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(回答先: 「創価学会は「欧米の宗教組織も政党支持はやっている」というが、教会が前面に立つことはない」(ベンジャミン・フルフォード) 投稿者 外野 日時 2005 年 5 月 23 日 21:10:33)
改めていま、政教分離を考える 2000/9/21 白川勝彦(弁護士・元自治大臣)
http://www.liberal-shirakawa.net/article/article2.html
私のWebサイトの"書き込み交流広場(BBS)に、多くの方々が政教分離についての考えを述べておられます。これに関連してこれまで述べてきたことに若干の新しい見解を付け加えて私の考えを述べてみたいを思います。
1 政教分離とは何と何を分離することか
政教分離とは、いったい何と何とを分離せよということなのでしょうか。政教分離の「政」とは、政治権力のことであります。政治という意味ではありません。政治権力とは、具体的にいえば国家権力と地方公共団体の権力です。政教分離の「教」とは、宗教団体のことです。教団といってもいいでしょう。宗教一般という意味ではありません。まず、このことをハッキリさせないと単なる言葉の遊びになってしまいます。
そして、政教分離を論ずるとき、いま一番問題になっている条文は、いうまでもなく憲法20条1項の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」です。ここにいう「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とは、だれに対しどういうことを禁止しているのかということです。信教の自由を大切に考える立場にたつ者は、これを厳格に解釈することになるし、そうでない立場にたつ者は比較的ルーズに解釈することになります。私は、憲法20条は憲法19条とならんで国民の自由権を保障する最も根元的な規定であると考えますから、当然のこととして厳格に解釈する立場に立ちます。ちなみに、憲法19条とは「思想及び良心の自由は、これをおかしてはならない」という規定です。
「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」の主語は、宗教団体であることはいうまでもありません。創価学会や公明党は、憲法は権力を規制するものであって宗教団体を含めてそれ以外のものを規制するものではないと主張しています。ですから、この条文も「国家権力が宗教団体に政治上の権力を行使させてはならないことを定めているのだ」と主張していますが、そのように解釈しなければならない根拠は特段ないと思います。憲法は現に国家権力以外の者に対してもいろいろな規制をしています。一例をあげれば、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」(憲法30条)。従って、この条文は宗教団体が政治上の権力を行使することを禁じている解すべきです。
2 宗教団体の政治活動の制約ないし限界
それでは、「宗教団体が政治上の権力を行使する」とはどういうことをいうのか。この条文の解釈のいちばん肝心なところです。
まず、創価学会や公明党の考えをみてみましょう。創価学会や公明党は、「宗教団体が国や地方公共団体から委託を受け、裁判権や徴税権や警察権を行使すること」が、宗教団体が政治上の権力を行使することであり、これは憲法違反になるが、それ以外のことは何の制限はないといっています。しかし、現行憲法のもとでは、宗教団体が国から委託を受け裁判所や徴税権や警察権などを行使すること自体が違憲といわざるを得ません。そして、事実上も想定することすらできません。例えば、創価学会が国から委託を受け裁判権を行使するというケースを考えてみましょう。誰がいったい裁判官をやるのでしょうか。誰が検察官になるのでしょうか。そのような暗黒裁判の被告人の弁護人はどういう資格をもった人がなるのでしょうか。想像することさえできません。私の見解に対する執拗なくどくどとした創価学会や公明党の反論を要約して裏返すと以上のようになります。
国民の信教の自由を真剣に考える立場にたてば、創価学会や公明党のこのような解釈をとりえないことは明らかです。この条文の解釈は、信教の自由を守るという理念にたって解釈しなければなりません。まず最初に、憲法がなぜ宗教団体と権力との関係を問題とする規定を設けたのか考える必要があります。それは、立派な宗教者は世俗の権力などには無関心かもしれませんが、一般の人々にとっては世俗の権力というのは大きな意味をもった存在だということです。ある宗教団体が権力と特別の関係をもったとき、その宗教団体は他の宗教団体や無宗教の人々に対して優越的地位を得ることになり、他の宗教団体や無宗教の人々の信教の自由を守るという見地からみて好ましくない、こう考えたからだと思います。ある宗教団体がその信じるところを布教するに際し、世俗の権力を使ったり利用してはならないということを定めた規定であると私は考えます。
このような立場にたって、「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」を解釈すると、これはかなり広範囲に宗教団体の活動を規制していると考えます。確かにいかなる宗教団体も、ひとつの結社として政治活動をすることは憲法で保障されています。しかし、一方ではいかなる宗教団体も政治上の権力を行使することを憲法は明確に禁止しています。問題は、宗教団体の政治活動の憲法上の制約もしくは限界は何かということです。ひとつの結社である宗教団体に政治活動の制限を加えることは、憲法21条に定める集会・結社・表現の自由などの規定から許されないのではないかとの考えもあります。しかし、信教の自由を守るというより高次元の目的のため宗教団体に一定の制限を憲法自らが設けることはありえることであり、憲法は何ら矛盾していないと考えます。
3 「政治上の権力の行使」とはなにか
私は、ある宗教団体が実質的に支配する政党(以下、宗教政党といいます)を組織し、国政選挙に候補者をたてて選挙に臨むことは憲法上禁止されていると考えます。なぜでしょうか。それは、いかなる政党も国政選挙に出る以上権力獲得を目指すからです。宗教団体が直接であれ、間接であれ、権力を獲得しようという行為こそ、「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」として憲法がまさに禁止していることなのです。その宗教政党から何人当選者が出たということは本来関係ありません。ある宗教政党が、政権を単独で獲得するためには、衆議院で過半数以上をとらなければなりません。しかし、連立政権の場合ならば、なにも過半数をとる必要はありません。この場合でも、その宗教政党は国家権力に大きな影響力を行使できます。
宗教団体は、宗教政党を介在させることにより、国家権力を直接掌握することもできれば、国家権力に対して大きな影響力を行使することもできます。 憲法は、宗教団体がこのようにして政治上の権力を事実上支配すること、また支配しようとすることを「政治上の権力を行使する」こととして禁止しているのです。特定の宗教団体が国家権力を事実上支配した場合、その宗教団体は他の宗教団体と比べ権力との関係で優越的地位を得ます。特定の宗教団体がこのような優越的地位を得ることを防止するために、憲法は政教分離の原則を定めたのです。
創価学会や公明党は、両者は法律的には別個の存在であると盛んに主張していますが、法律的に別個の存在であることは当然です。そんなことが問題なのではなくて、創価学会と公明党との関係が支配ー被支配の関係にあるのかどうかが問題なのです。創価学会に実質的に支配されている政党であるかどうかなのです。創価学会と公明党は、両者が政教分離していることを世間に印象付けるためにいろいろな努力をしていることは確かです。しかし、公明党という政党は、創価学会という宗教団体を抜きにして存在し得るのでしょうか。私は存在することはできないと考えています。その存在自体を創価学会に依存している以上、公明党は創価学会に実質的に支配されている政党といわざるを得ません。
また、創価学会や公明党は、公明党が国会に進出してから信教の自由を脅かすようなことをただの一度でもしたことがあるかといいます。公明党は、信教の自由をどの政党より大切に考える政党だとも主張しています。しかし、もし公明党が信教の自由を脅かすようなことをしたとすれば、それ自体が大問題です。公明党が国会に進出すること、そして現在のようにわずかな議席とはいえ現に自公保連立政権の一角を占めていることが問題なのです。公明党の連立政権への参加は、公明党を実質的に支配している創価学会が政治上の権力を行使しているといえると考えられるからです。これこそまさに、「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」という憲法の規定に真正面から違反していることではないでしょうか。
4 国会議員の責務と政治家の使命
このような事態を目の当たりにしてこれに目を背けることは、国会議員として、また政治家として許されることでしょうか。憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定めています。これは憲法遵守義務と呼ばれています。たとえ私と同じ考え方にたたないとしても、憲法に「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とある以上、日本語を普通に理解する者ならば自公連立は憲法上疑義があると考えるのは極く自然なことではないでしょうか。自公連立を積極的に推進した政治家はいずれ歴史の断罪を受けることでしょう。多くの国民は自由民主党と公明党の連立に反対してきました。このような状況があるにもかかわらず、自らの政治的利益を優先し自公連立を消極的であれ容認してしまった政治家も、その責任を歴史に問われることになるでしょう。自由民主党の国会議員としてその渦中にいてこれを阻止し得なかった私は、自らの非力を不甲斐なく思います。そして、創価学会=公明党の攻撃を受け現在の境遇にあることはその贖罪と思っています。
政治家の使命とは一体なんでしょうか。いうまでもなく国家の独立を守り、社会の安全を確保し、国民の政治的・経済的・社会的自由を増進することであります。昭和20年戦争に負けたわが国を廃墟の中から今日の繁栄する国にしたものはいったい何だったのでしょうか。廃墟の中とはいえわが国には、高い教育を受けた国民がいました。高い技術力もありました。そして、民族的団結心もありました。しかし、新しく制定された日本国憲法が国民に自由を保障したことにより、国民の能力が各分野にわたって引き出され、これが結実した結果であることはだれも否定できないのではないでしょうか。このようにして発展してきたわが国もあらゆる分野で閉塞状況に陥り、政治的・経済的・社会的発展が停滞しています。いま、わが国に必要なものは、いま一歩高次の自由です。あらゆる分野での自由化を進め、国民の自由闊達な行動を確保することです。これ以外に、わが国が今日の閉塞状況を打ち破ることは決してできません。
21世紀を目前にしたこのときに、また日本の自由をいま一歩推し進めなければならない現在、自自公連立そして自公保連立政権が誕生したことは、わが国の政治家が考えている自由のレベルを十分に物語るものです。公明党が参加している政権は憲法20条に違反する政権であり、それ自体が「思想・良心・信教の自由」を脅かすものです。このような政権のもとでは、国民の自由闊達な活動がなされそれらが結実していくことを期待することはとうていできません。政治的自由のないところには、経済的自由も社会的自由も決して期待できません。そればかりではなく、公明党の政権参加は社会のいろいろな場面で亀裂をもたらしています。宗教は魂の救済をもとめるものです。従って宗教的パッションに基づく自公連立反対は、政治を非常にギスギスしたものにしています。政治に和解できない対立を生んでいます。また自由を基調とする先進諸国から、わが国は早晩侮蔑と失笑をかうことになるでしょう。
自由があるからといって、幸せになる保障はありません。しかし、自由のないものは、決して幸せになることができません。魂の自由がない国に、真の勇者は生まれません。真の勇者がいない国が発展するはずがありません。自公保連立政権がつづく限り、わが国はこの命題から逃れることはないでしょう。だから、私は自公連立に反対してきたし、いまも反対なのです。自公連立と戦うことを止めるときは、私が政治を止めるときです。
この小論はこれまで私が述べてきたことをコンパクトにまとめたものです。創価学会=公明党の私の見解に対する反論に若干の附言しました。この問題をより深く理解するためには、私の次の論文とインタビューをお読みいただければ幸いです。
>主論文「自自公連立内閣は、憲法20条に違反する。」
http://www.liberal-shirakawa.net/current/jp_content/violation.html
>再反論「政教分離原則を確認する」
http://www.liberal-shirakawa.net/current/jp_content/budhtms.html
[平成12年9月20日 記す]
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http://www.liberal-shirakawa.net/current/jp_content/violation.html
「自自公連立内閣は、憲法20条に違反する。」
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この小論は、1999年8月8日、テレビ朝日「サンデープロジェクト」で自公連立は憲法に違反すると発言したところ、問い合せ(もちろん、いやがらせは、その倍もありました)が殺到したため、取り急ぎ書き下ろし、小冊子にして国会内外に配布したものです。私の基本的見解は、ここで、すべてふれております。
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目次
1 なぜ、いま、政教分離を問うのか
2 政教分離の原則とは
3 なぜ、政教は分離されたのか
4 政治上の権力の行使とは
5 宗教団体の政治活動の限界
6 自公連立内閣の違憲性
7 民主主義を守るために必要な政教分離
8 政教分離をしないと宗教が堕落する
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なぜ、いま、政教分離を問うのか
昭和45年の藤原弘達氏の著書「創価学会を斬る」をめぐる言論妨害事件以来、公明党と創価学会との関係が何度も国会で問題にされました。その都度、創価学会は、政教分離すると言ってきました。しかし、多くの国民は、これに疑問を持ってきました。
平成5年8月10日、細川連立政権が誕生し、公明党・創価学会は、念願の政権参加を果たしました。
この前後の創価学会の最高実力者―池田名誉会長のはしゃぎようはたいへんなものでした。池田大作氏は、平成五年八月八日、創価学会の長野研修道場で行なわれた本部幹部会において、次のように発言しました。「皆さん方も頑張ってくれた。すごい時代に入りましたね。そのうちデエジンも何人か出るでしょう、ね。ね。もうじきです。ま、明日あたり出るから。あの、みんな、あの、皆さん方の部下だから。そのつもりで。」
この発言は、多くの人々のひんしゅくを買うと同時に大きな不安を与えました。これを契機に、政教分離の問題について国民的議論が巻き起こりました。国会でも、多くの国会議員がこの問題をとりあげ、公明党と創価学会の関係は憲法上疑いがあると政府を追及しました。
そして、平成11年6月21日、小渕恵三内閣総理大臣は、公明党との連立内閣をつくりたいと表明しました。
これを受けて公明党は7月24日、党大会において連立内閣をつくることに合意することを決定しました。このことにより、自公連立内閣が誕生する可能性が極めて高くなり、長い間政教分離問題に関心を持ってきた人々から強い危惧と反対の声が発せられました。また、国民の間に強い疑念が持たれています。本小論は、憲法20条を中心とする政教分離の原則を明らかにし、自由民主党と公明党が連立内閣をつくることの憲法上の問題をも明らかにしようとするものです。
政教分離の原則とは
なぜ、政教は分離されなければならないのでしょうか。なぜ、公明党と創価学会の関係が問題にされるのでしょうか。それは、信教の自由を保障するため、憲法が政教の分離を定めているからです。
創価学会という宗教団体の存在それ自体は、@「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(憲法一九条)A「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(憲法二〇条一項前段)B「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(憲法二一条一項)などからみて、当然のことながら憲法上何の問題もありません。
宗教団体である創価学会が、憲法の範囲内で政治活動をすることも、それ自体何の問題もありません。それは、憲法が基本的人権として保障するところであり、憲法を尊重する私たちが問題にする訳がありません。
問題は、そこから先です。
宗教団体の政治活動には、憲法上の制約があるのかないのかということを問わなければならないのです。
憲法は、まず、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(憲法二〇条一項前段)と定めています。 これが、信教の自由に関する大原則です。
本来ならば、この大原則を明らかにするだけで十分なのですが、憲法はさらに五つのことを定めています。
〈 政教分離の原則 〉
【1】「いかなる宗教団体も、国から特権を受けてはならない。」(憲法二〇条一項後段)
【2】「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない。」(憲法二〇条一項後段)
【3】「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(憲法二〇条二項)
【4】「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(憲法二〇条三項)
【5】「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(憲法八九条)
これが、憲法の定めている政教分離の原則です。
いずれも、公権力と特定の宗教団体との癒着を極めて具体的に禁止しています。【2】を除く他の四つは、権力が特定の宗教または宗教団体と癒着することを、権力の側からとらえて禁止しています。一方、【2】の「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」という規定は、特定の宗教団体と権力との癒着を、宗教団体の側からとらえてこれを禁止しています。
なぜ、政教は分離されたのか
信教の自由を考える場合、内外の歴史を鑑みれば、特定の宗教や宗教団体に対する禁止や弾圧を禁じることが本来最も大切なことです。しかし、このような規定を何も設けずに、政教分離の原則を極めて具体的に設けたのはなぜなのでしょうか。
かつてのキリシタン弾圧のようなことは、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」という大原則を明らかにすることによって、必要にして十分に排除できると考えたからです。憲法は、さらに一歩踏み込んで、信教の自由を実質的に保障するために、政教分離の原則を定めたものと解さなければなりません。
それでは、なぜ、憲法は権力と宗教団体との癒着を禁止したのでしょうか。特定の宗教団体と権力が癒着した場合、その宗教団体は他の宗教団体に比べ、優越的な地位を得ます。優越的地位を得た宗教団体は、宗教活動や布教活動において有利な立場にたつことになり、その結果、他の宗教団体の宗教活動や無宗教の人々の自由が侵されることになります。このことは、歴史の教訓として明らかなことです。
憲法は、信教の自由の保障に万全を期すため、特定の宗教や宗教団体への禁止や弾圧を排除することはもちろんでありますが、権力と特定の宗教や宗教団体が癒着することを禁止したのです。憲法は、法律上や予算上の癒着はもちろん、事実上の癒着もこれを禁止していると解すべきです。要するに、特定の宗教や宗教団体が、優越的な地位に立つことを禁じたのが政教分離の原則なのです。
政治上の権力の行使とは…
「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とは、具体的には、どのようなことを禁止しているのでしようか。
国家権力は、立法権・行政権・司法権に分けられます。中世のヨーロッパの教会が行なっていたように、現在の日本において、ある宗教団体がそのままの形で立法権や行政権を行使することは憲法上明白に禁止されていることであり、およそ考えられません。憲法は、権力が特定の宗教や宗教団体と結びつくことを具体的に禁止しているので、仮にある宗教団体が権力を簒奪しても憲法上何もできないのだから、この規定は意味のない規定であるという学説さえあります。
しかし、憲法を尊重する立場からは、このような解釈はとうてい採りえません。現在の日本において、ある宗教団体がそのままの形で立法権や行政権を行使することは、クーデタでも起こさない限りできません。仮に、そのようなクーデタが成功したとしても、憲法上は絶対に認められません。
しかし、ある宗教団体が実質的に支配する政党が、立法権を行使することはできます。また、議院内閣制のもとでは、議会の多数派は、内閣総理大臣を指名することができ、行政権を事実上支配できます。その多数派の政党が、事実上ある宗教団体に支配されていた場合、憲法上、何の問題もないといえるのでしようか。
「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とは、まさに、このような状態を想定し、これを禁止したものと私は考えます。現に、このような学説もあります。
宗教団体の政治活動の限界
いかなる宗教団体も、ひとつの結社として政治活動をすることは、憲法で保障されています。しかし、一方、いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使することを憲法は禁止しています。問題は、宗教団体の政治活動の憲法上の制約もしくは限界は何かということです。私は、ある宗教団体が実質的に支配する政党 (以下、宗教政党といいます) を組織し、国政選挙に候補者をたてて選挙に臨むことは憲法上禁止されていると考えます。
なぜでしょうか。それは、いかなる政党も、国政選挙に出る以上は、権力獲得を目指すからです。宗教団体が直接であれ、間接であれ、権力を獲得しようという行為こそ、まさに憲法が禁止していることなのです。その宗教政党から何人当選者がでたということは本来関係ありません。ある宗教政党が、政権を単独で獲得するためには、衆議院で過半数以上をとらなければなりません。しかし、連立政権の場合ならば、何も過半数をとる必要はありません。この場合でも、その宗教政党は、国家権力に大きな影響力を行使できます。宗教団体は、宗教政党を介在させることにより、国家権力を直接掌握することもできれば、国家権力に対し大きな影響力を行使することもできます。
憲法は、宗教団体がこのようにして政治上の権力を事実上支配することを禁止しているのです。ある宗教団体が、国家権力を事実上支配した場合、その宗教団体は優越的な地位を得ます。法律上であれ、事実上であれ、特定の宗教団体がこのような優越的な地位を得ることを防止するために、憲法は政教分離を定めたのです。
自公連立内閣の違憲性
公明党が創価学会に実質的に支配されている政党であることは、国民衆知の事実です。その証拠は山ほどあります。何よりも創価学会の会員は公明党が創価学会党であることを身をもって知っている筈ですし、ほとんどの人が生き証人です。
ちなみに、池田名誉会長の口ぐせは「天下を取る!」だそうです。このことに象徴されるように、政教を分離する気など、公明党=創価学会には最初から念頭にないのです。政教分離をことさらに口にするのは、憲法が政教一致を禁止しているからであり、世を欺くための方便にすぎません。
以上を要約すれば、公明党は、政教分離を定めた憲法に違反する政党です。政教分離の原則に反する政党と自由民主党が、連立内閣をつくるということは、自由民主党がその意思により政教分離を踏みにじることになり、国民から強い反対を受けることは必至です。
民主主義を守るために必要な政教分離
ちなみに、政教分離は、信教の自由を守るために絶対に必要なことはもちろんですが、民主主義を守るためにも必要なのです。わが国の憲法の政教分離の原則は、アメリカ憲法の強い影響を受けて定められたものですが、アメリカの判例法理においてこのことが強調されています。
政治的意見の相違は、民主政治の建前に即していえば、何が公共の福祉であるかについての意見の対立です。異なる意見といっても、それは、互いに事実をつきつけ、理性に適った議論をつみ重ねることにより、正しい結論に達することが可能ですし、また、妥協も可能です。最後まで意見が対立した場合、多数決によって決することが許される問題です。
しかし、宗教的信条は、人の内面的確信のみに根拠づけられるものです。宗教的信条はその真否を世俗権力の前において証明する責務を負う必要がありません。言いかえれば、宗教の自由は、証明できないことを信ずる自由なのです。魂の救済に関する宗教的信条は、絶対的に自由であり、また自由であるべきものですが、それは内面的確信ですから、独自固有にして排他的・非妥協的という必然性を持っています。
政治的な意見の対立に、宗教的な対立が持ち込まれ、これがからみ合うと、その政治的意見の対立は強烈なものとなり、調整の余地のない固定的な対立となり、民主主義が破壊されるという理論です。興味深い理論です。
具体例をあげます。平成八年の総選挙で自由民主党は、新進党は創価学会党であるという大々的なキャンペーンをはりました。このため、創価学会を宗教的理由によって支持しない、また、嫌悪する人は、新進党の理念や政策を他の政党のそれと比べて支持しないのではなく、創価学会党であることを理由に支持しなかった人が相当ありました。これは、新進党にとって不幸だったというだけではなく、日本の民主主義にとって不幸なことだったと思います。
しかし、信仰という人間の魂にとって極めて大切な問題である以上、このようなことは避けられないのです。このような事態が起きないように、民主主義を守るためにも、政教の分離がなされなければならないのです。
政教分離をしないと宗教が堕落する
また、政教を分離しないと、宗教そのものが堕落する。これも、アメリカの判例法理のひとつです。
「本来、礼拝は神に対する愛から捧げられ、入信を誘う布教伝道は、『光と明証』にもとづく説得により行なわれるべきであるが、これらの宗教的営為の背景に世俗政治権力の威信と権威が控える時、一方において、人民の『信じるか、信じないかの全き自由』が奪われるとともに、他方において、宗教の側においては、ただ神に対する愛のみによって人を礼拝に導き、ただ光と明証のみによって入信させる熱意と、それどころか、その力量そのものが次第に失われて行くことになるのである。」
これも、具体例をあげて考えてみましょう。公明党は、地方議会に多数の議員を持ち、地方自治体に大きな影響力を持っています。これらの地方議員は、地方自治体の公共事業の請負や参入に便宜をはかっています。また、公営住宅への入居や生活保護認定などのために特に精力的に活動しています。
このような活動そのものは、これに関して対価を受け取ることをしなければ違法とはいえません。また、このような活動を利用して創価学会に入信させたからといって、金品を受け取った訳ではありませんから、収賄罪に問われることもありません。しかし、このような世俗的利益を武器として信者を獲得することは、宗教的努力による布教活動ではありません。宗教的努力によらない布教活動は、長い目でみると、必ずその宗教を堕落させることになります。
公明党と創価学会の関係については、政教分離の観点から多くの国民が長い間疑問視し、強い批判をしてきました。このような批判がある場合、普通の健全な感覚を持った宗教団体ならば、そのような問題視される活動を自重するでしょう。しかし、創価学会は、このような疑問や批判に一切耳を傾けることをせず、口では政教分離をしているといいながら、その活動をますます強めてきました。創価学会の会員にとって、政治活動と選挙運動は宗教活動そのものだといわれています。創価学会は、公明党という世俗上の武器を持たなければ宗教団体としてやってゆくことができない、寂しい悲しい宗教団体だと指摘する人もいます。
宗教の健全な発展のためにも、政教分離されなければならないということを、宗教界はもちろん国民全体で考えてゆかなければなりません。
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http://www.liberal-shirakawa.net/current/jp_content/budhtms.html
1999年(平成11年)11月4日 第1920号
週刊仏教タイムス
政教分離原則を確認する 白川勝彦議員に聞く
─従来から白川代議士は、創価学会と政教一致の関係にある公明党の政権参加は、「いかなる宗教団体も国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」との、憲法二十条一項後段の「政教分離」規定に違反すると主張されています。これに対して創価学会・公明党は、昭和四十五年の言論出版妨害事件を契機に、創価学会・公明党が掲げていた「国立戒壇」論や「王仏冥合」論が憲法に違反するとして国会で問題になった時に出された政府見解や内閣法制局長官の答弁を引用して、憲法二十条一項後段の「政教分離」規定は、国家と宗教の関係、あるいは国家権力と宗教団体の関係であって、宗教団体と政党すなわち創価学会と公明党との関係ではないと反論。白川代議士の主張は誤りだと大々的に宣伝しています。これについてどう思われますか。
日本国憲法 第二十条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
白川
まず第一に指摘したいのは、内閣法制局長宮の答弁内容がどういうものであるかということです。平成五年の大出長官、そして平成七年の大森長官の答弁を読んでみると、一般論としての宗教団体の政治活動の自由についての言及はあるが、創価学会と公明党の関係を論じているわけではないんです。宗教団体に政治活動並びに選挙運動はできるかと問われて、それは結構ですと答えているに過ぎない。また、宗教団体の推薦を受けた人物が国務大臣に就任するということについても、法的には別人格ですから、必ずしも「政教分離」原則に違反するものではないと言っているんです。ところが、創価学会・公明党は、法制局長官の一般論としての答弁を、あたかも創価学会・公明党の関係について発言したかのように我田引水し、鬼の首でも取ったかのように宣伝しているのです。
そもそも創価学会・公明党は、憲法二十条一項後段の解釈について、これを国家と宗教の関係だと規定していますが、その解釈が妥当なのかどうか、きちんと検証する必要があると私は思っています。
創価学会・公明党は、憲法二十条一項後段の「政教分離」原則を、国家と宗教との関係と位置づける理論的根拠として、条文にある「政治上の権力」とは、裁判権や徴税権、警察権などの「統治的権力」を意味すると主張している。したがって、これは国家権力だと言うんです。しかし、日本国憲法を解釈する上での重要なメルクマールであるマッカーサー草案に照らしてみると、そこには次のように書いてあるんです。
「No religious organization shall receive any privileges from the State, nor exercise any political authority」
「政治上の権力」に該当する部分には「political authority」とあります。これは「政治上の権威」を行使してはならないという意味と解釈できます。創価学会・公明党が言うような、国または地方公共団体がもっている「統治的権力」の行使を禁止するという意味ではありません。
もし、「統治的権力」を指すのであれば、その場合は「political power」と書かれなければならない。したがって「統治的権力」の利用を禁止するものだという創価学会・公明党の主張は語彙の解釈という点から見てもおかしい。
─憲法の「政教分離」の規定を踏まえるならば、宗教団体が「統治的権力」を持つということ自体、そもそもありえないと白川代議士は主張されていますが。
白川
考えてもみてください。厳格な「政教分離」を求める現憲法のもとで、特定の宗教団体が徴税権・警察権・裁判権を国から委託され、行使することなどあり得るはずがありません。裁判は裁判所が専決することになっています。税金の徴収を国が特定の宗教団体に委託するなどということはありえない。もし、創価学会・公明党の主張を額面通り受けとめるならば、憲法二十条一項後段の規定は、なんら実効性のない、意味のない規定ということになってしまう。そうした点から考えても、創価学会・公明党の解釈が正しいとは言えないと思います。
─こうした憲法の「政教分離」原則についての議論が、憲法学界では全く行われていないという点も、問題ですね。
白川
そうなんです。憲法学界の実状を端的に言わせてもらうならば、創価学会と公明党との関係を想定した上での憲法論議がまったくといっていいほどなされていない。したがって、創価学会と公明党との関係をきちんと把握したうえで憲法の「政教分離」の解釈をどうするかについて、きちんと検証、考究した論文がないんです。いわば教科書がない。にもかかわらず創価学会・公明党は教科書がないこと、すなわち創価学会・公明党の関係を検証した上で憲法論議がなされていないという事実を奇貨として、憲法の「政教分離」についての解釈は、国家と宗教の関係とするのが憲法学界の通説であり、この問題はすでに決着済みだと主張している。これは全くおかしな話です。
─もとより憲法学界の意向や政府見解、内閣法制局の見解は、憲法を解釈する上での指標であることは間違いありませんが、最終的な解釈ではないわけですから、政府見解や憲法学界の通説を「錦の御旗」のように振りかざすこと自体、おかしい。
白川
最終的な憲法解釈はなにかと言えば、最高裁判所の判例です。最高裁判所が、創価学会という特定の宗教団体に実質的に支配されている公明党という政党が政権に参画することが、憲法に抵触するかどうか、その是非について結論を出した時に、法律的には決着がついたということになるわけです。内閣法制局長宮の答弁、それも創価学会と公明党の関係をストレートに答えているわけでもない答弁を金科玉条の如く振りかざし、あたかも最終決着であるかのように主張する創価学会・公明党の姿勢は、憲法論の上から言っても間違っている。
私が、公明党の政権参画は憲法二十条に違反していると指摘すると、異常とも言えるほど過敏かつ過剰に反応するのは、それだけ痛いところをつかれているということではないんでしょうか。
─白川代議士は、九月末に放送されたテレビ朝目の『朝まで生テレビ』に出演され、創価学会の西口浩広報室長あるいは公明党の白浜一良参議院議員、遠藤乙彦、北側一雄両代議士らと、直接、「政教分離」問題について討論されましたが、今後、国会の内外でもこうした議論が大いになされる必要があるのではないでしょうか。創価学会・公明党は大きな媒体をもっていますし、巨大な金権力を背景に学界や世論を操作する力をもっている。放っておくと創価学会・公明党の憲法解釈が、既成事実化してしまうおそれがある。日本における「信教の自由」と「政教分離」の原則を守っていく上で、この点はゆるがせにできない大きな問題だと思いますが。
白川
私は議論しています。また、自民党の中でも同じような意見をもっている人はいっばいいますが、今後、国会での論戦という点では、野党がこの問題をどう考え、どういう形で問題提起するかということにかかっていると思う。
おそらく野党は創価学会・公明党に関する「政教分離」問題を取り上げると思います。ただ、その時に注意してほしいのは、この問題は決して打算的な思惑でやってはならない、損得は抜きで考えて欲しいということです。
というのも、従来、創価学会・公明党の関係を含む「政教分離」問題を取り上げる政治家の姿勢に問題があったからです。創価学会・公明党の存在が自らにとって不利な時は、「創価学会と公明党は政教一致であり、憲法違反だ」と批判する。ところが、逆に創価学会・公明党が擦り寄って来ると、途端に「政教分離」問題を不問に付す。極めてご都合主義的というか打算的な対応をしてきた事実がある。その結果、創価学会・公明党のマキャベリスティックな戦略に籠絡されてしまった。この問題を取り.上げる以上は、しっかりとした襟度をもってのぞむ覚悟が必要でしょう。
私は、憲法十九条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という規定と、憲法二十条の「信教の自由」の保障は、基本的人権を保障する一連一体の規定だと理解していますが、この条文は、日本国憲法の基幹であり、わが国は自由主義体制でいくということを宣言した重要な条文だと考えています。したがって、「信教の自由」を担保する「政教分離」原則について、きちんとした意見が言えるかどうかは、政党ならびに政治家にとって、真に自由や人権を守る政党であるか否かのリトマス試験紙だといっても言い過ぎではないと思います。
ですから、その点をきちんと踏まえた議論がなされることを期待しています。
─今回の自・自・公連立政権の発足に際しても、創価学会・公明党は非学会員の続氏を入閣させるなどマキャベリスティックな動きを展開しています。
白川
学会員ではない続訓弘氏を総務庁長官に登用したという点ですが、これは各種の世論調査の結果に示されているように、国民の間に自・公連立に対する批判、アレルギーが非常に強い、また自民党内にも学会員の入閣を危惧する声があるので、非学会員を登用することで批判の矛先をかわそうという狙いなんでしょう。しかし非学会員が登用されたからといって、政教一致体質が変わったわけではない。したがって国民の皆さんは、こうした動きに幻惑されることなく、事の本質をよく見極めていって欲しいとおもいます。おそらく、創価学会・公明党としては、続さんの入閣で地ならしをした後、学会員を大臣に送り込むという二段構えの戦略を取るつもりなのではないですか。
それと政権に参画したとたんに公明党が、全日仏や新宗連などに対し、さかんにアプローチしていることを、私は、とても危倶しています。というのも、これまで「邪宗・邪教」と忌み嫌い、相手にもしてこなかったにもかかわらず、政権参画を契機に、突然、「信教の自由」を保障するので交流しましょうと言ってきているわけですが、政権入りと同時にそうした行動をとること自体、極めて傲慢というか、居丈高になっている感じがするのです。
実際、私と知己の教団関係者は、「公明党は政権党です。その政権党と皆さん交流しなくていいのですか」と恫喝されているように感じたと話していました。
まさにこういうことが、「political authority」の行使形態の一つと言えるのではないでしょうか。
─自・自・公連立政権の発足を受けて宗教者に望みたいことはありますか。
白川
創価学会・公明党の問題を含む「政教分離」問題について、私どもが真剣に取り組むのは、今の日本にとって自由や人権が重要であり、これを守らなくてはならないと思うからこそやっているのであって、宗教団体から頼まれたからやっているというようなレベルではありません。
そうした姿勢に関連して率直に言わせていただければ、「信教の自由」にストレートに結び付く問題であるにもかかわらず、「政教分離」問題に取り組む宗教者や宗教団体の姿勢が脆弱のように思われます。教団幹部あるいは信者のかたがたと話す機会もありますが、正直、熱いものが感じられないのです。
もし、この問題で立ち上がることができない、団結することができない宗教者もしくは宗教団体があるとすれば、必ず将来その責任を宗教者の内部からも問われる時が来るでしょう。いまこそ宗教者は自らの生命線である「信教の自由」を守るためにどのような行動をすべきか、真剣に考究し立ち上がるべき時なのではないでしょうか。私にあえて言わせていただきたい。
「すべての宗教者、団結せよ!」
(おわり)
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