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記者の目:
憲法9条改正論 宮下正己・政治部
政界を中心に活発な憲法論議を取材していて、知り合いの自衛官から「国益に反する時は、たとえ最大の同盟国であっても集団的自衛権の発動に『ノー』と言うのが真の文民統制だ。もうその見識と覚悟を国民は持っているのではないか」と言われた。確かに、自衛隊を統制する文民さえしっかりしていれば、憲法9条を改正しても先の大戦のように日本が暴走することはないだろう。ただ、国際社会を主導する米国の世界戦略を前に、政治に「ノー」と言える「見識と覚悟」があるかと問われると、不安にならざるを得ない。
自民、民主両党は先月、それぞれ改憲中間案をまとめ、いずれも9条改正の方向を打ち出した。今後のポイントは(1)集団的自衛権の行使(2)国際協力に伴う海外での武力行使−−を両党がどこまで容認し、一致できるかに絞られている。
国会勢力の85%を占める両党がともに9条改正に向かう背景には、01年の米同時多発テロ以降の安全保障環境の激変にある。アフガニスタン攻撃(同年)やイラク戦争(03年)など、各国協調の平和構築が国際的な流れとなり、日本も相応の役割を果たす必要が出てきた。また、北朝鮮の核問題や中国の軍事力増強、国際テロなど日本にとって直接の脅威が顕在化し、国民の防衛意識を芽生えさせたことも大きい。
ただ、政府のこれまでの安保政策は国際情勢の変化に右往左往し、現実追認の形で行われてこなかっただろうか。特に米国主導の国際的軍事行動に対し、米側から「ショー・ザ・フラッグ(旗幟(きし)を鮮明にしろ)」「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(陸上自衛隊の派遣を)」などと言われ、慌てて特別措置法を設けて自衛隊を海外に派遣してきた経緯は見過ごせない。
こうした付け焼き刃的な安保政策が、自衛隊の任務と9条に大きなかい離を生んだ。先月最終報告書をまとめた衆参憲法調査会でも「その場しのぎの憲法解釈で既成事実を積み重ねる政府のやり方は、憲法の空洞化につながる」との批判が相次いだ。かい離の解消は、9条改正派にとって最大の推進力になっている。
しかし、国会が政府のやり方に「ノー」と判断しなかったからこそ、今に至っているはずだ。それを政府の責任にして、憲法が現実に合わなくなったから改正すべきだと主張するのは、あまりに短絡的な現実追認の憲法改正論ではないか。理念なき安保政策は国民不信を招くだけである。
「自衛のため」にイラクを先制攻撃した米国も、国際社会を無視して単独行動に走ろうとしているわけではないと思う。現にイラク攻撃の際、国連で自らの正当性を訴えるなど、より多くの協力、支持を得ようと最後まで説得に努めた。「世界の警察」を自負しているだけに、国際社会から批判されたくないという思いは強い。米国は今後も軍事作戦に乗り出す際、一国でも多くの協力を得ようとするだろう。特に同盟国への期待は強く、「日本がより頼れる存在になることを求めてくる」(防衛庁幹部)ことが予想される。日本はこの求めに対し、主体性を持って判断することができるだろうか。
国民が不安なのは、結局は改憲後も米国に「ノー」と言えず、現実追認の安保政策によって際限なく軍事力を拡大するのではないかという点だ。「改憲して地球の裏側まで米国についていくつもりか」という懸念も根強い。9条を改正するなら、政治はその前に改正後の安保政策をどう描いているかを示す必要がある。集団的自衛権の行使と海外での武力行使を容認し、どう米国の戦略と一線を画していくのか、それとも一体化の道を選ぶのか。国防や国際協力の将来像とともに、軍事力を発動する要件を整える必要がある。
軍事組織が他の組織と決定的に違うのは、隊員に死者が出るのを前提として動かすことができることだ。当然、相手にも死者が出ることを念頭に置かなければならない。非軍事分野の外交手段や対外的な経済政策も踏まえ、それでも国益のために必要だと判断したなら軍隊を使う。国民はその判断を政治に委ねる。外交の最終手段であり、付け焼き刃では済まされない。
日本は9条のもとで、こうした見識と覚悟を持たずにやってこられたのかもしれない。護憲派からはよく「9条があるから歯止めになってきた」という声を聞く。ただそれは、主体的に判断できないことを政治自らが認めているのと同じだ。「現実問題として改正が必要」という議論の前に、いざという時に「ノー」と言える見識と覚悟があるのかを、問いただすことが先決ではないだろうか。
毎日新聞 2005年5月19日 0時32分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050519k0000m070151000c.html
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