エーリッヒ・フロム 『自由からの逃走』「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、ゆずり渡せる相手をみつけたいという、強い願いだけしかもっていない」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
フロムが指摘するこのドストエフスキーの言葉は、「自由」からの逃避について書かれた最も適切な一文として記されている。
「自由」は担うには重すぎる。自由な社会に生きているとされている人々もまた、自由の重荷から逃れるための、あらゆる逃走を試みている。
「自由」は、無限に存する自分の可能性に向き合うことだろうか。むしろ「自由」は、広大無辺な宇宙の片隅に置き去りにされた砂粒ほどの自分自身に、たった独りで向き合うことではないのか。「自由」は、自分の思うままに誰の目もはばかることなく生きることだろうか。それではどれだけの人が、自分自身の意志、思考、感情で生き得るだろうか。本書は、自由な社会で自由に思考し発言し行動して日々生きていると信じている巨大な資本主義の構造に組み込まれた民主主義の世界に存在する人々を型にとり、自由の幻影を描いてみせ、デモクラシーの危機を警告し、且つ民主主義を担う人間一人一人の能力、自由を担う能力、自由を用いる能力を問いかけるような著書である。
本書には、西欧において人々が前近代的な社会の束縛からの自由に勝利し、近代デモクラシーの完成へと辿ってきた軌跡、そしてナチズムの出現、その土壌を醸成してきた個人の心理的要因、また近代社会の人々の心理とルネッサンス期の人々の心理の類似点、宗教改革の指導者ルッターやカルヴァンのパーソナリティなどとの関連、果ては現代人の自由とデモクラシーの問題へと導かれ考察されている。
本書の概要を、拙筆で記しきれるはずもないが、多少部分的に試みてみる。
かつて、人間は自分自身を支配する巨大な権力から、個人の自由を獲得するためにあらゆる戦いを続けてきた。教会の支配、絶対主義国家の支配、生まれながらに定められた明確な身分や職業、それらは選択の自由はなくとも敷かれたレールを生きることによる安定感、帰属感があった。それと対照に資本主義の発展は、個人を解放したがそれと同時に、個人を独りぼっちにし、すべてはみずからの努力にかかっていて、自己自身が運命の主人となり、金銭が人間を平等にした。そして、資本主義は経済的活動や物質的獲得が目的であることから、次のような状況がうまれる。
●引用文はすべて『自由からの逃走』/エーリッヒ・フロム(日高六郎:訳)/東京創元社を使用しています
「経済的組織の発展に寄与することや、資本を蓄積することを、自分の幸福や救済という目的のためにではなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となる。」(p127)「資本の蓄積のために働くという原理は、客観的には人類の進歩にたいして大きな価値をもっているが、主観的には、人間が人間をこえた目的のために働き、人間が作ったその機会の召使となる、ひいては個人の無意味と無力の感情を生み出すこととなった。」(p129)
このような状況を「かれは楽園の甘い絆からは自由である。しかし自己を支配し、その個性を実現することへの自由はもっていない。」(p44)と記し、「〜からの自由」「〜への自由」という二つの自由として定義している。
本書で描かれている多くの考察の中から、とくにここで一点に絞って記したいこととして、自由からの逃避のメカニズムの例として挙げられた「機械的画一性」の問題がある。拠るべきところを失った自由な個人にとって、人生に対する無意味感、空虚感、無力感が増大すると、多くの正常人がとるその解決方法としてフロムは「機械的画一性」を挙げている。これはおそらく多くの人によって既に認識されている事柄であろうと思うが、改めてフロムの言葉を用いると、
「簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパーソナリティを、完全に受け入れる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう」(p203)ということである。
外的ななにものからも解放されているはずの人々は‘自分の思うままに生き、考え、感じ、行動している独立した個人’である、という個人主義の人間観を信じているが、実際には自由の幻影を信じているにすぎない、そしてこれは危険な幻想であると指摘する。この箇所はある催眠術の例をとって説明されていて、非常に興味深い箇所である。「私は思う」「私は意志する」「私は感ずる」という経験が、実はそれは外部から与えられた情報なり感受性や思考のパターンであり、更には自己主張を正当化するために後から「合理化」をつくりあげたもので、実際は思考の根拠が自分自身の中に見出されない。
危険な幻想であるというのは、その考えが正しいかどうかではなく、それが自分自身の精神行為の結果生じた考えであるのか、それともどこかから暗示された意見を自分の思考の結果であると思い込んでいるか、の区別がついていないところにあるといえる。
それでは自発性、独創的な精神行為というのはどういうものであるか。
「独創的とは、くりかえしていえば、ある考えが以前にだれか他人によって考えられなかったということではなく、それがその個人のなかではじまっているということ、すなわちその考えが自分自身の活動の結果であり、その意味でかれの思想であるということを意味する。」(p268)「われわれはどのような外的権威にも従属していないことや、われわれの思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。そしてわれわれはこの自由こそ、ほとんど自動的にわれわれの個性を保証するものであると考えている。しかし思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理条件があってはじめて、恒久的な成果となる。」(p267)
思考が自分自身の中から始まっていること、が最も重要である。
フロムが1941年に本書で描いてみせた現代人の姿は、もちろん21世紀を生きる我々にも身に覚えのある姿であろう。
視点を今見ている目の前の社会に移してみるなら、今、我が国において享受している平和、人権尊重といった観念、自由や幸福、そしてそれを明記した憲法について考えてみると、これは自分自身で勝ち取ったものではなく、かつて戦勝国からの贈り物ではなかったろうか、それを真に自分自身のものとして認識することは実は難しいことであり、果たしてそれができているだろうか、という疑いは今尚ある。その贈り物としての「〜からの自由」が、今後(憲法改正の議論等、大きな転換期にきている今)、自我の実現に根ざした「〜への自由」へ向かうことは、一人一人の自由を用いる能力にかかっている、ということとも照らし合わせることができると考える。
デモクラシーと自由について書かれた言葉を最後に引用する。
「デモクラシーの未来は、ルネッサンスこのかた近代思想のイデオロギー的目標であった個人主義の実現にかかっている。今日の文化的政治的危機は、個人主義が多すぎるということではなく、個人主義が空虚な殻になってしまったということに原因がある。自由の勝利は、個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会、また成功やその他どんなことにおいても、なにも弁解する必要のない生活が行われるような社会、また個人が国家にしろ経済機構にしろ、自己の外部にあるどのような力にも従属せず、またそれらに操られないような社会、最後に個人の良心や理想が、外部的要求の内在化ではなく真にかれのものであって、かれの自我の特殊性から生まれてくる目標を実現しているというような社会にまで、デモクラシーが発展するときにのみ可能である」(P297)「われわれのデモクラシーにたいする容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在するということではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちをしめた諸条件が、まさにわれわれ自身の態度のなかにも、われわれ自身の制度のなかにも存在するということである。したがって戦場はここに−われわれ自身とわれわれの制度のなかに存在している」(p12)(ジョン・デューイの言葉より)
社会を作っていくことは壮大なテーマであるが、大海の一滴に過ぎない一個人になど一体何ができるというのだという無力感と無関心によって動かされていく空虚なデモクラシーではなく、また画一化や同一化によって自由の賜物を安易に譲り渡してしまった幻影としてのデモクラシーではなく、フロムが記した言葉のような真の自覚のもとに自我を実現してゆく理想が大切であるという思いを新たにする。
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