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あの戦争は何だったのか 杉浦正健
一九九五年は敗戦五十年目の節目の年だった。
海外からは、欧米の各地で開催された戦勝記念式典や真珠湾五十周年祭などの様子が華々しく報道されたし、国内でも記念式典はじめさまざまな行事が例年になく盛大に開催され、国会でも「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」いわゆる国会決議がなされ、各種メディアにおいても過去の戦争がいろいろな角度から大きく取り上げられるなど、節目にふさわしい一年だった。
私は敗戦の年は国民小学校五年生の「軍国少年」だった。あの忌まわしい戦争と敗戦後の五十年を振り返ることは、私の一生を省みることにほぼ等しい。政治の世界での浪人の立場でこの節目の年を迎えるとは、敗戦の当時は夢想すらできなかったことではあるが、一九九五年は、その立場からわが国の今後の五十年、そしてそれから未来へ向かってどうあるべきかに想いを巡らすことと、還暦を迎えた人生の節目の年として過去に思いを馳せることとが重なって、私にとって感無量の一年であった。本稿は、私の人生の節目に当たってのいささかの感慨を、昨年綴ったものである。
一九九七年 三月
杉浦正健
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一.昭和二十年八月十五日
二.あの戦争は何だったのか
三.やくたいもない戦い
四.近代史の流れの中で
五.日清戦争から日本はおかしくなった
六.孫文と勝海舟
七.お上から与えられた明治憲法
八.明治憲法の欠陥
九.神道について
十.共存から共生へ
十一.軍事的鎖国を
十二.「栄光の二十一世紀」をめざして
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一.昭和二十年八月十五日
あの日は、小学校五年生の夏休み最中の、暑い一日だった。前日から、正午に天皇陛下の玉音放送がある、との予告があった。天皇は神であり、陛下のお姿やお声を直接、見聞きすることが考えられなかった時代のことである。重大なことが陛下ご自身から語られる、何事だろう、と世間はざわめき立った。
夏休みに入る直前の六月末、岡崎は大空襲を受けた。夜半すぎ、空襲警報のサイレンでたたき起こされた時には、東の空は真っ赤に燃え上がっていた。郷東の田植えが終わったばかりの水田も火の海だった。降りしきる火のかたまりからわら葺きの家を守るため、村人は大わらわとなった。翌朝、郷東の田んぼは、焼夷弾で、月面のような穴ぼこだらけで、大半の稲が焼け焦げているのに、村人たちは呆然となった。
村の神社の境内は、田んぼから抜き取られ運ばれた焼夷弾の残骸の山が築かれた。初めて目にする正六面体の鋼鉄製弾体の山を前にして、この一群の投下がもう千メートル西へずれたら、集落は丸焼けになったに違いないと背筋が寒くなると同時に、日本中がこのような目に遭っていって、本当にこの戦争が勝てるのか、という疑念が湧き上がるのを、どうしようもなかった。
八月に入って、広島と長崎に大型爆弾が投下され、大きな被害が出たと報道されたが、その頃から、空襲警報がめっきり減ってきたなと感じていた矢先の玉音放送の予告であった。当時は、ラジオのある家は多くはなかった。わが家には、あまり性能はよくないが、ラジオがあったので、隣近所から聞きに来る人もいた。文字通り、初めて耳にする天皇陛下の肉声は、ラジオの性能の悪いこともあって雑音が多く、よく聞き取れなかった。「耐え難きを耐え」とか、「万世のため太平を」とか、きれぎれに耳に入るお言葉の端々から、戦いが終わったと察しられた。両親や祖母ら大人の人々は意外と平静だった。祖母から、戦争は負けに終わったと聞かされた軍国少年は、絶対にこの戦、負けることはないと教えられ信じ込んでいただけに、頭の中が真っ白になったのを、今でも昨日のように想い出す。
二.あの戦争は何だったのか
五十年前の八月十五日、「軍国少年」だった私が、敗戦という現実に直面して感じた素朴な疑問は二つだった。一つは、負けるはずがない、と教え込まれ信じ切ったこの戦いになぜ負けたのだろうかということ、もう一つは、一体この戦いは何だったのかということだった。この疑問は、程度の差はあっても、恐らく当時のすべての人々が感じられたことではないか、と思う。そして五十年、半世紀が経過した今、この五十年を生き抜き還暦という人生の節目を過ぎ、ある意味では成熟した一市民として、そして政治の道を歩んでいる人間として往時を省みると、少年時代に抱いた疑問のうち中核の部分が、なお疑問として根深く心の底に沈澱しているように感じられるのである。
第一の疑問については戦後、さほど時間を要しないで氷解した。圧倒的な物量の差など、彼我の「力」の差は歴然たるものだった。いわば、負けるはずがないどころか、負けるべくして負けた、と言ってもよい。しかし、この疑問が解けると同時に、それではなぜ、このような無謀なとも言える戦いを、負け戦覚悟で敢えて戦ったのか、という疑問が湧き出、第二の疑問に溶け込んでくるのである。
一九九五年一年間、敗戦後五十年の節目に当たって、さまざまな人々が、それぞれの立場で敗戦について語った。メディアでもさまざまな企画が組まれ、国会でも決議をめぐって論戦が闘わされた。国民的に広く論議されたと言ってよい。しかし、それらを振り返ってみると、前述の素朴な疑問について、全国民的なコンセンサスの得られた答えが出されたとは、とうてい言えない。私の抱いた疑問も心の底に深く貼り付いたままである。
私ども日本民族が、未来に向かって大道を歩むに当たって、この点についてしっかりとけじめのついた共通の認識理解を共有し、子供や孫の世代に伝承することが必要であると私は思う。そう思うがゆえに、これから私なりに、私の抱いている疑問について真っ正面から取り組んでみたいと願い、筆を執った次第である。
いわゆる「国会決議」
一九九五年七月、戦後五十年に当たって国会決議が行われた。国会は、国民から選ばれた議員によって構成されているから、その決議は、民意を最も正確に反映しているものと言ってもよいであろう。その決議内容は、前述の私の疑問に答えているものではなく、国民の間にコンセンサスがないことを端的に示しているので、その全文をここに引用することとする。
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歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議
本院は、戦後五十年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。
また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。
我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。
本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。
右決議する。
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この決議のうち、後段の未来指向の部分については、恐らく何人も異論のないところであろう。国際社会の平和、国際協調、人類の共生、いずれをとっても、世界中の人々も心から願っていることであろう。しかし、問題は、その前段であり、過去の戦争においてなぜ、それに反する道をわが国が選択したのかということである。反省の念の表明にしても、それはそれでよいとして、何を歴史の教訓とするのか、その最も大切な、根幹の部分に何ら触れるところがない。
国会決議に至る過程で、各党各派のさまざまな異なる主張がぶつかり合ったことは広く知られている。決議は「歴史観の相違を超え」と入れている通り、いわば妥協の産物である。それはそれとして理解できないことではないが、しかし、それに表徴される国論の分裂は、まことに不幸としか言いようがない。このような状態のままでは未来への道筋の中で、再び同じような過ちを繰り返すのではないか、という危惧の念をぬぐい切ることができないのは私だけではないであろう。
三.やくたいもない戦い
敗戦直後のわが国は、文字通り「国破れて山河あり」の状態だった。大都市のみならず中小の都市・町に至るまで焼け野原で、軍需工場だけでなく生産設備はほぼ壊滅した。膨大な数の生命が失われた。軍人、軍属として異国の地に果てた方々だけでも二百万を超え、空襲や原爆、はたまた民間人で海外などの戦闘に巻き込まれた死者は数百万人に達するであろう。その数を上回る人々が傷つき、空爆や海外に残して引揚げを強いられたため、数千万の人々が家財や職を失い丸裸同然となった。これらの人的・物的な犠牲は、価額換算は不可能であるが天文学的数字に達するであろう。その結果が敗戦という厳しい現実である。あの戦争は、まことに、やくたいもない戦い、であった。
あの戦争は、わが国家・国民にとってのみ、やくたいもない戦いであったわけではない。「併合」によってわが国民の一部とされていた朝鮮半島や台湾の人々は、本土の我々と同様の犠牲を強いられたし、戦争の当事者となった米英をはじめとする連合国側の人的・物的損害もおびただしかった。とりわけ、あの戦争の主戦場となった中国、フィリピンはじめ東南アジアの国々、人々の蒙った犠牲は、わが国をはじめとする戦争当事者のそれの数倍に達するであろう。戦争の原因に無辜であるこれらの国民や、そのふるさとに与えた軍靴のつめ跡は深甚であり、未だに癒えるところではない。まことにあの戦争は、戦勝国という地位を別とすれば、彼らにとっても、やくたいもない戦いであった。
あの戦争が敗戦に終わって五十年の歳月が経過した今、あの戦争は文字通り歴史の一部となっている。あの戦争が何だったのか、という設問は、わが国の長い歴史の中で、あの戦争がどのように評価され位置付けられるのか、と言い換えてもよい。わが国民一人一人の答えは、千差万別でありうるが、ひっきょう、それは個々人の歴史観によって異なる、と言ってもよい。
しかし、あの戦争は、わが国の歴史の連続性の中で捉えた場合、どのような歴史観に立脚しようとも、あの戦争への道の選択が正しかった、という結論にはならないのではないか、と今は私は思う。先に引用した、一九九五年のいわゆる「国会決議」中に、「過去の戦争についての歴史観の相違を超え・・・」とあるのが、それを雄弁に示している。私は、今は、あの戦争は、あの戦争への道を選択したのは間違いだった、誤っていた、と思わざるをえない。理由は、単純化すれば、あのようなやくたいもない戦争を選択し、遂行するという選択は、わが国の歴史、その精神的文化的伝統の線上からは、どのように考えても出てこないということである。
わが国有史上、あの戦争を除くと海を超えて軍兵を派遣したのは、神功皇后と豊臣秀吉による二度だけである。いずれの場合も短期間で失敗に終わり、戦況不利とみるや機敏に撤兵し、損失を最小限にとどめている。双方ともに、あの戦争のようなやくたいもない、という評価はされていない。国内では有史以来、争乱が絶えなかったが、その中から武士が誕生し、そこに発達した武士道精神が日本民族の精神的支柱の一つとなっている。しかし、私なりに武士道の心を尋ねてみて、そこからは、あのようなやくたいもない戦いをするという根拠は、いささかも生まれてこない、と言わざるをえない。
わがふるさとの生んだ戦国の雄、徳川家康だったら、どのように処しただろうかと考えてみれば、明白に否である。家康は、負けることが明らかな戦いはしなかった。周到に調査し政略をめぐらし、勝てる、少なくとも負けないという確固たる見通しを得てから戦いに臨むのが常であった。ただ一つの例外は三方ヶ原での武田軍との敗戦であるが、それも、浜松城に強固な後衛軍を配備して敗軍を収拾し、武田軍に城攻めを許さない用心を怠らなかった。戦いに際しては、戦闘能力の損耗を最少にとどめるよう常に留意し、打ち破った敵軍の人材は無為に殺傷せず、捕らえて味方に加える努力を尽くしたことは、よく知られている。武将にとって軍兵は宝であるから、無益な戦いや無用の兵力・民力の消耗を避けるのは戦国武将にとって当然の原則であった。家臣団や版図を守るため、和議を図り敵に降り、その際、主君の首を敵に差し出すことすら稀ではなかった。
戦国の武将たちでなく、仮に明治の軍人の鑑とされた乃木希典や東郷平八郎であったらどうか、と想いをめぐらしても、答えは明らかに同じである、と思料される。負けるべくして負けたと言わざるをえない、無謀なやくたいもない戦いを敢行した愚かな選択をした、歴史的な原則・精神・文化的伝統は、少なくとも明治の初期まではなかったと言わざるをえない。
四.近代史の流れの中で
あの戦争が何だったのかを省察するのに、歴史的な視点が欠かせないのは言うまでもない。あの戦争への道を選択したのが誤りであるとすれば、それに至る歴史の流れの中に多くの誤りが積み重ねられていたはずであるからである。あの戦争は、その最後の四年間が第二次世界大戦と称せられている通り、全世界を巻き込んだ戦争であった。従って、世界の近代の歴史の中で捉えられる必要があることも言をまたない。
世界の近代史を社会・経済の面から要約すると、欧州で資本主義経済が生まれ、発達し、世界
中に広がった時代、と言える。それに先立つ、スペイン、ポルトガルの大航海時代に始まった植民と植民地経営は、十八世紀後半にイギリスで起こった産業革命によって加速された。飛躍した生産力を維持拡大するための、原料と製品市場の確保という要請が加わったためである。世界貿易・植民の覇者は、ポルトガルからスペイン、イギリスと変わり、植民地拡大競争には、オランダ、ベルギー、フランスなども加わって激化の一途を辿った。十八世紀後半にはイギリスの植民地だったアメリカが独立するが、それも競争に加わり、十六世紀から二十世紀初頭にかけては、ニューフロンティア・植民地獲得に欧米列強が血道を上げた時代、と言い換えてもよい。その結果、アジア、アフリカ、中南米など欧州以外の地域のほとんどが植民地となってしまった。
政治面から言うと、この時期は、「君主」から「民主」への移行の時期と要約される。自由、平等、博愛が精神的支柱として、新しい時代の旗印として高く掲げられた。後に、二十世紀初頭にはロシア革命が起こり、共産主義が周辺に拡大して行き、そして崩壊するに至るが、それも「平等」の徹底を目指した、資本主義世界経済へのアンチテーゼとしての、七十年間にわたる壮大な実験として位置づけすることができると思われる。
わが国は、この近代史の流れの中で、十九世紀半ばまでは孤立した位置を保った。戦国時代の長い国内の争乱の末に成立した徳川幕府の鎖国政策によって、世界の歴史の流れから、二五〇年にわたってほぼ遮断されていた。列強の動向のみならず、それ以前は深い交流のあったアジア地域とも交わりを断ち、わが国が地理的に極東の避遠の地に位置したことも幸いして、中国、インドはじめアジア各地がおしなべて欧米列強の植民地化していった歴史の中でも、独立を保ち続けられた。そのわが国が、十九世紀半ば過ぎに至って、ペリー艦隊の来航に始まる外圧によって開国から明治維新と、一気に国際社会の激流にさらされることとなる。
江戸幕府にとって代わった明治政府は、「文明開化」「富国強兵」を旗印として、国の「近代化」を目指して驀進した。あの戦争に至る半世紀余の道程は、遮二無二、その目標に向かって突き進んだ、の一語に尽きると言ってもよい。わが国は、「近代化」に驚異的な成功を収め、経済力は躍進し、二十世紀初頭には「強兵」においても欧米列強に並ぶまでに至る。
しかし、その成功が因となって、当時、欧米列強が全地球上で鎬を削っていた、市場・植民地獲得競争にわが国が後発国として参入するという結果を招いた。そして、その結果の延長線上で、わが国の「近代化」の活力がその版図を超え、あの戦争に連なっていったのは誠に無念としか言いようがない。
あの戦争は、欧米列強との戦いであり、自己の存立を護るための正当なものである、と論ずる向きもある。確かに、あの戦争の最後の四年間は、わが国と独・伊の、いわば資本主義後発組が同盟して、欧米列強のいわば先発組と戦ったわけで、その側面がないわけではない。また、あの戦争は、植民地化していたアジア解放の戦いであった、と強弁する者もいる。しかし、このいずれも、朝鮮半島を併合し、満・蒙に覇権を求め、口実を設けて中国大陸から仏印(仏領インドシナ)にまで兵を進めたことを、どう説明するのであろうか。朝鮮半島や中国大陸をはじめ、わが軍兵の兵靴の及んだ地域の人々は決して認めないであろう。
わが国の「近代化」の道筋が、なぜ、その版図の内における近代化に集中できなかったのか。なぜ、欧米列強の悪しき競争から、孤高の地位を保ち、和して同じない路線を貫けなかったのか。植民地化し、苦悩するアジアの人々と連帯して、その解放と発展に尽くす道を、なぜとれなかったのか。具眼の士がいなかったわけでもないのに、また、あの戦争に至るまでの間に、何度となく最悪の事態を回避する機会があったのに、残念無念としか言いようがない。
五.日清戦争から日本はおかしくなった
私は、昭和九年生まれなので、物心のついた頃は「大東亜戦争」突入の前夜であり、世情は戦争一色、今から省みると、わが国社会全体が狂熱に浮かされたようであった。この状態は、昭和十六年十二月八日の開戦と共に最高潮に達し、昭和二十年八月十五日の敗戦まで続く。敗戦の年は、私は小学校五年生、私の前後の世代、当時の若者たちの人生の目標は例外なく軍人、「聖戦」に参加し、天皇陛下のために死ぬことが至高の生涯であると教えられ、幼心に確信にまで高揚していた。私も、行く行くは陸士か海兵へと、勉学に身体の鍛錬に励んだ、いっぱしの「軍国少年」だった。
その間、私の幼い心に映った世間一般の大人たちの心の姿は、今にして思えば滑稽ですらあった。日本は神国であり、天皇は神として君臨し、国民は臣民として神に仕える存在だった。日本民族は神の子であって、他の民族に優越し、米英らは神国に刃向かう「鬼畜」であった。この戦いは「聖戦」であって「八紘一宇」をめざすと、正当化された。
この当時、日本人はアジアの人々を見下していた。中国兵をチャンコロと言い、朝鮮人をチョウセンピーと言ってさげすんだ。大東亜共栄圏という目標も、あくまでも日本が盟主であって、東亜の諸民族は、「五族協和」とか美名を用いながらも、その実質は日本民族に従属するというのが、その中身であった。わが国の有史上、卑弥呼の時代から二千年余、仏教、儒教などの精神文化、律令制など社会法律制度、各種産業技術に至るまで、計り知れない恵みをもたらしてくれた、偉大なる中国・朝鮮半島の人々に対してとりうる態度ではありえない。
明治維新以来、日本人がめざした優れた西洋文明を担う人々に対して、いかに戦争に勝つためとはいえ、「鬼畜」と言って民族的敵意をあおり立てたことも、およそ常軌を逸している。欧米に対する劣等感と、アジアに対する優越感がないまぜになった、一種形容し難い異常な精神状態が、当時の日本人全体を覆い尽くしていた。これを精神的頽廃といわないで、何をかいわんや、と言って過言ではないであろう。
先日亡くなった司馬遼太郎氏は、その著述『この国のかたち』の中で、終戦の放送を聞いた時、「なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。(むかしはそうではなかったのではないか)とおもったりした。」(Iの二一二頁)と書いている。彼の言うむかしとは、明治時代の前半までのようである。同じ著書の中で、昭和ヒトケタから敗戦までの十数年について、「あんな時代は日本ではない、と灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動がある。」(Iの三六頁)という。昭和の軍人たちは、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやってのけた、と氏は嘆く。心底から深く共感する指摘である。
司馬氏は、日本国と日本人を調子狂いにさせたのは、日露戦争の勝利だ、という。日露戦争が勝利に終わり、明治四十一年に関係法令が改正されて、参謀本部が内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関となり、やがて「統帥権」という超憲法的思想を持つことにつながっていった点をとらえてである。日韓併合はその二年後のことである。この指摘は鋭い。
しかし、私は、その序曲として、日清戦争(明治二十七年)とその勝利が、そのきっかけではなかったか、と考えている。日清戦争に先立って、治外法権の撤廃に成功し、欧米の植民地的状態から脱却するが、日清戦争勝利の結果、日本は清国から、遼東半島(これは後に三国干渉で返還する)と台湾を譲り受けるとともに、三億一千万円もの巨額の賠償金を獲得した。この金額は、当時の明治政府の歳入の二年半分に当たる。
日清戦争後の日本について、現在の中学生用のある社会科教科書は次のように記述している。
「日本は条約改正と日清戦争の勝利によって、欧米諸国への従属から脱して、名実ともに独立国となった。しかし、それと同時に台湾を領土とし、台湾の対岸地域と朝鮮とを勢力範囲におさめ、欧米列国のアジア侵略に加わる足がかりをつくった。日本の国民は、中国も破ったことで独立国としての自信を強めるとともに、中国人をさげすみ、朝鮮を属国とする優越感を持ち始めた。そして、三国干渉を知ると、新聞などで、国民の生活を犠牲にしてでも軍備を強めようとする主張がさかんに唱えられた。政府は賠償金のほとんどを軍備の強化に注いだ。」(東京書籍「新しい社会・歴史」)。わが国は、巨額の賠償金で軍備を強化し、「軍国日本」へのスタートを切ったのである。
六.孫文と勝海舟
日清戦争後のわが国の歩みの変調について警鐘を鳴らしていた人の中に、勝海舟と孫文がいる。
勝海舟は、その『氷川清話』(日清戦争直後の明治三十年頃、初刊とされる。角川文庫版)で、日清戦争の勝利に湧き、中国人を見下し始めた日本人に向かって、口を極めて警告を繰り返している。そのさわりの部分を引用しよう。
「シナは大国、シナは大国民」
シナは、さすがに大国だ。その国民に一種気長く大きな所があるのは、なかなか短気な日本人などは及ばないよ。たとえば日清戦争の時分に、丁汝昌が、死に処して従容迫らなかったことなどは実にシナ人の美風だ。(略)こないだの(日清)戦争には、うまく勝ったけれども、かれこれの長所短所を考え合わしてみると、おれは将来のことを案じるよ。(前掲二六六頁)
「シナ人のスケールの大きさ」
シナ人は、一体気分が大きい。日本では戦争に勝ったといって、大騒ぎをやったけれども、シナ人は、天子が代わろうが、戦争に負けようが、ほとんど馬耳東風で、はあ天子が代わったのか、はあ日本が勝ったのか、などいって平気でいる。(略)ともあれ、日本人はあまり戦争に勝ったなどといばっていると、あとで大変な目にあうよ。剣や鉄砲の戦争には勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるよ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とてもシナ人には及ばないだろうと思うと、おれはひそかに心配するよ。」(前掲一九一頁)
「シナを認識せよ」
シナをこらすのは、日本のために不利益であった、ということは (略)最初からわかっていたことだ。(略)シナは、ドイツやロシアにいじめられて、早晩滅亡するなどというものがあるけれど、そんなことはけっしてない。膠州湾や、三沙渙くらいの所は、おれの庭のすみにある掃きだめほどにも思っていないだろう。(略)ドイツが膠州湾を占領したといっても、シナ人は、日本人と違って少しも騒がないよ。永くひっぱっておいて、あとで償金でも払わせるであろう。上海でも、シンガポールでも、香港でも、実力は皆シナ人の手の中にあるのだから、ドイツが少々騒いだくらいのことには、なかなか驚かないのさ。(前掲二〇五頁)
勝海舟の、この視野の広さ、そのスケールの大きさ、大局観の確かさは当時のものとしては感嘆に値する。その後の日本の歩みは、まさに彼の心配した通りとなったのである。
孫文が大正十四年、その死の数ヶ月前、日本人への遺言ともいうべき有名な演説をしていることは、よく知られている。ところは、県立神戸高等女学校の講堂、主催者は神戸商工会議所や新聞三社で、聴衆は二千を超えた。題して「大アジア主義」。人口に膾炙しているのは、その結語である。「あなた方日本民族は、西方覇道の手先となるか、それとも東方王道の于城になるか。それは日本国民が慎重におえらびになればよいことです。」
明治時代、中国(当時は清国)からわが国へ多数の留学生がやって来た。その数は、通算すると、一万を超えた、といわれる。明治時代は、清朝の末期である。清朝は、その末期、英国はじめ欧米列強の言いなりになり、多くの土地を割き、利権を渡し、半植民地化した。彼ら留学生たちは、そのほとんどが留学中に革命の気概に燃え、そして帰国して倒清=革命運動に加わった。孫文もその一人であるが、明治三十五年以後、日本を根拠地の一つとして活動するようになって、その名を知られるようになる。江戸の封建時代から開国、そして、中央集権国家体制を確立して近代化に向けて驀進した明治のわが国は、彼ら清国人をして、何か学ぶところのある魅力を具えていたようである。孫文は、先に引用したその演説の中で、「三十年以前は、日本はヨーロッパの一植民地だったが(略)あらゆる不平等条約を廃棄して、アジアではじめての独立国家となった」と述べているが、三十年以前というのは日清戦争前のことであるから、半植民地的状態から脱するのが至上命題であった彼らにとって、いち早くそれを成し遂げ、文明開化に進む日本が、彼らの進むべき道への模範の一つと映ったのであろうか。孫文の演説は、聴衆が日本人であることに心を配り、「日本の独立」直後の日清戦争にも、その後の対華二十一カ条の強要についても触れていないが、前述の結語が、彼や、中国留学生たちの日本の進路についての憂いを集約したのであろう。
その後の日本がどうなったかについては、言うまでもない。