投稿者 デラシネ 日時 2005 年 11 月 07 日 14:56:18: uiUTTMWMO8Vq6
二元論に見る「考察者K氏」の胡散臭さ:あっしらさんとの論争を総括して
表題の展開に移る前に、まず以下の2つのコラムをお読み下さい。
- T
- ■二元論の誘惑
キリスト教は二元論ではない、とされます。善と悪の対立を根底に抱えながらも、二者択一の図式で救いを説くのではない、というのです。
たしかに、紛らわしいがゆえに、発生時から二元論的な異端との闘いが続きました。グノーシスという最大の神秘主義思想の払拭は、新約聖書本文にも影響を与えています。教父アウグスティヌスが紛れ込んだマニ教もまた、二元の中で信仰を説明したとされています。
二つのものが対立して、その中でどちらを選択するか、という考え方は、極めて分かりやすいものです。しかし、思い返せば、私たちの生活の中でも、イエス・ノーで割り切れないゾーンは幾らでも残っており、「どちらでもない」が一番無難に見えるのは、たとえば日本人ならよくあることでしょう。日本人の曖昧さと言われるものも、時に健全な「中庸」の判断をなすことがあるというわけです。
自分たちの思想に、人を誘導しようとする人々がいます。たとえば、カルト宗教がそれだとしましょう。彼らは、Bでいいのか、と詰問します。いや、Bはいけない、と相手は答えます。じゃあ、Aしかないではないか、とAが正しいと信じ込ませてゆくのです。
論理的に考えれば、Bでいけないのであっても、必然的にAしか残っていないわけではない場合があるはずです。nonB=A と言えないことがあるはずなのに、彼らの迫り方で、あたかもBの否定が即Aの肯定であるかのように思い込まされていきます。
二元論であれば、この論理は成り立ちます。しかし、もし対立する二つ以外の選択肢や発案があるとすれば、この論理は成り立ちません。
ヘーゲルの弁証法が、第三の「止揚」を重ねて世界精神は発展すると説いたのは有名です。しかし、ともすれば二元論のように見なされる、ヘーゲルより以前のカントもまた、事項を三つのカテゴリーで捉えています。たんなる矛盾を克服する第三の思考法がありうることを、カントは熱く説くのです。それが、科学的であるとは言えないにしても、いわば精神的にはありうるということを。
二元論の元祖であり、近代科学思想の根底を形成した張本人のように言われるデカルトでさえ、精神と物質の橋渡しをする機構を想定しないことには説明できない事態に陥りました。
だのに、今なお、二元論で迫る組織があり、人々がそれに騙されるというのは、人間が如何に二元論の誘惑を受けやすいか、を表しているものと思われます。
常々取り上げる、S新聞のコラムニストは、この二元論による誘導を得意としています。おそらく自分で意識しているではなく、自分もまた、二元論を信じ切っているがために、そうするのだと推測します。
つまり、相手の非を挙げれば、自分が正しいという結論になるという図式を、戦争や政治、イデオロギーを扱うコラムでは、必ずといってよいほど用いるのです。
世の中の扇動的な情報の中には、気をつける表現があります。次のような言い方をする場合は、要注意です。
「だから〜するしかない」
一つの思考法、一つの枠へ追い込むときの、強い言い方です。もちろん、直接そう言わなくても、そう感じさせるような書き方は幾らでもできます。読んでいくうちに、自分が、「なるほど。じゃあ、〜するしかないな」という感想を持ち始めたら、それは、筆者の勝ちです。
この罠に気づけば、読者はまだ助かりますが、気づかずにいれば、操られていくことになります。
http://takapan.nobody.jp/bible/b_dualism.html
- U
- ■二元論を使うとき
二元論を使うときって、"それに対して詳しくない人々"に向かって投げかけます。
決して専門家なんかに使ってはダメ。
例えば選挙で言えば、投票する人のほとんどは政治に対して専門家ではありません。
で、彼らが専門家である必要もないわけです。
人々には、それぞれの暮らしがありますから。
1人ひとりが政治と関わっているからといって、専門的な知識や考え方を持っている必要などありません。
同じく、アナタのお店に来るお客さん。アナタの商品を購入するお客さん。
彼らも同様に、アナタの売る商品やサービスに対しての専門家ではありません。
詳しい人はいても、詳しくなければならない必要はありません。
そして圧倒的多数は、詳しくない。
このような"それに対して詳しくない人々"に対して、わかりやすく興味を惹きやすい情報を提供することは、大切です。
この場合、二元論は有効に機能するわけです。
相手に向かって二者択一の選択肢を用意します。
もちろんアナタの都合の良い一方が"答え"になるような選択肢です。
アナタは二元論を駆使することで、自分のビジネスや人生の駆け引きを有利に持っていくことが、可能になります。
ところが、二元論の様な情報の簡略化は、誰にでも通用するわけではありません。
専門家など、"詳しい人"には通用しないんです。
例えば、会社の会議やプレゼンなんかで安易に使うと危険かも。
会社のメンバーはそれぞれ、自分たちの業務に精通してます。
専門的な知識もあるし、考え方もシッカリしている。
この様な人たちに向かって、例えば自分の提案を受け入れてもらおうと二元論を使うと
「頭悪いな、コイツ」だとか「使えねーヤツだな」だとか、そんな風に思われてしまいます。
二元論をはじめとする情報の簡略化は、情報を四捨五入し省略することで生まれます。
でも正確な答えを導くには、細部にいたるまで検討する必要があるわけです。
つまり、二元論の様に単純化すればするほど、きちんとした考察とはかけ離れていきます。
で、それを聞かされる専門家達って、そんな単純な話しかしないアナタに呆れます。
その議論に対して詳しい人たちは、細かい部分まできちんと目が行き届きますし、また考察力も高いですから。
細かい論点まできちんと考察できてなければ、評価されないんです。
二元論を用いるときって、使う相手を間違えると、かなり痛い。
だから、使う時は気をつけないと。
そして逆に、二元論を用いる相手には、振り回されちゃいけない。
それが大切です。
情報という大きな川の流れの中を、上手く渡っていく。
そんな知恵が、アナタには必要なんです。
そんな二元論がどれくらい世間では流れてるのか?
ちょっとだけ、そんな風に周りを見渡してみるのも、良いかもしれません。
http://blog.mag2.com/m/log/0000136959/106399397?page=1
二元論というものを説明するのが目的なので、ここでは不要と思える箇所(コラム後半の聖書だの民主党だのというところ)は省略しました。
基本的なことはご理解頂けたと思います。
考察者K氏の胡散臭さ。
この"胡散臭さ"の正体を、あっしらさんのお陰で言語化することができました。
先ずはあっしらさんにお礼を申し上げておきます。
▼
自分たちの思想に、人を誘導しようとする人々がいます。たとえば、カルト宗教がそれだとしましょう。彼らは、Bでいいのか、と詰問します。いや、Bはいけない、と相手は答えます。じゃあ、Aしかないではないか、とAが正しいと信じ込ませてゆくのです。
▲
「これでいいのか!」ときて、「こうするしかない!」というのが考察者K氏の常套手段です。
典型的な二元論で、「こうするしかない!」以降に氏の論理が展開されている。
この論理 −論理と言うより論であって、理は切捨てられています。− に対し、誰が如何なる反論を試みても氏は承服しない。
イデオロギーにしてもドグマにしても、これらはその内部においては100%、つまりK氏の主観において完成されてしまっておりますから、K氏においては他者からの反論など聞く耳すら持ちようがありませんし、「細部の切捨て」を指摘されても平気の平左です。
この構図はまさにカルトそのものであることを、容易にご想像頂けるものと思います。
コラムのUに移ります。
すでに賢明なる読者諸氏においてはピンとこられていると思いますが、このコラムにおける会社の人たち(専門家=あっしらさん)に対し、二元論でもって論争をしているのがK氏だということです。
>二元論を使うときって、"それに対して詳しくない人々"に向かって投げかけます。決して専門家なんかに使ってはダメ。
殆どパロディなのですが、K氏にしてみれば自身が如何に二元論という単純な思考体系に支配されて生きているかという自覚がなく、故にあっしらさんが「専門家」であるということがわからない。
専門家というよりも、その思考体系が"複雑系"− 小生は「知の統合に向かう高次のプロセス」と理解しています − にあるあっしらさんと、単純な二元論者たるK氏が論争をしても、最初から互いに共訳不可能であることくらい火を見るよりも明らかでしょう。
(蛇足ですが、もし小生があっしらさん批判という暴挙を犯すとするならば、ご自身が有するような太い文脈を持たない"下々の者"に対し、その高みからものの道理を説かれても、「それは理解しろという方が無理だろう」、というところから始めます。これでかすり傷程度でも一太刀あびせられるかもしれません。(^^; )
話がどんどん飛躍してしまいそうなので戻りますが、K氏は自身を「考察者」と名乗っておられるが、これが如何に「不備なハンドルネーム」であるかは以上の説明においてご了解頂けるものと思います。
考察者を名乗るなとは言いませんが、少なくとも「二元論的考察者K」乃至「詭弁的考察者K」としないと、とんでもない誤解を人様に与えてしまう可能性があるということです。
コラムTにもありましたが、我々は如何に二元論思考に支配されているか。
申すまでもなくその第一の責はメディアにありますが、ただメディア側に視点を移せば「二元論を用いなければ人は動かず、何も訴えられない」という切実な事情があります。
そういう意味で二元論とは極めて「麻薬的」であり、また阿修羅においてもK氏一人を「二元論者」と責めたてるのはお門違いであろうことも理解しているつもりです。
だがK氏においては、自身が単純な二元論者であることすら自覚せぬままその稚拙な論を振り回し、連日のように人々を扇動し、また人々の不安を喚起していることには大きな罪があると断罪せざるをえない。
時に無自覚な者は、自覚している確信犯より大きな罪を犯すことがあるのです。
このK氏に対する苛立ちに関しては、小生とあっしらさんは共有していると断言できます。
阿修羅は「政治サイト」を目指しているようですが、まさに「政治理論」こそ悪しき二元論の巣窟でありましょう。
現在流通している世俗的な政治理論は、すべからく二元論によって構築されていると言っても言い過ぎではありません。
究極的には政治の素人たる庶民を交えてコンセンサスを構築せざるをえない為政者集団が、安易に二元論に陥るのも無理からぬところです。
ですがこれを批判せねばならぬ側が、為政者側の土俵にあがって同じように二元論の陥穽に嵌ったまま、十年一日の如く空虚な批判を繰り返していてはまるで救い難いと言えますまいか?
いいかげん我々は、この不毛なる「二元論地獄」から脱却すべきではないか?
どうすれば良いかなど浅学非才な小生如きに即答できる筈もありませんが、少なくとも我々個々人が日常の様々な場面において、「この自らの判断は二元論的な思考に基づいて下されたものではなかろうか?」と自問するところから始めるべきではないでしょうか。
この世には「弁証法」(さまざまな議論の技術)というものが存在し、メディアからの情報にしろ政治家の演説にしろ、それがどういった弁証法において成されているかも識別できずして、我々は他にどうやったら有意な批判を加えまた判断を下すことができるというのでしょうか?
K氏にとっては辛らつな批判ではありますが、「哲学など役に立たない」などという暴言が如何に自身の無教養さの発露であるかを自覚猛省され、一刻も早く「二元論考察者」から本来の「考察者」に昇格されんことを願ってやみません。
以上。
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