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こういったことを平気でやるメンタリティーを持つ国の政策だということだ。(怒)
愚民党さんのご投稿
●米軍兵士は「条件反射」でイラク民衆を殺す 行動心理学に基づく「殺人マシーン」化訓練で洗脳 【蛭田勢二】投稿者 愚民党
http://www.asyura2.com/0510/war75/msg/470.html
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●出鱈目っすな。投稿者 デラシネ
http://www.asyura2.com/0502/social1/msg/549.html
日本で犯罪が少ない理由 − プロファイル研究所
http://pine.zero.ad.jp/~zac81405/ethics.htm
問題提起
「安全神話が崩壊した」と言われて久しいが、データを見れば安全神話はいまだ健在である。
「激増する暴力犯罪が・・・」と言っている人々は、社会が安全になると失業するので無用の危機感をあおっているようにしか見えない。
日本では何故犯罪が少ないのか?
そのことに答えを出した識者を私は寡聞にして知らない。
貧困層が存在しないこと、失業率が伝統的に低く維持されてきたことは一つの原因かもしれない。
しかし、過去30年の失業率と犯罪発生率の回帰係数は約0.5で、有意な相関関係はない。
つまり、失業と犯罪は因果関係がほとんどない。
たびたび不祥事があるとはいえ、警察が曲がりなりにも優秀で、国民との間に強固な信頼関係があることも一因だろう。
途上国の警察はワイロが蔓延し目おおうばかりの惨状で、アメリカの警察もBlue Wall(制服が青いことから)といわれる、不祥事隠蔽・ワイロ体質が問題になっている。
30万人の組織であれば、覚醒剤を打ったり、女子高生の下着を盗撮するする警官がいてもおかしくはない。
ただ、そうした枝葉末節よりそもそも日本人が犯罪を犯さないようにしている「規範」が何であるかを問うべきだ。
日本には伝統的に唯一神が存在せず、儒教的倫理は江戸時代中期にすでに崩壊していた。目に見える形での経典や言葉で簡単に説明し得るような倫理観が存在しないにもかかわらず、一神教の要請するような倫理的脅迫よりはるかに有効に機能する倫理とはいったい何か?
以下では、「武士道」には言及しない。
それは江戸時代に武士は人口の10%に過ぎなかったためだ。
少数の集団の慣習は国一般を論ずるには適さない。
また新渡戸稲造自身が「武士道」の最後で、武士道がすぐに捨て去られたのは伝統に根ざしていないからだと述べているように、武士道は日本人の行動を律する原理としては機能していないという立場を筆者が取るためである。
伝統的共同体
元来、極めて原始的な感情として生物的な「快・不快」「清・ケガレ」を感じてきたものが、「赤き心」(あるいは恥じ)として形成されてきたことは、『日本書紀』や『古事記』に記されている。
しかし、これはR・ベネディクトが『菊と刀』で「恥の文化」として指摘した「倫理観としての恥」とは異なっている。
農耕社会形成期の共同体の形成原理として、なんらかの倫理的取り決めが行われたことは想像できる。
もともと日本語(漢字)の「倫理」という言葉が「倫(なかま・関係者)」への「理(道筋)」という成り立ちである点で、基本的に、仲間との共同関係のあり方の道筋として、初めから「共同体」を形成する意図を持って「倫理観」を規定してきた。
従って、西洋のエートスとは異なって、はじめから「共同体」志向があり、「人との関係をうまく保つこと」がその根底にはあると言える。
こうした状態に、儒教と仏教が導入されたが、聖徳太子に見られるように、その受容は、あくまでも「共同体形成」が主軸だった。仏教も儒教も、国家的理想が社会倫理を規定していく方向で、必要な部分だけをうまく切り取って受容してきたのだ。
やがてその構造は、封建制の主従関係と結びつき、無意識の倫理支配を生んだように思える。
日本人の倫理観は、その根底において、社会的・共同体的な現象の中で、人間関係がうまく確立され、それによって共同体がうまく維持・形成されていくことを志向することによって形造られてきた。
「幸せ」とは「仕合わせ」であり、物事がうまく合わさっている状態を指し、それは共同体の中での関係がうまく保たれている状態をいう。
そこで共同体を破壊するような行為(殺人・窃盗など)は、犯罪として厳罰とされるが、個人がどんな過ちをしても共同体を破壊しない限りは寛容に受け入れられてきた。
「中学の頃から酒を飲んでる」と聞けば、たいていの日本人は笑い飛ばすだけだが、アメリカなら裁判所に送られる。
日本では「酔っ払い」を微笑ましいものとして寛容に対処するが、イスラム教国なら死刑、西欧諸国でも罰金は当然だ。
従って、共同体の中での関係がうまく保たれている状態が「幸せ」であるために、個々の礼節についての論理は極めて発達したが、倫理を体系的に国家や社会のあり方から根本的に問うような倫理観は、自覚的に取られなかった。
それ故、日本の倫理観を問題にするとき、性善説や性悪説といった個人の資質の問題であるよりも、むしろ「共同体的」形成論理としての倫理が長い歴史上に形成されてきたことを重視しなければらならない。
そこで、この共同体倫理が実体としてどういったものであるかを解き明かす必要がある。
価値相対主義の伝統
日本人は老荘を学んだわけでもないのに老荘的なところがあって、虚(無あるいは空)を上に置きたがる。
また、虚の本質と効用を知っているようでもある。虚から全てが生まれるとも思っている。
司馬遼太郎「この国のかたち・高貴な虚」
この点、山本七平が著した「空気の研究」という極めて興味深い指摘がある。
例えば、サラリーマンが夜遅くまで残業すること、誰もいない真夜中の赤信号で止まって待つこと、そうした日本人の行動に対して「なぜ?」と問えば、多分、「そういう雰囲気ではない」といった答えが返ってくる。
ここで、日本人の倫理的規範とは「空(くう)」ではないかという仮説を設定したい。
この点については、すでに気づいている論者もいる。
フランスの哲学者ロラン・バルトなどをはじめ、「ミカドの肖像」の猪瀬直樹も「日本という国家の中心には空白がある」と述べている。これは、その空白を埋めるために、様々な外国産の思想を輸入しては捨て去るということを繰り返してきたという説である。
丸山真男は「日本の思想」の中で、「日本にはあらゆる思想体系が伝統化しない伝統がある」と述べているが、これは猪瀬と同様の指摘だと言えるだろう。
では、この「空」とはいったい何でありどのように日本人の倫理観を形成しているのだろうか?
この点において、哲学史上の巨人である西田幾多郎的な「禅思想」からは一線を画したいと私は考えている。
それは私を含めて日本の一般人は、禅がどういったものであるかすらほとんど知らないからだ。
倫理観の根源に宗教的思想を仮定したがるのは、マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムへの考察に引きづられているだけだ(「倫理」を考えている私も同類だが)。
こうした考えを持つ人々は、禅や石門神学、浄土真宗が日本の資本主義発展の源泉であるという結論に行き着いてしまう。
私がそうした立場をとらないのは、私たち現代の世代はそうした考えを教わったことはなく、それが何であるかすらまったく知らないという単純な事実が根拠だ。
つまり、日本人の厳格な労働倫理や社会を安全に保っている道徳は宗教に基づくものではない。
宗教とは最高裁判例によれば「超人間的存在を確信しそれを信仰・崇拝する心情または行為」だが、多くの犯罪を犯したことのない日本人は超人間的存在を信仰していない。
反対にあらゆる宗教に対して懐疑的になることが現代の時代精神であるとすら言える。
「輸入された思想が伝統化しない」と指摘した丸山真男はついに自らの結論を示すことができないまま、なかばヒステリー的な主張に到達したが、それは必然の帰結だった。
何故なら、西欧的意味の倫理観は日本には初めから存在しないからだ。
この点が丸山真男が西洋主義者であるが故の限界だった。
「日本には何故キリストがいないのか」という問いは、設問自体がすでに間違っていることに気付くべきだったのだ。
加藤周一などの知識人も、想像を絶する膨大な知識を駆使して日本という国家を論じた結果に、日本に西洋的意味の神や道徳が存在しないことが劣等性の証であるという結論に達した。
加藤は、そもそも複数の文化を比較することには本質的に意味がないことに最後まで気付かなかった。
こうした戦後知識人の日本文化論は、「時間」や「歴史」の本質が直線的ではないことを忘れていた。
他国との比較によって論点は明らかにならなかった。
日本の伝統的価値観とは、「空」という名の価値相対主義であり、仏教や儒教ではない。
日本の倫理観(=価値相対主義)は、「経典」が存在しない点で、簡単な言葉で説明できない。
なぜ一生懸命働くのか、なぜ真夜中の赤信号で止まるのかという問いに「当たり前」と答えることはできても、それが何故当たり前なのかを明快に解いた者を私は知らない。
仮に明確に答えてとしても、現実を的確に形容したものにはならないだろう。
「空(くう)」とは、共同体に生きる上で守るべき秩序が、文化的・歴史的に集積したものだろう。
私にはその程度のことしか言うことは出来ないが、これ以上の事を言える人間も知らないので、自らの主張を恥じる気はない。
相対主義と均質性
アメリカの作家ジェームズ.T.ファレル(James T Farrell:1904-79)の「若きロニガン(Young Lonigan:1932)」という作品は、アイルランド系カトリック教徒の中流家庭を描いている。
ロニガン少年は頭の良い健全な少年だったが、生活の「徹底した退屈さ」の中で次第に残忍な不良へと変貌していく。著者はロニガン少年の成長を描いた3部作で、アメリカ的な物質文明の「精神的貧困」を批判した。
しかし、作品の完成度こそ高いが、「精神的に豊かな時代」というものが世界史上に一度でも存在したことがあるのか、という疑問が残る。
あらゆる時代において、あらゆる社会は常に荒廃・腐敗した部分を持っている。「古き良き時代」というのは、老人のノスタルジアか、空想の産物でしかない。
もちろん、こうした指摘によって、日本人の方が精神的に豊かだという暴論を主張するつもりはない。
しかし、ファレルの言う「徹底した退屈さ」を日本人が退屈だと思わないことは事実だろう。
つまり、「平凡に生きる」ということを肯定的に受け入れるかが問題なのだ。
映画の「寅さん」「釣りバカ」シリーズ、小津安二郎の映画、五木寛之の小説は、確かに「精神的に貧困な」退屈極まりない駄作とも言えるが、私自身は嫌いではないし、実際に日本ではよく売れている。
平凡な人間に対して、「何故努力しないのか?お前は敗者だ」と言ってしまうのがアメリカだ。
アメリカ人と違って、「人生の敗者(loser)」という言葉を日本人は通常使わない。
このことは連続猟奇殺人の75%がアメリカで起きることの大きな理由であると私は考えている。
日本は、世界史的にも極めて珍しい「均質な国家」だといえる。
ただ、それと同時に日本が極めて多元的な価値観を容認してきた事も事実だ。
均質であるがゆえに、人種・宗教・貧富における差異が社会集団間で物理的紛争を起こさない事に加えて、平凡・普通である事を否定する不寛容(intolerance:一神教の排他性を表す語句)が存在しなかったことが、日本社会の安全を支えていることは間違いないだろう。
こうした意味での「相対主義と均質性」の伝統が、社会に無用の軋轢を生み出さなかった。それが日本社会の安全性を長いこと支えて来たといえるのではないか。
「空の研究」は「日本とは何か」を問うことでもある。私はこれからもこの点について考えていきたい。