人格障害という次元不安を避けるための「〜ねばならない」ルールが歪んだ形で定着し、幼少期から繰り返し用いられ、すっかりその人の思考や行動パターンを支配することがある。習慣化された思考や行動パターンは、その人の性格そのものだと見なされるので、その人は性格に障害があるのだと診断されることになるだろう。そしてこの性格の障害のことを、現在のアメリカ精神医学会による「精神障害の診断・統計マニュアル」(DSMW)では、人格障害と呼ぶようになっているのである。
人格障害はアメリカの精神医学会による比較的新しい分類上の概念であり、習慣化した行動パターンや思考の歪みがみられ、社会生活上の支障をきたしている人々を指している。つまり、過度に歪んだルール、内的規範を身につけた人々のことを、治療の便宜上、人格障害と呼んでいるのだ。人格障害者はある特定の「〜ねばならない」という思い込み、誤った信念、不合理な思考が頑固なほど身についている人たちであり、社会的適応のバランスが欠けているのである。
一口に人格障害と言っても。その種類は思考と行動のパターンによって分類されており、それはどのような内的規範を持っているかで違ってくる。人は誰でも自我の不安と欲望を持っており、自分が他人にどのように評価されるのかを気にし、嫌われたくない、見捨てられたくない、愛されたい、褒められたいと思っている。だからこそ、他の人々に肯定されるような、様々な「〜ねばならない」ルールを身につけ、誰にとっても共通に了解し得るような内的規範を持つようになるのだ。
ところが、何らかの強い不安が原因で、不安を回避するために特殊な考え方や行為が必要とされる場合もある。それは他の人々と共通性のない「〜ねばならない」ルール、不合理な思考と行為であるかもしれない。しかし、不安を避けるために不合理な思考や行動パターンを身につけてしまえば、その特殊な行動パターンに対応する性格、人格障害として診断されることになるのである。
例えば、「回避性人格障害」と診断される人たちは、他人との関わりを避けるところに特質があり、その結果、家にひきこもる人たちも少なくない。彼らは自分を社会的適性の欠けた無能な人間、愛される価値のない人間だと思い込んでおり、他人からそのようにはっきり評価されることを怖れている。そのため、自分が評価の対象になるような状況に不安を抱き、その状況を回避しようとするのである。対人恐怖症者も他者との関わりに極度の不安を抱いているが、この不安を回避するために人との関わりを避け続ければ、「人との関わりは極力避けなければならない」というルールを身につけることになるだろう。そして、自分は社会性のない人間であるという自己像、人とは関わらない方がよいという内的規範を形成し、回避性人格障害になるのである。
自分を否定的に考える人格障害としては、他に「依存性人格障害」というのもある。依存性人格障害者は、自分を援助の必要な無力な存在だと考え、生きていくためには他人が必要だと考えている。そこで強い保護者を求めて依存し、服従しようとするのだ。これも、もともとは不安を回避するために他人に頼っていたのが、徐々に「他人に依存せねばならない」というルールを作り上げ、依存性人格障害としての内的規範を持つようになったのである。
一方、他人を信頼せず、否定的に考えるタイプの人格障害もある。例えば「妄想性人格障害者」は、いつも他人に対して不信を抱いている。親切にされても、何か企みがあるのではないかと疑い、よそよそしい態度は敵意の現れとして感じられるのである。この場合、他人に騙され、裏切られるという不安を回避するために、「他人を信じてはならない」「他人の企みを暴かねばならない」というルールに縛られるのである。誰でも精神的に不安定なときには、多少は疑心暗鬼になるものだが、妄想性人格障害者は、そうした精神状態における思考が日常的になり、内的規範として定着していると言えるだろう。
他人を信用しない点では、「反社会性人格障害」にも同じことが言える。反社会性人格障害の人は自分を特別な存在だと考え、他人を攻撃したり略奪しても構わない、自分には規則を破る権利があると考えている。これも基本的には他人に騙され、裏切られるという不安を回避するために、自分から先手を打って他人を攻撃するのであり、しばしば犯罪行為にまで至るのだ。
また、「強迫性人格障害者」のように、完全主義で常に「〜ねばならない」に駆り立てられている人もいる。彼らは過度に秩序や規則に従うのだが、これは強迫神経症における強迫行為が身につき、合理化され、内的規範にまで固定されているのである。また、「演技性人格障害」というのもある。彼らは自分が魅力的で注目に値すると考えており、「他人から賞賛されねばならない」というルールによって、他人に強い印象を与えて魅了しようとするのである。
他にも、「他人に制御されることは耐えられない」と考え、他人と競合するような状況を回避し、一人で追求できることに関心を持つ「受動攻撃性人格障害」、自分はもともと一人だし、他人との関係は報われないものだと考え、親密な関係を犠牲にして単独活動を好む「分裂病質人格障害」などがある。
このように、いずれの人格障害も、何らかの強い不安が原因で不安を回避するために特殊な考え方や行為が必要とされ、その思考と行動のパターンを身につけたのだと考えれば、問題は極めてシンプルであろう。しかし、こうした内的規範の歪みだけでなく、精神病に近いような症状を見せる人格障害もあるので、この人格障害という分類概念は十分に整理されているとは言えない。
例えば、「自己愛性人格障害」の人は、自分は特別な存在であり、誰もがそのことを認めなければならないと考え、自分の優位を強化するためなら何でもする。これは単純に内的規範が歪んでいるというより、未成熟で幼児的な自己中心性が修正されないまま、大人になったのだと考えた方がいいので、内的規範が歪んで形成されたというよりは、あまり形成されていない、未成熟だと考えたほうがいいのだ。
自己愛性人格障害よりもさらに内的規範の弱い人格障害が、「境界性人格障害」(ボーダーライン)である。境界性人格障害には特定の信念や行動パターンは見られず、多くの人格障害の複合的な特徴を示すので、自我が未成熟である点が診断基準となっている。もともと境界性人格障害は、神経症よりも病理は深いが、精神病ほどではない、その境界にある病だと言われ、精神分裂病と神経症の境界に位置づけられるケース(境界例)として扱われてきた。その特質は、不安定な感情と行動、見捨てられることへの強烈な不安、そして原始的な防衛機制が見られることである。
原始的な防衛機制とは、幼児期以前の原始的な防衛(分裂、投影、同一視など)であり、例えば崇拝し、絶賛していた人を、ちょっとしたことで最低の人間のようにボロクソに罵倒するような人は、「分裂」という防衛機制が働いている。また、自分の感情と他者の感情を混同し、ある人が憎ければ、自分がその人に憎まれていると感じたり、自分が愛しているのに、自分が愛されていると感じるようであれば、「投影」や「同一視」といった防衛機制が働いている。したがって、境界性人格障害は、他の人格障害よりも自我や内的規範が弱く、病理は深いと考えられるため、人格障害として分類するのは無理があるとも言えるのだ。
以上のことから、人格障害は内的規範に社会との共通性を欠いた歪みが見られ、病理が深い場合は原始的な防衛も見られる、と考えておくのが妥当であろう。内的規範が歪んでいるため、考え方や行動パターンが偏ってしまい、人格そのものが偏っているように見えるのだ。勿論、誰もが同じ内的規範を持っているわけではないし、強烈な個性と言われる程度の、他の人々にも許容される範囲での言動なのであれば、病気と見なされることはないだろう。人格障害という概念は、あくまで精神科医が診断する上で、便宜的に使っているものなのである。