現在地 HOME > 政治・選挙8 > 649.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: 特集・パブリック・ジャーナリスト宣言(1) ライブドア・PJニュース 小田光康 投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 11 日 13:51:33)
ライブドア・PJニュース
特集・パブリック・ジャーナリスト宣言(2)【東京】
「IT技術が災害報道を変えた」
2004年10月23日@新潟県十日町市 十日町新聞社にて
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__980208/detail
【ライブドア・ニュース 9日 東京】−「社員にけがはないか。輪転機と印刷機は大丈夫だろうか」。2004年10月23日午後5時56分、新潟県十日町市をマグニチュード6.8、最大震度6強の大地震が襲った。地震直後は市内全域で停電・断水し、孤立した集落は8カ所。固定・携帯共に電話はほとんど通じない状況だった。同日午後6時20分には、十日町市内全域にわたって避難指示が出された。
震災時、市内の会合に出席していた山内正胤氏は慌てて会社に戻った。建物に入ると、OA機器や書類が床に散乱していた。「まさか、こんなに重い機械が動くとは・・・」。1トン以上ある輪転機や印刷機が台座から落ちているのを目のあたりにし、地震の大きさを改めて思い知った。幸い、社員は全員無事だった。
次の瞬間、山内氏の脳裏に1つの使命感がよぎった。「ここで新聞の発行を途絶えさせるわけにはいかない」。創刊明治41(1908)年。『十日町新聞』は山内氏の祖父から3代、約1世紀にわたり、十日町市民の生活情報を伝え続けてきた。世帯数1万3000世帯の市内で7000部を発行している同紙は、全国でも有数の伝統ある地域紙である。
還暦を迎えた山内社長、作務衣姿で被災現場取材 携帯写メールを駆使
呆然としている山内氏に、東京の長男から安否を気遣う携帯メールが届いた。山内氏はとっさに返信した。「なにか新聞を出せる方法はないか」。息子に助けを求めた。IT関連の仕事をする長男が即答してきた。「ブログで災害報道をやろう、すぐに十日町新聞のブログを作るから」。
十日町新聞社社長の山内氏は総勢3人の記者に即座に災害現場の取材に向かうよう命じた。「カメラ付き携帯電話を持って、写真を撮って、メールで原稿と一緒に送れ。自分の目で見たものすべてだ」。普段は和服を羽織る山内氏は、この日は偶然動きやすい作務衣を着ていたのが幸いした。還暦を迎えた山内氏自身も、携帯電話を首から下げ、被害者の集まる十日町病院に向かった。
外に出ると、国道117号線の長野方面を除きすべての主要幹線道路が土砂崩れや陥没で閉鎖されていた。十日町新聞の若手記者はオフロードバイクに乗り、遮へい物を乗り越えて被災の現場に向かった。その記者は現場に着くと、即座にカメラ付き携帯電話で写真を撮り原稿を打った。電波の届くところまで戻り、東京の十日町新聞臨時支局へと送稿、ブログに掲載した。
市内最大の十日町病院に着いた山内氏の前には異様な光景が広がっていた。病院でも停電が続き、暗闇が広がるロビーには避難した入院患者でごった返していた。そして、次々と負傷した人々が運ばれてきた。このままでは患者一人一人の命に関わる状況だった。「必要な情報は、大手メディアが報じるような『被災者の表情』ではない。被災者が必要としているヒト・モノ・情報のための情報だ」。山内氏はそう考え、不慣れな携帯電話の機能を駆使して原稿を打ち、情報を発信した。
「ブログで被災地の様子が良く分かった」と感謝の声
反響は大きかった。無名の十日町新聞ブログがいきなり1日4000-5000件のアクセスを数え、大手ポータルサイトでは一時、中越地震の災害情報サイトとして紹介された。震災後、一段落すると「交通や通信が途絶えていたため、県外の人から十日町市内に住む親類・知人の様子が良く分かったと感謝が寄せられた」(山内氏)という。
震災翌日、山内氏はなんとか電子製版機と印刷機を修理して、本業の十日町新聞の編集に取り掛かった。25日付けの十日町新聞は、1日遅れで無事、読者の家庭に届けられた。十日町新聞は今でも、紙媒体と並行してブログも続けている。山内氏はこう振り返る。「ブログを立ち上げても紙の新聞の販売部数に影響することは無かった。災害時にいかに情報をすばやく発信することの重い意味を実感した。情報が即座に広範囲に伝わってしまう怖さがある一方で、ネットの威力がよくわかった」。【了】
ライブドア・ニュース 吉川忠行記者
パブリック・ジャーナリスト 小田光康