満州にいたたまれないようにする方策です。
重光によれば、これを国民党指導の下に国策遂行の手段として行いました。
マクマリーの覚書は満州事変後、振り返ってどうしてこうなったのか、当時の情勢を分析したものですが、日本側の中正穏健な識者達も同じような感想を洩(も)らしています。
「満州国の建設という結果となった原因の一つにシナの利権回復熱の躁急(そうきゅう)性をも挙げねばならない」(矢内原忠雄)
以下略
岡崎久彦
「百年の遺産-日本近代外交史(38)」より抜粋
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【田中内閣誕生と辞職】
大きな転機となった済南事件
(産経新聞2002年5月16日掲載) より抜粋
田中の就任早々、南京を制圧した国民党軍は、北進を始め、在留邦人や日本権益の多い北方地域に迫ったので、田中内閣はこれに対して、幣原の不干渉政策の反動として、武力による邦人保護政策を取ります。
この時は、国民党軍は敗退しますが、一九二八年には大兵力で再び北上し、たちまち山東省境に迫ります。
もうこの頃は、蒋介石軍の北京制圧は必至で、邦人保護も蒋を信頼して任せる考えもありましたが、さきに一旦(いったん)打ち出した武力邦人保護の方針に沿って出兵します。
その結果、自(おのずか)ら両軍の衝突も生じ、邦人に対する掠奪(りゃくだつ)、虐殺、凌辱(りょうじょく)事件も起きます。これが済南事件です。
幣原は、翌年の貴族院で「南京事件では出兵せず、日本人には一人の死者も出なかった。済南では出兵して、かえって死傷者を出した。……多年築かれた日支親善関係は根底から破壊された。実に国家のために痛恨に堪(た)えない」と発言しています。
たしかに済南事件は大きな転機となりました。中国の排外運動の主要目標が、従来の英国から日本に移ったのは、この時からです。
この事件を契機に、知日派の黄郛(おうふ)外交部長は、英米派の王正廷に代わり、以降中国の政策は国際場裡での日本非難、孤立化の政策に変わります。
田中内閣は就任早々、対支政策の見直しのための東方会議を開いています。
実はその結果は、強硬派の森恪政務次官などの当初の意気込みに反して、それほど抜本的な政策転換を提言しているわけではありませんが、幣原外交を否定する新しい政策を打ち出したという内外のイメージの方が先行します。
後に東京裁判で引用される、日本の世界征服案、いわゆる田中上奏文という偽書が、中国の新聞紙上に表れるのも、この会議の後です。
≪現実主義者の田中≫
田中はより現実主義者でした。田中は当時の奉天総領事吉田茂が、張作霖との間に意思の疎通を欠いていたので、満鉄総裁山本条太郎に交渉させて、鉄道問題など多年の懸案はほぼ解決の目途がつくに至っていました。
他方、関東軍や在満邦人の間では、張がだんだん日本に対して尊大になってきたことに不満が鬱積(うっせき)し、張が北京を国民党軍に明け渡して帰る途中、列車を爆破して殺してしまいます。田中は「なんたる馬鹿どもだ。親の心子知らずとはこのことだ」と、繰り返して慨嘆(がいたん)したといいます。
西園寺公望は、軍紀を厳正にする方が長期的には良いのだからと、犯人の断罪と軍の綱紀粛正を田中に説き、田中も天皇に真相の公表と厳重処分を言上します。ところが、閣僚はこれに反対し、結局警備の手抜かりの処分にとどめます。これを事後報告した田中は、その場で天皇から食言を問責されます。誠忠な軍人として天皇のご信任を失った以上、田中としては辞職するしかありません。追いすがって反対する閣僚に「黙れ!」と一喝して辞職します。
この事件は昭和史の大きな転機となります。一つは、軍人が独断専行しても、動機が私利私欲でなく純粋ならば処罰を受けないという先例となり、その後の軍人の跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)の弊は、ここに発します。
もう一つ重大なのは、日英同盟と大正デモクラシーの子であり、英国風憲政を信奉された昭和天皇が、その時のご言動が、「君臨すれども統治せず」という原則に背馳(はいち)して、田中を辞職させたことを反省され、その後、昭和史の節目において、天皇以外チェックできないような事態でも、自らのご言動を自制されるようになったことです。
以下略
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以上「百年の遺産-日本近代外交史」より抜粋
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