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(回答先: 「改憲論」に潜むナチズムの病巣(王権神授と民族精神の高揚) 投稿者 鷹眼乃見物 日時 2005 年 5 月 19 日 19:51:52)
下記の論は某掲示板で偶然に見つけた記事です。内容は別の角度からのものですが、ほぼ同様の問題意識が書かれてありますので、勝手なことかもしれませんが「シリーズ『改憲論』に潜むナチズムの病巣」の[補遺]としてUPしました。
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[日本はドイツとどこが違うのか]
by kusotaka
ドイツにはすでに多くの場所にユダヤ人関連の記念館がある。にもかかわらず、ドイツ政府は首都ベルリンの、ソウルでいうと世宗路(セジョンノ)ほどの要地に、ユダヤ人追悼公園を新しく建設している。ドイツは青少年に、先祖が犯したユダヤ人迫害の真相を教える歴史の勉強を持続的にさせている。
1970年12月、厳しい寒さの中でドイツ首相のビリー・ブラントは、ポーランドの首都ワルシャワの過去のユダヤ人集団居住地(ゲットー)で、膝をついてナチス・ドイツの蛮行を謝罪した。ドイツ首相ゲルハルト・シュレーダーは最近、ブッヘンバルトのユダヤ人収容所解放60周年を迎え、またユダヤ人犠牲者らとその家族に謝罪した。
ドイツ人の過去の反省は終わりがない。日常生活の一部であるようだ。日本人が韓国に向かって、「首相が変わる度に韓国に謝罪しろというのか」と話すのとは対照的である。東京の銀座や新宿に、強制連行された朝鮮人勤労者や慰安婦、南京大虐殺の犠牲者の霊を慰める追悼碑を一つ建てるのを期待するのは、西から日が昇るのを待つのと同じように見える。
第2次世界大戦当時、ムッソリーニのイタリアとともに、日独伊ファシスト枢軸の悪のパートナーだったドイツと日本は、どこが違うのか。オランダ言論人イアン・ブルマは、ヒットラーのドイツと昭和天皇の日本が1930年代と40年代にした蛮行を、両国国民がどのように記憶、反省、克服していているかを比較研究した結果を「Wages of Guilt」という本に記した。
ブルマは言う。「19世紀末から日本はドイツをモデルとした。奇異だが、戦前に日本を魅惑させたもの−プロシア的権威主義、浪漫的民族主義、類似科学的人種主義−が、ドイツでは光を失ったが、日本では相変わらず生きている」。ブルマは、戦後のドイツは軍人精神、人種的純潔性、国家のための犠牲などナチスドイツの残滓を清算しようと最善を尽くしたが、日本はそうでない、と指摘した。日本がドイツとの同盟に郷愁を覚えるが、ドイツは困惑するという。
ドイツと日本の差は文化的なものか、政治的なものか。ブルマは政治的なものと見ている。「生まれながら危険な国民はいない。危険な事態があるだけだ。
危険な事態は自然の法則や歴史、国民性の結果ではなく、政治形態の結果だ」。
日本の大臣らは政治家だ。度重なる妄言で、韓国人と中国人の過去の傷に塩を塗る文部科学相と外相も政治家である。靖国神社参拝を強行し、韓国と中国をずっと刺激することにサディズム的快感を感じる小泉首相は彼らのボスだ。過去に対する日本の道徳的不感症が政治的な問題だというのに一理あると思われる。一級戦犯出身で首相を務めた岸信介の孫・安倍晋三がいま、自民党幹事長代理として右翼政治勢力を率いているのを見てもそうだ。
しかし政治を左右するのは政治文化であり、政治文化の土台はその国の文化水準、意識水準、知的水準である。すべて文化的常識(Cultural literacy)だ。マッカーサー将軍は1945年の日本を、精神年齢12歳程度の子どもに例えた。日本には、ヨーロッパ文明の啓蒙主義的、ヒューマニズム的伝統を受け継ぐゲーテのような人物も、ナチス暴政を避けて海外に亡命したトーマス・マンのような作家もいない。経済大国の知的後進性が問題である。
日本政治家らの言行を見ると、日本は精神的、文化的、知的発達障害にかかったようだ。日本は国連安保理常任理事国になる資格を自らはく奪している。
こうした日本を相手に独島(日本名・竹島)と歴史教科書問題をどう解決するのか。独島は実効的支配を続ければよい。歴史教科書は、両国の市民社会、特に若いネチズンの交流と対話を広めていけば、日本右翼の偏狭で前時代的な歴史記述は立つ場所を失うはずだ。日本の右翼が韓流に熱狂する日本女性や若者を見て危機意識を感じるのを見ると、歴史的真実は明確にわれわれの方である。
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