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沖縄戦 <2>『死は誉れ』間違いだった
入隊の日、隊列を組み軍歌で気勢を上げる少女たちに、これからの日々は予想できなかった。
沖縄本島南部。第三二軍司令部が置かれた首里に近い、東風平(こちんだ)町の八重瀬岳。その中腹に横穴を掘って急造されたアリの巣のような陸軍第二四師団の野戦病院が、中山きくさん(76)ら、県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された「白梅学徒看護隊」の“戦場”だった。
軍から学校に、入隊要請があった一九四五年二月。「十六歳の私は、女でもお国のため尽くせるんだと誇りに思い、喜び勇んで入隊を決めたのです」と中山さんは言う。心配し、反対した両親には「非国民!」と反発した。
要請に応じた少女たちは、わずか十八日間の看護教育を受けただけで、補助看護婦として病院に配置された。三月二十四日。その前日には事実上の沖縄戦の幕開けとなる、慶良間(けらま)諸島への米機動部隊の艦砲射撃が始まっていた。
■ ■
血と膿(うみ)、排せつ物のにおいがこもる壕(ごう)の中で「白衣の天使」のイメージはすぐに吹き飛んだ。「水!」「便器を!」「傷口のうじを取ってくれ!」。叫び声が飛ぶ。ランプが照らし出す血のりと泥にまみれた兵士たちの恐ろしさに、ひざが震えた。
戦闘が始まるとベッドは瞬く間にいっぱいになり、息つく暇もなくなる。「夜でもよく見えるように」と軍医から、「み号剤」と呼ばれる薬物が渡された。
手術場は戦場そのものだった。軍医や看護婦の傍らで軍服と一緒に切断された手足を受け取り、目をつむり壕の外に捨てに走った。胴体から離れた肉塊は重かった。
着弾のたびに壕の中は激しく揺れた。外に放置された負傷兵にも砲弾は浴びせられ、仲間たちは過労や疫病で次々と倒れていった。
二カ月余の肉弾戦の末に首里の司令部が陥落、六月四日、野戦病院に解散命令が下る。動けない数百人の重傷兵には「処置」が命じられ、青酸カリとブドウ糖を混ぜた包みが配られた。最期をみとった仲間は大声で泣いた。
「豪雨の山道を腹ばいになって出て行く兵士がいました。手足を切断されて、どこまで逃げられるのか。これが戦争でした」
それでも多くの仲間は、南部に撤退する軍と行動をともにしたいと懇願した。だが、それも聞き入れられず、散り散りに砲弾の降り注ぐ戦場へと放り出された。
白梅学徒の戦死者は二十二人。全員が解散後の死亡だった。高嶺村(現・糸満市)国吉の壕にたどり着き、再び軍と合流した十六人の中からは、十人の犠牲者が出た。米軍の無差別攻撃の前に、日本軍は無力だった。
中山さんは同郷の友と、故郷の佐敷村(現・佐敷町)を夢中で目指した。七月中旬、米軍の捕虜となって帰った村で見たものは、はためく星条旗だった。
■ ■
「あの戦争をなぜ私は生き延びたのだろう」。戦後、小学校の教師になった中山さんは、後ろめたさを抱えて生きた。多くの仲間の生死は、長い間分からなかった。くじけそうな心を慰めたのは、肉親を失いながらも、懸命に生きる子どもたちの姿だった。
「命どぅ宝(生きることこそ尊い)」という思想が沖縄の心だった。「死ぬのは誉れ」と教え込まれた戦時中だけが違っていた。「大人たちは間違っていた。何を子どもに教えなければいけないのか、私は考え始めたんです」
草木に覆われた野戦病院跡の壕を、大きな懐中電灯を手に中山さんと奥へと歩いた。
「ここに私たちの青春があったなんてね。イラクになんか自衛隊を派遣して…。日本はもう、あの戦争を忘れたのかしら」
そうつぶやく中山さんには、戦没した友の声が聞こえるという。その声は「戦争の記憶を伝え残すのは、あなたたちよ」と言っている。「生きられなかった私たちに代わって。忘れないで」と。
◇メモ <沖縄戦の女子学徒隊>
学徒勤労動員令に基づき、県内10校から500人近くが動員され、9つの学徒隊を作った。▽沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高女(ひめゆり)▽県立第二高女(白梅)▽県立第三高女(なごらん)▽県立首里高女(ずいせん)▽私立積徳高女(積徳)▽私立昭和高女(でいご)▽県立宮古高女▽県立八重山高女▽県立八重山農学校女子−の各校で、学徒名はそれぞれの校名や校章などから付けられた。ほぼ2人に1人が、戦禍の犠牲になっている。
社会部 西田義洋・佐藤直子
(2005年5月3日)
中山さんが通った沖縄県立第二高等女学校の4年生。昭和20年3月に卒業予定だったが、直前に学徒隊に参加、大勢が亡くなった(中山さん提供)
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