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昨年4月、週刊文春が田中真紀子の記事で出版差し止め仮処分を受けた際、その週刊文春に立花隆が寄稿した文章を紹介します。出版自体(言論自体)を否定することと、出版は許すが(言論は許すが)、その中身には異議を唱える、ということとの差、言論の自由とは後者のことなのだ、ということをそこからくみとってもらえればと思います。といいますのも、この阿修羅の論客にも、前者をとるかたが見受けられますので。
ちなみに、文藝春秋は、「日本のCIA」と自認する(あくまで自認です(笑))内閣調査室が世論誘導で使う雑誌だというのは有名であり、これは公安調査庁を退職した御仁も『噂の真相』の記事で書いております。
週刊文春の今週号(ジャック・どんどんさんの紹介しておられるのは週刊新潮の記事で、週刊文春ではありませんので念のため)にはいろいろと書いてありますが、自社が上のような経歴を持つのでは、前向きな記事は書けないか、とつい思ったほど出来は良くありませんでした(個人的な意見)。しかも、中には識者のすごいコメント集もあったりして、さながら政治ショーの趣もあります。
どこのメディアも圧力、介入(対象は政官財暴などさまざまですが)とは無縁ではないのはわかりますが、こういう時にこそ、しがらみのない若手に記事をまかせ、少しでも良いほうへメディア界をもっていってほしいと僕などは考えます。
(無論僕は今回の件では長井氏、本田氏を応援しています)
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「週刊文春」2004.04.08号
『言論の自由の基本を忘れた 裁判所・朝日・読売』
立花隆(稿)
前号、「これはテロ行為である」を書いたが、論をつくせなかったので、もう一度論じさせていただく。
この一週間をふりかえって、主要なメディアで、言論の自由に関してあまりにレベルが低い議論がまかり通っているのを見て、唖然とした。
なかでもひときわ驚いたのが、朝日新聞の論調だ。
朝日の社説(三月十八日)は、文春側が「言論の自由を制約する暴挙」と抗議したのに対し、「私人のプライバシーを興味本位で暴きながら、表現の自由をその正当化に使っているのである」として、このような問題で表現の自由を云々することそれ自体が表現の自由をおとしめるとした。今回の裁判所の決定が、「これまでの判例を大きく踏みはずすもの」であることを認めながら、そういう決定を下した裁判所のおかしさを追及することもなしに、逆に文春を、「そんな事態を招き公権カ介入の口実を与えた週刊文春には改めて反省を求めたい」
と責めている。裁判所が異例の決定を下したのなら、おかしいのは裁判所ではないか。文春を非難するのは、おかどちがいといっていい。
こういう場合、新聞がやるべきことは、そういうおかしな決定を裁判所が出したのはなぜかという背景取材だろう。
朝日新聞はやらなかったが、「週刊朝日」四月二日号は、「週刊文春出版差し止め命令、緊迫の攻防」で、その背景を深くえぐった。この差し止め命令は偶然に出たものではなく、東京地裁民事九部の反メディアの裁判官を中心にメディア研究会のようなものが作られ、出版差し止めの申立が出たらすぐに対応できるようマニュアルまで作って手ぐすね引いて待っているところに、この申立が出たので、それきたとばかり、一挙に出版差し止めに走ったのだという。そしてこのような仮処分ではまことに異例なことに裁判官は最初から「担保は不要」と宣言して申立人に有利な決定を出すぞといわんばかりの態度を取っていたという。
そもそも仮処分では申立人に係争物の価値に見合う担保が求められるのが普通で、出版差し止めの例でいうと、「虚妄の学園」というある私立学校の理事長の私行上の問題をバクロしたほとんどブラックジャーナリストが作った書物の差し止めにすら、一千万円の担保が求められている。ブラックジャーナリズムでは全くない社会的信用もあり発行部数も多い雑誌の発行差し止めに担保ゼロとはほとんど信じ難い話であり、決定にあたった裁判官がはじめから異常な偏見をもってこのケースを見ていた証拠といっていいだろう。
■悪いのは週刊誌だという論調
読売の論調にしても朝日と同じようなものだった。
やはり十八日の社説で、出版差し止めという事態の重大性を指摘し、最高裁判例(北方ジャーナル事件)が、「内容が真実でないか、公益目的でないことが明白で、被害者が重大で回複困難な損害を被る恐れがある」の条件が満たされたときだけに限定していることを指摘したのはいいが、次に一転して、「しかし、今回の記事に『公益目的』があるようには見えない」とした上で、「『表現の自由』を振りかざしてプライバシーを侵害するようなことが横行すれば、かえって民主主義社会の根幹を崩しかねない」という結論にもっていっている。再び、悪いのは、こういうけしからん記事を載せる雑誌のほうだといわんばかりだ。
これらの社説以外にも、これに類する論調が世にあふれかえったのは、ご存知の通りだ。要するに、週刊誌は人のプライバシーを暴くことに熱中するなど、くだらんことばかりしている。こういう雑誌は、言論の自由の名のもとに保護するに値しないという議論だ。
出版差し止めの議論をするとき、まず引用されるのが、北方ジャーナル事件の判例で、先の読売の社説もそうしているが、実は注意深く読むと、判例とそれを引いての議論の間に、大きなズレがあることがわかる。
判例は、差し止めが許されるのは「公益目的でないことが明白」な場合といっているのに、論者は、「(文春の記事に)公益目的があるようには見えない」といっているのにすぎない。
「ないことが明白」と「あるようには見えない」とでは、天と地ほどちがう。抽象的な文言をにらむだけでは、そのちがいが見えてこないだろうから、具体的事実を示す。
「北方ジャーナル」というのは、実はとんでもないスキャンダル雑誌で、人身攻撃(企業、団体攻撃)をこととしてきた。その目次を繰り、ページをパラパラめくっただけで、通常人ならすぐに「公益性がないことが明白」とわかるような雑誌である。この事件で問題にされた記事は、五十嵐広三元旭川市長が北海道知事選に立候補したとき、その人身攻撃をはかって「天性の嘘つき」「昼は人をたぶらかす詐欺師、夜は闇に乗ずる兇族で、言うなればマムシの道三」と評したり、私生活では「クラブのホステスをしていた新しい女を得るために罪もない妻を卑劣な手段を用いて離別し、自殺せしめた」と根も葉もないことを書いたり、市長時代は「利権漁りが巧みで特定の業者と癒着して私腹を肥やし、汚職を蔓延せしめ」「巧みに法網をくぐり逮捕をまぬかれ」ていると中傷した。知事選に立候補したのも、「知事になり権勢をほしいままにするのが目的」で、「北海道にとって真に無用有害な人物」であるとした。こういう品の悪い文章でこういう内容の記事が数十ページにわたってつづいた。公職選挙の候補者に対してネガティブな記事が書かれるのはある程度仕方がないとしても、「なぜ全編にわたり、右のような野卑な表現でもって論をすすめなくてはならないのかが納得できず」「その表現形式だけをとりあげてみても、不必要に下品な表現をとって名誉をことさらに著しく傷つけるものというほかない」と一審の判決で評されたのも当然といえるだろう。
「公益目的でないことが明白」で差し止めが許されるのは、こういうケースについていうのであって、週刊文春のくだんの記事のように、公益性があるともないとも判断がわかれるグレーゾーンのケースがそれにあたらないことは、論理的に明白である。なぜなら、グレーゾーンがあることそれ自体が、「ないことが明白」の反証になるからだ。
ここでもう一つ、公益目的の存在・不存在について北方ジャーナル判例が明らかにしている重要なことがある。それは、通常の名誉毀損裁判の場合は、公益性(名誉毀損でも重要)の存在を、名誉毀損で訴えられた執筆者・出版社の側が立証しなければならないのに対して、このようなケース(出版差し止め)においては、申立人の側がその「不存在を立証(疎明)」しなければならないとしたことである。出版差し止めというのは、言論の自由という憲法が最大限に保障している基本的人権にストップをかけることだから、そう気軽に申し立てられては困るし、また、そうした申立に応じて下級裁判所から安易に決定が出されては困るので、こういう縛りがかけられたのである。
実際問題として、これまでそういう申立がなされることはあっても、却下されるのが普通だったから、おそらく文春はそんなものは却下されるに決まっていると甘く見ていたのだろう。
ところが今回は、裁判所のあるグループがそれを待ちかまえていて、電光石火本当に差し止めてしまったわけだ。では、今回のケースにおいて申立人から、「公益性の不存在」の立証がなされたのかというと、それはなかった。裁判所がそんなものは必要ないとしたからだ。真紀子長女は「純粋私人なのだから」そのプライバシーを書くことに公益目的が「あるはずがない」としたのだ。純粋私人という事実に反する見立てと、それから導かれる観念的な理屈づけで、裁判所は押し切ってしまったのだ。
全くもって強引きわまりないやり方というほかない。そもそも仮処分で出版差し止めをしてしまうことは、憲法二十一条二項が厳に禁じている行政処分による検閲とみなすことができる(「たとえ裁判所が主体であっても、口頭弁論も開かず、理由も付さずに表現行為を差し止めるのは実質的に行政処分と解すべきである」=佐藤幸治「憲法2」)。
■いい言論と悪い言論という区別
行政処分としての検閲は憲法違反なのである。
今回のケース(第一回目の決定)はまきにこれにピッタリで、「口頭弁論も開かず」「理由も付さず」になされた処分なのである(異議申立に対する二回目の決定には理由がついた)。
もうひとつ注目しておくべきことは、八四年の最高裁判決(「税関検閲」)によって、表現の自由に対して事前規制(事前差し止め)を加える場合にはさらに厳重な縛りが加わっているということである。八六年判決(北方ジャーナル事件)においても、差し止めを許すには、「厳格かつ明確な基準」が必要という縛りがあるが、その「明確性」がいまひとつ曖昧である。それに対して、八四年判決は、表現の自由の事前規制には、「特に明確性が要請される」として、明確性の基準として、次のようなことを求めている。
「その表現により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる」
「また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめる」ことである。
「公益性がないことが明白」という基準があるとき、読売社説の論者のように、勝手に基準を「公益目的があるようには見えない」というところまで拡大して論ずるなど、この判例と逆行する方向の論がなりたたないことはいうまでもない。
今回のケースで最大の問題は、「雑誌の事前差し止め」という出版社の命を取るような強権が発動されたというのに、今後その強権発動がどういうときにどういう基準でなされようとしているのか、その基準が全く見えてこないということである。こんな記事で、こんな簡単な手続とこんな安易な理由づけで雑誌を丸ごと差し止めることが可能になったら、今後、雑誌はどんな雑誌でも、いつ発行差し止めになっても不思議ではなくなってくる。
このような事態こそ、八四年判決があってはならないとしていることである。基準が不明確なまま、憲法が明記する言論の自由を国家が奪うことが可能になったら、国家はいつでも恣意的に特定言論機関をつぶすことが可能になる。そういうことがあってはならないから、国民の誰でもこれはOK、これはノーとはっきり理解でき、かつ自分でも応用適用できる明快な基準を作ることが必要だといっているのが八四年判決である。
今回の出版差し止めにかかわった裁判官たちは、八四年判決を読んだことがあるのだろうか。朝日読売の論説筆者は、八四年判決をちゃんと知っているのだろうか。出版差し止めに明確な基準がない状況がこのままつづくと、どれほど恐ろしい社会が現出する可能性があるか、わかっているのだろうか。
言論の自由というのは、本来、誰でも自由に何の制約も受けず、勝手なことを述べあうというのが大原則であって、言論の事前規制などというのは、あってはならないことなのである。
もちろん、その発された言論の中に、何らかの社会的に不都合な部分(名誉毀損、プライパシー侵害など)があれば、その責任を問われるのは当然のことだが、それはあくまで事後になされるべきことであって、その言論が発される前に、公的権力が、その言論を発すことそれ自体を制限することなど法治国家においてあってはならないことである。あの戦前の暗黒時代においてすら、演説会場の臨検の警察官が「弁士中止!」を叫ぶのは、演者が一言でも言葉を発してからであって、事前ではないのである。事前規制というのはそれくらい異常なことなのだ。多くの論者には、この異常さの認識、事態の重大性の認識が欠けている。
もうひとつここで批判しておきたいのは、朝日の社説をはじめ、週刊誌の低俗性を攻撃することに熱心な論者たちが前提としていることに、言論にはいい言論と悪い言論、高級な言論と低俗な言論があって、言論の自由で守られるべきは前者であって、後者は守るに値しないと考えているらしいことだ。
朝日三月十八日(夕刊)の「素粒子」は、一九七〇年代のアメリカをゆるがしたペンタゴン秘密文書事件に言及して、こう書いた。
「彼らには『志』がみなぎっていた。いま、週刊文春の『志』とは何か。『表現の自由』とか『国民の知る権利』を振りかざすにはあまりに脆弱としか言いようがない」
またしても、週刊誌蔑視の視点がすけて見えるが、このように書く「素粒子」の筆者なら、当然、ペンタゴン秘密文書事件の米最高裁判決をご存知だろうが、それが週刊誌蔑視思想とは対極に立つ論理から導かれた判決だということをご存知なのだろうか。
ペンタゴン秘密文書事件とは、スッパ抜いた秘密文書の掲載をつづけるニューヨーク・タイムズに対して、政府が掲載の差し止め請求をしたところ、最高裁が政府に対して、言論の自由(米憲法修正第一条)を理由にそれをはねつけたという事件である。
あの判決の主文はわずか十行にも満たず、その内容は、政府の差し止め請求は憲法違反と推定されるからその点を審理し直せという意見をつけての下級審への差し戻し決定だった。そして、この判決が根拠として引いたのが、「ニア対ミネソタ」判例だった。「素粒子」の筆者は知っているかどうか、「ニア対ミネソタ」判例とは、ミネソタ州が「公共迷惑法」なる州法を作り、ワイセツな新聞雑誌ならびに「悪意を持ちスキャンダルで人の名誉を傷つける」ことをこととするような悪質低俗な新聞雑誌に州政府が永久発行差し止め命令を発することができるとしたことから起きた訴訟事件である。この法律で、発行差し止めを食いそうになった、アカ新聞の発行者ニアが、こんな法律は憲法違反だと怒って起した訴訟である。朝日新聞の社説の筆者なら、そんな新聞つぶれて当然だといいそうだが、アメリカ最高裁の判決はちがった。そのような低劣きわまりない新聞であろうと、その発行を差し止めることは、言論・出版の自由を定めた憲法の精神に反するとして、ミネソタ州法の取消しを命じたのである。
世界で最も言論の自由が守られているアメリカの言論法の真髄がここにある。
日本の大メディアがすぐに「低劣、守る価値なし」とバカにする日本の週刊誌より何倍も低劣で、客観的にいっても守る価値がほとんどないような新聞ですら、言論・出版の自由の名のもとに発行権は守らるべしとしたのである。言論・出版の自由は何ものにもかえがたい価値を持つのだから、そのような低劣メディアの権利も守られるべきだとしたのだ。この判決が、アメリカの言論・出版の自由の根底にある。ペンタゴン秘密文書の差し止め請求も、この判例で一蹴された。
先週号で、R・ボイントンNY大教授が、もしアメリカで、文春に出されたと同じような出版事前差し止め命令がどこかの社に出たら、ニューズウィーク、タィム、ワシントン・ポストなど全メディアが一致して戦いに立ち上がるだろう、たちまち全米の弁護士がかけつけてくるだろうといっているのは、こういうアメリカの言論の自由の歴史を背景にしての発言なのだ。
日本のように大メディアがそろって週刊誌叩きに熱中するなどということは、およそアメリカでは考えられないことである。
もうひとついっておけば、こういう大メディアの論調の影響もあってか、言論にはいい言論と悪い(低劣な)言論があって、悪い言論は叩きつぶしたほうが世のためだという考えが、最近日本で急速に広がっているようだが、これはとても危険な考えである。そういう流れの一つとして、いま自民党を中心に着々とすすめられつつあるメディア規制立法もあるが、そういう発想は、ミネソタの「公共迷惑法」を作った人々と同じ考えであって、そういう人々はやがて、言論の最悪の抑圧者になっていくこと確実である。
欧米では、言論の自由について語ろうとするとき、何をおいても、まず読むのは、ジョン・ミルトンの「アレオパギティカ」である。これは、日本でも昔翻訳されて岩波文庫から「言論の自由」のタイトルで出たことがあるが、あまりに悪い訳(以下の引用は岩波文庫版をベースに私が若干手を加えた)であるため、あまり読まれずに終わっている。この書の中で、ミルトンが何よりも力説していることは、言論をいい言論と悪い言論に分けて、悪い言論を弾圧し、いい言論を賞揚するというやり方(つまり検閲)からは、よきものは何も生まれないということである。
「我々は清浄な心をもってこの世に生まれるのではなく、不浄の心をもって生まれてくる。我々を浄化するのは試練である。試練は反対物の存在によってなされる。悪徳の試練を受けない美徳は空虚である。美徳を確保するためには、悪徳を知り、かつそれを試してみることが必要である。罪と虚偽の世界を最も安全に偵察する方法は、あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の弁論を聞くことだ。そのためには、良書悪書を問わずあらゆる書物を読まなければならない」
「神が人に理性を与えたときに、選択の自由も与えた。神は彼を自由なままにおき、いつもその目に入るように誘惑物を眼前に置いた。その自由な状態にこそ彼の真価が存する。もし彼の行動がすべて許可され、規定され、強制されたものだったら、どこに彼の美徳の価値があるか。どこに彼の善行の価値があるか。悪の知識なくして、どこに選択の知恵があるか」
いい言論と悪い言論は、人間には区別できない。いい言論にも悪い言論にも同じような存在価値がある。だから言論の自由は無差別に守られる必要がある。これが言論の自由を守る意義の根幹にある真理なのだ。それが裁判所にも、大マスコミにも理解できていないようだ。
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