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>多くの人は「なんじゃこれ??」でスルー
>こんなところではないかなぁ
実は小生にも、よくわかりません。(汗)
もっとも、「わかる」「わからない」はこの場合深度の問題なんで、全くチンプンカンプンという訳でもないです。
茂木氏は脳科学者で、脳科学についての知識がない小生に理解できないのは当然なんだけど、「感性を科学する」という発想は脳科学を超えており、そこが物凄く魅力的なんですね。
そういう意味で、マニュフェストよりこっち読んでもらったほうがわかりやすいかも・・。
↓ ↓ ↓
http://www.qualia-manifesto.com/qualianation.html
クオリアから見た感性の時代 ークオリア立国ー
クオリアについて思い出したのは、社会問題板でNarongchaiさんにレスしたこの文章を書いた直後。
http://www.asyura2.com/0502/social1/msg/697.html
上記2つをあわせて読んでいただければ、なぜデラシネが「クオリア」をここに貼り付けたか、他ならぬ膝枕さんだったらピンとくるものがあるのではないでしょうか?
(もちろん、小生の過去ログも全て読んでいただいているという前提で言ってます。)
現代は、感性の時代だと言われる。一昔前は、その時代に一番頭の良い知識人が誰であるか、その人が何を考えているかを世間がしきりに気にしていた。今は、知識人よりも、鋭い感性を持っている表現者の方が、時代のヒーローになる。もちろん、知性などいらないというわけではない。知性もまた感性の一つであるということを私たちが認識し始めたのである。 茂木さんはこう言っているけど、むしろ小生は、人々(社会)が“感性”をないがしろにしてきたから、逆に言えば“理性至上主義”で突っ走ってきたから、世の中がこんなにギクシャクしてしまったのではないかと思うのです。 ところで、今日になって茂木さんの“「脳」整理法(ちくま書房)掲示板”を見てみたら、眼鏡反応さんという読者の方が、こんな感想を書き込まれていました。 茂木健一郎様 先日、やっと新橋のTSUTAYAにて「『脳整理法」を購入し、きのう第1回目の精読を終えました。さすがに私には読み応えのある高度な内容で、読了するのに大変なパワーが要りました。本当に素晴らしい整理法の本です。人の脳にしか出来ない、それこそ生命の歓喜(エラン・ヴィタール)に密接に結びつく整理法を茂木さんはこの本で指南されています。その中で私の印象に残った、2つの箇所があります。ひとつは、「確実に不幸になる方法はたくさんあるが、確実に幸運になることのできる方法などない」(p.095)という箇所です。最初にここを読んだ時、私は、確実に幸福になるべく自分が今まで学んできた「生きかた」を全面否定されたような気がして、頭の中がぐちゃぐちゃになりかけました。が、冷静になって読みすすめているうちに、「幸せは、無秩序に抗することしか生まれない」との文にあたり、ああ、そうか、自分が今まで学んできた生きかたも、「不幸」という名の無秩序に抗う為の、極めて有効な方法の一つなのだと知り、やっと納得できました。人生で幸福や幸運を得るには、一生かけて「不幸」と抗わなければいけない。そういう意味で、人生はやはり戦いなのだと深く思うことが出来ました。もうひとつは、人間生きていく上で、コントロールできるものとそうでないものがあるという箇所です(p.101〜103)。他者の心は自分の思う通りには出来ない。そこを心得ない人は大抵不幸になるのは事実なんですよね。歴史上、あまたの独裁者が最後には滅びていった原因も、その心得違いに起因するものと思われます。独裁者は本来コントロールできない民衆の心を、絶対にコントロールできると「盲信」して、なんとか操ろうと策を廻らした挙句、結局は民衆を不幸にし、最後には自分も滅びていく。偶然と必然の微妙な「あわい」を脳でどれだけ読み取るかによって、バランスのいい生きかたができる・できないが決まってくるのだろうと思いました。ここまでが第1回読了の感想です。この「『脳』整理法」はおっしゃっているように、情報の洪水によって、脳が悲鳴をあげている私たち現代人にとって、極めて大きなアドヴァイスになる本だと思います。本当に有難う御座いました。2度目の読了が完了したら、またここに書かせて頂きます。今回はこれにて失礼させていただきます。 小生はこの本を持っておりませんが、この方の感想を読んだだけで、「絶対に読まいでおくべきか!」となりました。 それから、何度も引用しているこれなんですが、上との関連でいま一度読んでみてください。 人間というものを理解する、また、「お互いを理解する」とはどういうことか。 我々はなんとなく、「お互いを理解している」とか、「話せばわかる」なんて漠然と信じておりますが、それこそが大いなる誤解であって、「ちっとも理解できていない」し、「話してわかりあえるものではない」が故に、我々はこんなに世界をメチャクチャにしてしまったんだろうし、何度も何度も同じ過ちを犯し続けているのではないでしょうか? 人々が相互に理解しあうということは、たぶん“感性の領域”において成されることなのでしょう。 最後に、蛇足になりますが・・。 >ただ、よく思うのは「あららら、そんな表現をすると誤解をされちゃうなー」とヒヤヒヤはよくします(笑) ご心配いただいて、どうも有難うございます。(爆)
この“理性至上主義”は同時に“言語至上主義”でもあるのだけれど、こう言えば膝枕さん、ピンとくるっしょ?(爆)
http://6118.teacup.com/kenmogi/bbs
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http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/1088.html
これに興味があって、小生は心理学的なアプローチ、社会学的なアプローチ、動物行動学的なアプローチと手を広げているんですが、どの分野からアプローチを試みても、どんどんどんどん「ある一点の真実」に集束されてゆく。
もちろん、その「ある一点の真実」とは何なのかなんて、とても小生には言語化できませんが、こういった作業を続けてゆくことによって、究極的には「われわれ人類は、この先何処に行くのか?」という大きなテーマに近づいてゆけるのではないかと、そんなこと考えているのです。
(「ある一点の真実」とは言っても、真実とはクリスタルみたいなもの、言葉を変えれば“多面的なもの”なので、むしろ“言語化は不可能”なんだと思います。)
もとより「自分のことは自分がいちばんよく知っている」と考えるのがそもそもの間違いで、我々は自分のことなど、ちっともわかっていない。
自分のことがわからない人間が、他人のことをわかろうなどと考えることじたいが猪口才であり、その上さらにまた、「他人を啓蒙してやろう」などと恐ろしいことを考える“警官の制服着たピエロ”が横行するから、よけい救われない。
かくて“バカの壁”は雲を突き、遥かアンドロメダの彼方まで・・(爆)
人を愛おしく思う、守ってあげたいと思う、私は誰かを愛し、また誰かに愛されている、そして“愛し合っている”・・。
こういった領域に、言語は介在しません。
もとより小生、不特定多数の人間に「理解してもらおう」などとハナから思ってませんから、気楽なんですよ。(爆)
膝枕さんみたいに、「わかってくれる人は、わかってくれる」し、それで十分です。(爆)