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中曽根元首相は、中国に外交カードを与えた「失政」を反省すべきだ!
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2005年06月04日 20時23分21秒 / 中国問題
A級戦犯の分祀か参拝中止を…中曽根元首相が講演 (読売新聞) - goo ニュース
6月4日付・読売社説 (読売新聞) - goo ニュース
読売新聞の4日付朝刊の社説はは、いつになく秀逸である。 「国立追悼施設の建立を急げ」という主張には、納得しきれないところがあるが、中曽根元首相に対して、「中国の抗議に屈して靖国神社への参拝を中止にした。いわば知友極に外交カードを与える結果になった”失政”が今日の混乱を招いた」と、ズバリ断じたのは、まさにその通りである。
読売新聞の渡辺恒雄会長と中曽根元首相の仲の良さを思えば、「よくぞ言ってくれた」という思いがする。
日本人のシャーマニズ的宗教観からすれば、無宗教で「霊魂」のない、「国立追悼施設」を建立してもも、タダの石碑では、哀悼の誠を捧げた気持ちにはなれないだろう。ただ、宗教を「アヘン」といる無神論者の集まりである中国共産党一党独裁の北京政府の「目くらまし」には大いに役立つだろう。
「国立追悼施設」に「公式参拝」に、その足で靖国神社に「私的参拝」する手もある。結婚式を神式で行い、葬式を仏式で行なって、何ら違和感を覚えない日本民族なら、これくらいの芸当は朝メシ前のことである。
それにしても、靖国神社が、敗戦の最大の責任者である東条英樹下首相(あえてA級戦犯といわなくてもよい)らを合祀したこと自体、根本的におかしい。本来の原則に則って「戦死者」に限るべきである。東条元首相らは阿南陸運相のように、切腹して果てるべきだった。武士らしからぬ自殺(拳銃自殺未遂)し、絞首刑にされたというのは日本人として恥である。武士であるなら、名誉ある銃殺が望ましかった。
日本人の古来の作法は、「もはやこれまで」と悟ったら、即刻、介錯人を選び、切腹して責任を果たすことである。
そのだらしなくも見苦しい東条元首相らを護国神社に合祀することさえ「汚らわしい」のである。
「清ら」を最高の価値として「穢れ」を払うことのみによって成り立っている神道の精神に反するというものだ。
予断ながら、靖国神社の成り立ちから言ってこの神社の「差別意識」がひどすぎる。同じ日本人でありながら、門地や職業によって差別され、合祀から排除された戦死者も多数いる。また、官軍を名乗った「薩長主導」で始まったというところからして、歪んでいた。もとはいえば幕軍や新選組などの武士たちは「孝明天皇」を守り、会津藩主・松平容保公は錦の御旗まで授けられていたのだが、薩長の宮廷クーデターと陰謀により賊軍にされてしまう。
佐幕派の武士たちといえども、心は勤皇であった。その意味では幕末争乱の「犠牲者」であり、本来なら、靖国神社に祀られてしかるべき人々であった。
その昔、「元」から攻められて、迎え撃った北条時宗公が敵味方の分け隔てなく、それらの霊を慰霊するために円覚寺を建立した精神を日本民族は、思い出すべきである。
もし、「国立追悼施設」を建立するのであれば、日本人の戦死者ばかりでなく、「敵」であったアメリカをはじめ、イギリス、フランス、ソ連そして蒋介石の中華民国による連合国軍の将兵たちも慰霊する超宗教的に施設として建立すれば、世界から絶賛されるに違いない。
この場合、日本軍兵士として日本のために立派に戦った、台湾、朝鮮、南方の信託統治領の人々、あるいは日本のためにアメリカに渡り活動中に殺されたスペイン諜報機関の方々の功労に報いるべく慰霊する必要があろう。同盟国・タイの将兵のことも忘れてはならない。
原点に立ち返り、中国に与えてしまった「外交カード」を取り戻すか、無力化する道は、ひとつしかない。それは、アメリカのアーミテージ前国務副長官が言っているように、北京政府が「行くな」と「内政干渉」するなら、むしろこれに抗して小泉首相は断固として靖国神社「公式参拝」を粛々と「8月15日」に実行すべきである。
いつまでも怯み続けていると、中曽根元首相の「失政」によって中国に取られた「外交カード」が威力を持ちつづけてしまう。小泉首相が、泰然自若として「靖国神社公式参拝」の構えを示すことによって、「靖国神社」が日本の「外交カード」になりつつある効果をより高めることになる。日本民族は今こそ自信を持たねばならぬ。決して、隣国に舐められてはならない。
歴史家・草地貞吾先生(元関東軍作戦班長、元大佐)の「大東亜戦争正当論ー大東亜戦争は空前の人類革命」より引用。
〔大東亜戦争の正当性を信ず 〕
大東亜戦争は、東京裁判という前代未聞の復讐劇により、無残にも否定・死減の現状に放置されているが、その再生・正当化を私は信ずる者である。それは、「歴史は常に正義に組する」という、私の不動なる歴史観の所産である。
不法無体の軍事裁判の如きは、何よりも先ず神が認めない。現に戦後五十余年、世界には百回に余る戦争が発生したが、未だ一回の軍事裁判も行われていないではないか。
大事なことだから重ねて書くが、戦争は飽くまで戦争で、侵略戦争も不侵略戦争もないのである。
もしも万一、第二次世界大戦で枢軸側が勝っておれば、連合側は侵略戦争をしたことになったであろうか?この設問によって読者諸彦の御賢察を乞う。
されば現在、東京裁判の誤りというよりもその無法を告発する論議が全世界的に起こりつつある。特に平成七年二月二十日に東京裁判資料刊行会によって『東京裁判 却下未提出 辮護側資料』(全八巻)という、世紀の東京裁判批判書が発行され、全国図書館にも配布された。「天網恢々疎にして漏らさず」の金言どおり、その大冊の本は余すところなく東京裁判が勝者による一方的の報復私刑なるの性格と改めて明白にしており、世の識者達に、「東京裁判の再審理をせよ」と迫っている。これが公的告発の第一号である。
されば、世界の常識と歴史の正義は、必ずや「東京裁判」そのものを公明正大なる世界の法廷に引きずり出して再審検討を加えるだろう。
恰もまた前記の『世界がさばく東京裁判』の出現がその第二号である。かくて、止むなく被告席に立たされる「東京裁判」という法人は、オウム真理教の麻原の如く、ゴネるであろうが、何分にも大東亜戦争の無実を無法に処刑・処断した罪刑は重く、死刑を宣告されるにちがいない。快なるかな!
「東京裁判」そのものの絞首刑執行の日は、すなわち「大東亜戦争」正当化・蘇生の日である。それは単なる死者の名誉回復という如き小乗的姑息のものでなく、燦然として世界史を照破して立つ「大東亜戦争」の生きたる大乗的雄偉の真姿であるにちがいない。
この秋、はじめて日本の戦後民主主義なる妖霧は一気に消散する。かくて天日昭々の下「君が代」は声高らかに斉唱され、「日の丸」はへんぽんとひるがえる。「大東亜戦争」の正当化は、即「日本国家」の輝かしい再生でもあるのだ。
この時、第一番に喜ばれるのは、大東亜戦争に散華された忠勇義烈なる護国の英霊雄魂である。為政者はもとより、天下万民はその大前にひれ伏して衷心より慰霊顕彰の誠を捧げなければならぬ。同時にまた、枢軸側・連合側を問わず、世界万国の戦争犠牲者に対しても、第二次世界大戦という世界改造一新の大業のため、それぞれの祖国の命により、勇戦敢闘した同志でこそあったこと想到し、畏敬・同情・哀悼の涙を流すべきであろう。 (
つづく)
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