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論 点 「若年失業者をどうするか」
爆発的に増える「ニート」。フリーターにもなれない若者たちを支援せよ
玄田有史 (東京大学社会科学研究所助教授)
職業意識の低下ではないところが問題
深刻化する若者の就業問題として、これまではフリーターや失業者に注目が集まってきた。現在、学校を卒業または中退してから、正社員として働いていない若者は多い。しかし、かといって、そのすべてがフリーターとして非正社員勤務しているわけではなく、失業者として就職活動に奔走しているわけではない。
学校に通わず、通おうとせず、働いておらず、働こうともしていない若者たち。そんなフリーターでも失業者でもない若者が、大量に存在している。これまで経済や社会の問題として認識されてこなかった彼ら(彼女らを含む)を、小杉礼子さんたちの研究グループや私たちは「ニート(NEET)」と呼んできた。
NEETはNot in Education, Employment, or Trainingという英語の頭文字から来ている。ニートは元来、九〇年代末のイギリスで、学校に行かず、仕事もせず、そして専門的な職業訓練も受けていない一〇代後半の若者の実態を示す表現だった。そんなニートは、将来にわたって永続的な無業者になるというだけでなく、ホームレス、犯罪、薬物中毒など、社会的に排除された存在の温床として、イギリスでは危機感をもって認識されてきた。
二〇〇四年(平成一六年)夏時点で、日本におけるニートについて、政府が示した公的な定義は存在していない。だから実態の理解も、まだまだこれからだ。しかし断片的ではあるが、ニートもしくはその周辺で「たいへんなこと」が起こっていることを示唆するデータも存在する。
学校を卒業している人が多い二五歳から三四歳の男性無業者に注目する。ニートを「就職したいとは思っていても職探しはしていない」もしくは「職につきたいという希望自体を失っている」人々とすると、これら働き盛りの男性でも二〇〇二年時点でニート人口は三四万人に達している(総務省統計局『就業構造基本調査報告』より)。それは、職につきたいと職探しをしている「失業者」と呼ばれる同世代男性四八万人と比べても、遜色ない数字だ。
一五歳から二四歳をみても、通学もせず浪人でもない、さらに働いてもいないし、かといって職探しをしているわけではない人たちが、二〇〇三年春には八九万人存在していた。さらにそのうちの四〇万人は、働くことに希望が持てないために「特に何もしていない」という。そんな働くことに希望を失った若者が、九七年には八万人に限られていたのが、その後のたった六年間で五倍に増えているのだ(総務省統計局『労働力調査年報』より)。
こんなニートにまつわる事実を示すと、きまって返ってくるのが「最近の若者はそこまで甘えているのか」「たるんでいる」といった反応だ。いつの時代も、実態を知らず、知ろうともせず、印象と卑近な経験だけから、ニート増加の理由を若者全般の職業意識の低下と決めつけようとする大人は、後をたたない。
他人と交わる経験を欠いたまま成人に
けれども、若者がニートの状態となる理由が、本人の甘え、働く意識の弱さであるというケースは、私の知るかぎり、実態としてはむしろ少数だ。収入がなく親に経済的に依存しているにしても、そんなことがいつまでも続けられるなんて、誰も思っていない。ニートの大部分は、働くことに希望を持てない人たちでも、今のままではいけない、できれば働きたいと思っている場合が多い。むしろ働くことの意味を考えすぎるあまり、立ち止まっている場合すら多いように感じられる。
ニートに関するいくつかの調査から浮かび上がるのは、社会と交わることに途方もなく苦しさを感じている若者の現実だ。職探しにまで至らない理由として、ニートの多くが「人づきあいなど会社生活をうまくやっていける自信がない」という。コミュニケーション・スキル(意思疎通をはかる技能)が就職にとって不可欠な条件と当然のようにいわれる時代を、ニートの多くは「生きづらい」「いっぱい、いっぱい」と感じている。
他人と交わり続けることを困難と感じるニートには、これまで生きてきた環境が影響を与えている。家庭や地域のなかで、ときに励まされたり、叱られたりしながら、社会に生きる知恵を自然と身につけてきた若者は幸せだ。しかし、そんなコミュニケーションの経験を欠いたまま成人となることが多い現在の若者からニートが大量に発生したとしても不思議ではない。
就職試験に落ちて、落ちて、落ちまくった
それになんといってもニートが増えた直接的なきっかけは、若年にとっての就業機会が社会から奪われてきたことだ。就活(=就職活動)を精一杯しても、特段明確な理由説明もなく、落ちて、落ちて、落ちまくる。なかには、自分は社会に必要とされていないんではないかと思ってしまう若者も出てくる。特別な個性も、高度な専門的技能もない自分に、やりがいのある仕事なんてみつからないと思えてくる。
そもそもニートが増えたのは、個性発揮や専門性を過度に求めすぎる時代背景がある。生きていくのには個性的であることがとにかく必要で、自分のやりたい仕事に就けなければその一生は不幸だと信じ込んでしまう。そんなプレッシャーを、現代の若者たちの多くは、学校でも、家庭でも、メディアでも、受け続けている。「世界に一つだけの花」はいい歌だと思うけれど、ナンバーワンになるのも難しいが、本当は、オンリーワンになるのだって簡単ではない。
誰もがプロフェッショナルでなければならないという要請をまともに受け、やりたいことがないので働けないと考え、自己実現の幻想の前に立ち止まってしまったニートたち。ニートを時代の犠牲者と呼ぶのは言い過ぎだろうか。
若者全般ではなく「あなた個人」に支援を
ニートの増加がこれから社会にどんな影響をおよぼすことになるのだろうか。労働力人口の減少にも拍車がかかるだろうし、社会保障制度の担い手が足りなくなるかもしれない。しかし、経済成長や年金制度の維持を目的にニート解消を目指すというのは、本末転倒だ。「社会のために働け」「働かざるもの食うべからず」といわれて働き出すニートなど、どこにもいない。それは少子化に歯止めをかけるために出産を決意する女性がいないのと同じだ。
ニートは根本的には働きたくないわけではない。どちらかといえば、働くということを堅く考えすぎるあまりに、働くことに対して柔軟さや余裕を失っている。だったら、もっと気楽に、働く意味なんて考えすぎずに、「自分でもなんとかなる」とリアルに感じられるきっかけさえあれば、自分の力で状況を切り開いていける。問題は、そのきっかけだ。
政府も「若者自立・挑戦プラン」を策定し、フリーターや失業者の就業対策に積極的に乗り出している。多様な角度から働くことの支援に乗り出すワンストップサービスも、全国の「ジョブ・カフェ」などで始まった。ただ、その支援の窓口に立つことさえ、ニートの多くは、他人には推し量れないほど苦しいと感じている。
だからこそ大事なのは、社会維持のための若者支援という発想や表現を捨てることだ。若者という名の若者はいない。支援すべきは、潜在的には働きたいと思いながら働けないでいる個人そのものだ。若者全般へのお決まりの支援策は、結局、どんな若者にも届かない。私個人のための支援だ、私を待ってくれているのだと、ニート本人が感じなければ、勇気をふりしぼって支援の場に足を運ぶことはできない。
さらには、すでにニートとなった個人への支援だけでなく、これ以上ニートを増やさないための対策を大胆に講じるときが来ている。紙幅の都合で詳細は省略せざるを得ないが、私は「全国一三〇万人の中学二年生に、毎年一一月の第二週、仕事を通じてやりたいことをやらせる体験」を実施することの必要性を提唱している。大人と子どもの狭間にあって、もっとも揺れる一四歳の秋。家族でも先生でもない大人と一週間、同じ空気を吸いながら行動することによって、働くことへの幻想や恐怖は、かなりの部分、解消していく。「ありがとう」や挨拶(あいさつ)の言葉をしっかり口にすれば、自分も何とかなると実感できる、そんな試みが、兵庫県や富山県では始まっている。
ニートは誰もがなるかもしれない。だからこそ、早い段階でニートにならなくてもすむような早期の予防策が、全国的に必要なのだ。
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