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1喝たぬき
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牟田口廉也、佐賀県出身。陸士22期。戦後、戦犯として逮捕されるが不起訴。
昭和39年に社会党の佐々木更三委員長の謝罪に対した、毛沢東初代国家主席・中国共産党主席の言葉。「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。」(「毛沢東思想万歳」(下))
牟田口廉也、佐賀県出身。陸士22期。陸大卒業後、参謀本部員。
盧溝橋事件のとき、支那駐屯歩兵第1連隊長として現場指揮にあたり、事件を拡大させる。 盧溝橋事件は、昭和12年7月7日に北京南部の盧溝橋で起きた発砲事件で、その後の日中戦争(支那事変)の発端となった。盧溝橋付近で、北京郊外の富台に駐屯する日本の支那駐屯軍が夜間演習を実施していた、その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の二等兵1人が足りなかった。牟田口廉也連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。参謀本部および日本政府は不拡大方針であり、戦闘の中止を命じた。しかしながら、出先の部隊は、戦闘中止命令に従わず戦闘を拡大。不拡大方針は吹き飛び、本格戦争へと発展していった。
この牟田口廉也は、日中戦争の初めだけでなく、太平洋戦争の終わりにも登場する。悪名高いインパール作戦である。
蒋介石政権の屈服と英国の脱落によって終戦の機をつかもうと考えていた大本営は、昭和17年8月、21号作戦(東部インド進攻作戦)の準備を南方軍指示したのである。しかし現地では、ビルマ防衛の任にあたる第15軍、その隷下で21号作戦の主力に予定された第18師団(師団長牟田口廉也中将)がこの作戦に不同意を唱えた。
この作戦の実行には大きな困難が伴い、無謀な計画とすら考えられた。まず、5月末から9月末までに及ぶ雨季には降水量が9000mmに達し、その間の作戦行動ほ不可能であった。乾季に作戦を実行するとしても、作戦地域たるイソド・ビルマ国境地帯は峻険な山系が南北に走り、チソドゥィソ河などの大河も作戦行動にとって一大障害であった。しかもジャソグルが地域一帯をおおい、当然交通網も貧弱で、悪疫療病の地であった。このような悪条件を指摘して、牟田口廉也中将は作戦困難を主張した。
しかし牟田口廉也が第15軍司令官に就任したとき、彼の判断は180度の転換をとげる。本人の弁によれば、「私は盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支部事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つであろう。」ということである。
第15軍司令官に就任した牟田口廉也は、従来の守勢的ビルマ防衛ではなく、攻勢防禦によるビルマ防衛論を唱えたのである。彼の判断によれば、ジビュー山系に設定した現在の防衛第一線ではもはや安全でほないので、これをチソドゥィソ河の線まで推進する必要があるが、チソドゥィソ河ですら乾季には敵の進攻に対する障害とはなりえず、かつ防衛正面も広くなるので、むしろこの際初めから攻勢に出、連合軍反攻の塞源地インパールを攻略すべし、というのであった。彼の構想は攻勢防禦によるビルマ防衛という軍事的判断だけにとどまるものではなかった。彼の構想は単なるビルマ防衛を超え、インド進攻にまで飛躍した。
無論、牟田口廉也が第15軍司令官に就任にしたからといって、東部インド進攻作戦の困難さが軽減したわけではない。単に牟田口廉也が師団長として前線に張り付かなくても良くなっただけである。昭和19年3月、インパール攻略作戦は強行された。しかし、食糧の補給計画なく、軍需品輸送用の牛を食い、野草を食う予定で、軽火器だけを携帯して、険阻な未開発の山野を進軍する日本軍に対し、英国軍は、戦車等で固められた陣地を拠点とし、航空機による援護と弾薬・食糧の大量補給を行った。これに対して日本軍は到底互角に戦えるはずがなかった。前線の師団長が絶望的な戦闘より部下将兵を全滅させる惨状を坐視するに忍びず、繰り返し後退を懇請しても、牟田口はこれを一蹴して抗戦継続を強要した。第33師団長柳田元三が作戦中止の意見を具申し、憤激した第31師団長佐藤幸徳が独断で退却を決行すると、牟田口は、柳田・佐藤および病気に倒れた第15師団長山内正文の三師団長を罷免するという、日本陸軍史上未曾有の事態を惹起するにいたった。7月に入ってついに全軍退却のやむなきにいたったが、食糧・弾薬は尽き、マラリア等の病がひろがり、傷病兵は路上に倒れて自決するほかなく、日本軍の退路はいたるところ死屍累々とした。第15軍の無謀きわまる作戦のために、参加兵力約十万の内約三万を失い、約二万は病に倒れ、残存の約五万のうち半数は患者であったという。
牟田口廉也の姿に現在のキャリア官僚の姿をみるのは俺だけだろうか。当時の日本は日本の中に帝国陸軍という国があり、帝国海軍という国があるようなものであった。牟田口廉也は、その帝国陸軍の中で自分が出世するためには、何万の将兵の命を犠牲にすることを何とも思わなかった。なお牟田口廉也は作戦失敗のあと、国内で陸軍予科士官学校長についている。またインパール作戦の最高責任者である川辺司令官は、このあと大将に昇進した。
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