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明治新政府は明治憲法の基本理念とされた天皇崇拝の精神的基盤を固めるために、天皇を神格化(現人神・あらひとがみ・living god)することを考えた。即ち、江戸後期の国学者、平田篤胤(1776〜1843)が創設した、儒仏2教を排斥し国学を極端な国粋主義にまで発展させた「平田神道」を日本国民の思想の根幹に置くべきであると考えた。そして、天皇の神格の根拠としての神道(神社)に対して、国教的性格を与えることが必要であると考え、「平田神道」を土台として、国家神道を成立せしめた。つまり神道(神社)国教制が確立されるに至った。明治新政府は、祭政一致(政教一致)を布告し、特権として神社には公法人の地位を、神職には官公吏の地位を与えた。そして、国家神道の体制を固め、仏教その他の宗教は神道の下に従属することとなった。
終戦に至るまで、神社は国教的地位を保持し、その間に制定された、治安維持法、宗教団体法、警察犯処罰令のもとで、大本教・創価教育学会(現在の創価学会)・日本キリスト教団・ひとのみち教団(現在のPL教団)・法華教等多くの教団は、国家神道の体制に反するとして徹底的に弾圧され、志を枉げない高潔な教祖の中には獄死する者が続出した。その結果、戦前・戦中に於いては、戦後の日本国民には到底理解出来ない位の、物凄い言論統制、思想統制が行なわれる結果を招来した。政党も1940(昭和15)年には大政翼賛会(総裁は総理大臣)として統合され、議会政治は事実上その機能を喪失した。日本共産党は特高警察により、地下活動さえ出来ない壊滅状態にまで弾圧された。
如かして、神権天皇主義を国体の根本義とし、富国強兵策と神道(神社)国教制を車の両輪としての義務教育を徹底して実施した結果、薬が効き過ぎて、太平洋戦争開始前には、澎湃として興った国家主義・軍国主義・ファシズムは、政府・軍部をはじめとして、何人たりとも押さえる事ができないエネルギーに迄高まってしまった。マスコミも挙って、鬼畜米英撃ちてし止まんと書き立てて戦意高揚に協力させられた。当時の日本で戦争反対を唱える事は、とりも直さず、一家眷族が抹殺される事を意味した。
教育による洗脳・マインドコントロールの怖さを思い起こすと共に、人間が如何に心理的に弱い面を持っているかの証左とも見る事が出来る。そして遂には、神国日本・神州不滅のかけ声のもとに、現人神(あらひとがみ・living god)である天皇を頂点に戴く選民である日本民族は、他の民族に優越した民族であり、地球(世界)を支配すべき使命を持つという、八紘一宇(はっこういちう)を夢見る狂信的な神国主義が日本を戦争に駆り立て、近隣諸国に大いなる迷惑をかける結果を招来した。
この狂信的な神国主義が日本を支配するのに、神道(神社)国教制が大きく寄与したと言う歴史的な事実に鑑みて、信教の自由の保障については格別の配慮が必要とされるのは当然のことである。如かして、信教の自由の保障を完全なものにするためには、国家と宗教とを絶縁させる必要がある。国家が全ての宗教に対して中立的立場に立ち、宗教を全くの「わたくしごと」にする必要がある。これが、国家の非宗教性または政教分離と呼ばれる原理である。
政教分離の目的の第一は、憲法20条(信教の自由)は、政教の分離なくしては完全に確保する事が不可能である事に在る。国家がある特定の宗教を特に優遇することは、それだけそれ以外の宗教の自由を押さえる結果になるし、国家が全ての宗教をひとしく優遇することも、国家がそれだけ無宗教の自由を押さえる結果になる。更に、信教の自由が守られないと、憲法19条(思想及び良心の自由)、憲法21条(集会・結社・表現の自由・通信の秘密)も侵される事になる。
政教分離の目的の第二は、国家と宗教との結合により、国家を破壊し、宗教を堕落せしめる危険を防止する事に在る。宗教は世俗的な国家権力の介入を許す事の出来ない程、余りにも個人的であり、神聖であり、且つ至純なものであるが故に、国家が特定の宗教を国教として定めると、宗教的迫害が必然的に発生するという過去の歴史上の教訓を具現したものである。
因みに、今日、中東和平が実現困難である原因の一つは、政教が一致している嫌いがある為に他ならない。
誤解を招かないように付言すると、「政教分離」の規定は、宗教を厚く保護する規定である。宗教教育の禁止は、公立学校そのほか公立の営造物に対してのみ適用される。教育基本法(9条1項)も「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」と定めている。従って、特定の宗教のための宗教教育・宗教活動を禁止しているのであって、子供に対して、道徳教育の基盤として、宗教を学問的に研究して教える事は学問の自由(憲法23条)に含まれ、憲法の保障するところである。なお、私立学校による宗教教育や家庭における宗教教育については、「政教分離」の適用はなく、道徳教育の基盤として、推奨されるべきである事は論を俟たない。
以上、日本国憲法20条並びに89条の立法趣旨を述べたわけであるが、以上の理由により今日では神道(神社)は、キリスト教や仏教と並んで一つの私的な宗教であるから、総理・閣僚等の靖国神社への公式参拝は憲法20条3項所定の宗教活動に該当するので、国家が特定の宗教に肩入れする事になり違憲であり、更にその際における玉串料等の名目での公金の支出は憲法20条3項並びに89条に違反するので違憲である事は明白である。
ここに、角度を変えて付言すると、靖国神社は大日本帝国の戦争を美化し正当化するための装置でったと見ることが出来る。そして、靖国神社は「天皇の国家」のために死んだ人を祭っておるのであるから、日本の首相の参拝に対して、侵略された中国や韓国が苦情を言うのは当然のことと思料される。米国のメディアであるワシントン・ポスト紙は、靖国神社を「戦争神社」と伝えている、誠に正鵠を射た表現と苦笑せざるを得ない。
これらの行為は、あくまで「私的行為」としてのみ許されるものである事を、吾人は認識する必要がある。「千丈の堤も蟻の穴から崩れる」の例えのとおり、政教分離に対する軽微な侵害が、やがては思想・良心・信仰といった精神的自由に対する重大な侵害になる事を怖れなければならない。これ等についての裁判の判例は動揺しているが、憲法99条の趣旨からも毅然たる判断を裁判官に期待する所以である。なお、国の政治に携わる者はいわゆる「李下に冠を正さず」の姿勢を忘れてはならない。
ここに、祖国のために命を捧げた数多の靖国の英霊のおかげで、今日の日本があるのであるから、日本人たる者は上京その他の機会をとらえて、靖国神社への参拝は大いになすべきであることは条理上言う迄もないことである。日本国民が「私人」として参拝して、護国の英霊に感謝の気持ちを捧げる事は当然の行為であり、何人たりと言えども、何等の制約をも受けるものでは無い事は論を俟たない。
勝てば官軍負ければ賊軍であることは、歴史の示すところである。勝敗に関係なく、戦争そのものが人類の犯した大きな過ちであるから、茶番劇である極東国際軍事裁判(東京裁判)に基づく、「戦犯」「戦争犯罪者」等の用語は21世紀には使用されるべきではない。敢えて言えば「戦争責任者」の用語を用いるべきである。
今日の日本の平和と繁栄は、戦争の被害者である戦没者の犠牲の上にあるのであるから、終戦記念日に政府主催の全国戦没者追悼式に、総理・閣僚が公式参拝をして、戦争廃絶を誓い且つ祈念する事は当然の行為であり、悦ばしい限りであるが、更に一歩進めて、「特定宗教と関係のない、戦没者慰霊の為の国営墓地」を建設して、国家挙げて世界の恒久平和を祈念することは、正に戦没者の霊に報いることになるし、神道と結びついた軍国主義日本の復活を懸念する近隣諸国の心配を払拭することにもなる。よって、早急な国営墓地建設が望まれる所以である。
なお、国営墓地における慰霊の対象は、軍人・軍属のみならず、広く民間人・外国人にまで範囲を拡大するべきである。かくすることが、世界の恒久平和を祈念する21世紀の日本の姿勢を世界に顕示することになり、世界平和への途に繋がるものである。吾人は「慰霊の原点は敵味方を区別しない寛容さに在る。」ことを忘れてはならない。
因みに、太平洋戦争の最高戦争責任者は、日本では昭和天皇(1901〜1989)であり、米国ではフランクリン・D・ルーズベルト米国大統領(1882〜1945)並びに、広島・長崎に原子爆弾を投下した、トルーマン大統領(1884〜1972)であることは自明の理である。敢えて昭和天皇とルーズベルト大統領との責任を比較すれば、太平洋戦争開始前に、澎湃として興った国家主義・軍国主義・ファシズムは、政府・軍部をはじめとして、何人たりとも押さえる事ができないエネルギーに迄高まってしまった当時の状況下における昭和天皇の立場と、米国民の大半が当時は参戦反対の立場を執っていたにも拘わらず、多数の米国民を犠牲にしてまで、日本の真珠湾奇襲を事前に了知していながら秘匿且つ受忍して、米国民を参戦に奮い立たせた、ルーズベルト大統領の立場との違いである。
更に、太平洋戦争における米英中ソ蘭などの戦勝国(連合国)側から見た場合の、靖国神社のA級戦争責任者は、日本側から見た場合は、日本が勝っておれば英雄に他ならない。日本が勝っておれば、ルーズベルト大統領並びにトルーマン大統領が米国の最高戦争責任者であり、ダグラス・マッカーサー元帥(1880〜1964)がA級戦争責任者であった。例えば、幼少時から陸軍士官学校在校中にかけて軍国主義を叩きこまれた、戦時中の東条英機首相(1884〜1948)は、彼なりに日本を心から愛し、天皇のため即ち日本国民のために、全身全霊を尽くして努力した人物である。そして、結果的には、祖国日本を防衛するためには、開戦を決意せざるを得なかったものと評価出来る。然しながら、戦勝国である中国側から見れば、侵略の元凶に他ならない。つまり、いつまでも偏狭な祖国愛だけで21世紀の政治問題に対処するならば、世界平和への途は開けないということである。
世界に誇るべき平和憲法である、日本国憲法を戴く日本国民は、国際政治の現実は戦争の歴史であったという、過去に犯した人類の大きな過ちを深く反省して、21世紀の世界平和の先達として、戦争の無い平和な世界を築くべく、最大限の積極的な外交上の努力をなすべき使命を自覚して、今こそ奮起すべきときである。かくすることが、真に戦没者の霊に報いる事になるという真理に、日本国民は目覚めざる可からず。
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