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外交文書公開 外務省
外務省が二十五日公開した十九回目の外交文書は、終戦直後から昭和五十年ごろまでの百九十二冊、約九万六千ページにのぼるが、文書からは、日米安保条約の改定や中国の核実験など、戦後の国際情勢の激しい変化に直面した日本の姿が浮かび上がってくる。
《比への賠償》
◆総額8億ドルで極秘合意
第二次世界大戦の戦争被害をめぐるフィリピンとの賠償交渉が四年目を迎えた昭和三十年五月三十一日、鳩山一郎首相(肩書はいずれも当時)が比側ネリ代表と東京で行った会談で、日本側からの賠償と借款の総額は比側提案の「八億ドル」とすることで極秘に合意していたことが一連の文書で明らかになった。政府は当時、八億ドルの提案があったことは認めたが、野党対策のため合意した事実は隠し続けた。
外務省が作成した日誌によると、鳩山・ネリ会談に先立ち、重光葵外相と高碕(たかさき)達之助経済審議庁長官らが対応を協議した。
ネリ代表の八億ドル提案について、マグサイサイ比大統領が同意すれば、日本側は「その通知を受けた上で同意できるよう、政府内部を固める」との方針を確認。これを鳩山首相がネリ代表に伝える手はずとなっていた。
ところが、首相はネリ代表との会談で「大統領が同意すれば自分も同意する」と述べ、その場で提案を承諾。会談後、内容を聞いた高碕長官は「そんなはずない」と驚きの声を上げた。
前日までの交渉で五億五千万ドルの賠償と二億五千万ドルの円借款を求める比側に対し、日本側は賠償額五億ドルを譲らず、閣僚レベルでの協議は平行線に終わっていた。首相は政治決断で比側に譲歩し、難航する交渉の打開を図ったとみられる。合意文書署名の際、首相はシナリオ通りに発言しなかったことをわびるかのように、「こうなってしまったよ」と周辺にこぼした。
その後の交渉では政府は秘密を守ることに腐心。首相は「内容が漏れたときは合意を無効とする」よう指示したが、わずか四日後、フィリピンの新聞が合意内容を報じ、両国政府は「口をそろえて報道を否定」した。
その後も、首相は国会で「意見交換をしたもので、了解をし合ったわけではない」などとしらを切り通した。
賠償協定は合意から一年後の三十一年五月、比提案通り八億ドルで締結された。
《中国核実験》
◆当初は軍事的評価低く
今回公開された外交文書では、昭和三十九年に行われた中国の初の核実験を受けて、日米両国の中国の核兵器開発に対する受け止め方が、当初の過小評価から、開発の進展を受けて過大評価へと変わっていく様子が、浮き彫りになった。
中国は東京五輪開催中の三十九年十月十六日、初の核実験を実施したが、これに先立つ同年六月一日付の米国務省文書は、中国の核保有について「現在の軍事的勢力関係を実質的に変更するものではない」として軍事的意義を低く見積もっていた。
だが、最初の核実験は想定していたプルトニウム型でなくウラン型で、中国が大規模な濃縮ウラン工場を持っていることがほぼ確実になり、原爆の量産化態勢にあることが判明。同年十一月十六日の外務省中国課の文書は「核兵器を保有するに至る期間が従来一般に予想されていたよりも早まったとして、その軍事的意義が世界的に再評価されている」と記した。
四十一年十月に核弾頭付きミサイル実験が成功すると、同月二十八日付の中国課の文書は「近隣諸国に心理的のみならず軍事的圧力を加えうるに至った」と指摘。十一月には米国防総省当局者が防衛庁側に「核ミサイル開発進捗(しんちょく)度は従来の見通しに比較し一年ぐらい進んでいる」と伝えた。
四十二年六月には水爆実験が成功。中国課は同月十九日付の文書で「中共(中国)技術水準の高(さ)を示す」とした。
杏林大の平松茂雄教授(中国軍事問題)は「当初は日本も米国も、心理的影響しかないと言っていたが、実際に速いテンポで進んできたのでびっくりして過大評価に変わってくる」と指摘する。
過大評価の代表例は大陸間弾道ミサイル(ICBM)。四十二年七月十日、ジョンソン駐日米大使は外務省北米局長に対し、実用化は一九七〇年代半ばとの予測を示した。四十四年九月三十日付の中国課の文書も同様の見方だったが、実際の配備は五十六年だった。
《反日ジャカルタ暴動》
◆日本企業に自省求める
田中角栄首相が昭和四十九年一月十四−十七日にインドネシアを訪問した際、発生した「反日ジャカルタ暴動」は日本大使館の日の丸が引き降ろされ、スハルト大統領が田中首相に陳謝する事態に。外務省は事件後、「訪問国における反日感情」と題する文書を作成、検証していた。
インドネシアのムルトポ大統領補佐官が前年末に「学生の大部分は自分のコントロール下にある」と発言していたことに触れ、事件は「治安当局、諜報機関などの予想を完全に上回るものだった」と分析した。
ただ同時に「米国など第三国の企業が批判対象とされず、なにゆえ日本企業だけが標的にされたかについても反省する必要がある」と、インドネシアに進出した日本企業や日本人の行動に自省を求めている。
反日ジャカルタ暴動は、一月十五日午前、大統領官邸前に学生ら約千人が集合。午後、少年二十−三十人が日本大使館に侵入し、国旗を引き降ろし、館内の窓ガラスを割った。学生デモが暴徒化、日系企業や日本料理店などが略奪、放火の被害に遭った。同文書は暴動の要因として、治安対策の失敗や日本企業に起因する反日感情、政権内部対立も挙げている。同年十二月に金脈問題で退陣する田中首相にとっては多難な年明けだった。
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■公開された主な文書
【二国間外交】日インド▽日米
【要人の外国訪問】池田勇人首相▽佐藤栄作首相▽田中角栄首相▽愛知揆一外相
【戦後賠償関係】フィリピン▽オランダ
【国際紛争】コンゴ
【多国間政治】米州機構▽東南アジア連合
【原子力関係】原水爆実験
【国際経済】関税貿易一般協定(ガット)
http://www.sankei.co.jp/news/morning/25pol002.htm