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【社会主義とは何だったのか】下
市場・計画・自主管理は人類の社会的遺産
東京国際大学教授 岩田昌征さんに聞く
http://www.bund.org/interview/20050405-1.htm
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いわた まさゆき
1938年生まれ。東京大学卒業後ユーゴスラヴィアに留学。以降30年以上にわたって現地をたびたび訪れ、社会主義の建設と崩壊に関する独自の考察を続けている。現在、東京国際大学経済学部教授。『社会主義崩壊から多民族戦争へ』『現代社会主義 形成と崩壊の論理』『ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像』など著書多数。
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社会は市場だけでは成立しない
――経済システムとしての社会主義は、どうして失敗したのでしょうか。
★私はそれをトリアーデ体系論というかたちで総括しています。カール・ポランテの説くように交換、再分配、互酬というトリアーデ体系の3つの要素は、数千年にわたる前近代社会=伝統的社会を通して人類が潜在的に保有していた3種の「社会的遺伝子」であり、社会的統合の3つのパターンなのです。
社会主義体制は、近代資本主義体制批判の政治経済体制として誕生しました。資本主義というのは、〈交換〉の機構化である市場メカニズムによって経済社会が運営されているシステムです。その近代資本主義を否定して誕生した社会主義体制は、ソ連のように〈再分配〉の発展形である計画メカニズム(集権制社会主義)をとるにしろ、あるいはユーゴのように〈互酬〉に起源をたどれる協議ネットワーク(自主管理社会主義)をとるにしろ、いずれにしても交換・市場メカニズムの克服を志向する政治経済体制になる以外ありませんでした。
しかし、交換であれ、再分配であれ、互酬であれ、どれか一つだけで経済社会を運営するのは無理なのです。例えば、資本主義社会では交換が第一ですが、「100%市場だけ」に近付くとなると、資本主義社会は非常に「生きにくい」社会になります。市場での競争に敗れた者は、生きていくことができない。一方、計画過剰の社会、自主管理的協議過剰の社会は、実際のところ市場過剰の社会よりも不合理な社会でした。経済的利害の調整不足や勤労意欲の減退に悩み抜きました。20世紀の社会主義体制が崩壊した所以です。
資本主義の勝利=交換と市場の相対的勝利を正直に認めた上で、再分配や互酬の論理で、「市場の暴走」を制御していくのが、これからの社会運動の課題だと思いますね。
マーケット主義は、マーケットで処理できないもの、すなわち社会に必要がないものと見なしがちです。果たしてそうでしょうか。「マーケットだけではできないこと」はいくらでもあります。私はこの問題を「実文化と純文化」の関係として『現代社会主義の新地平』(1983年、日本評論社)で論じました。詳しくは同書を参照願いたいのですが、実文化というのは衣・食・住等、実生活に関わる人間的活動、純文化というのは純粋芸術、純粋数学、純粋人文学などの人間的活動です。どんな社会でも、実文化と純文化がともに存在し、実文化が純文化を支えるという形をとります。富の流れという点では、一方通行です。
近代社会以前は身分制社会でしたから、実文化から純文化への「一方通行の富の移動」は、支配権力の強制力によって行われていました。身分的に上位の階級が下位階級を収奪して、その収奪した富を純文化に使えばいいだけの話です。
近代市民社会はそうした「身分制度」を否定しました。もはや身分制度による富の収奪は許されない。しかし、身分制度が壊れたからといって、実文化と純文化の差がなくなるわけではありません。実文化と純文化の関係も、市場メカニズムによって処理されなければならない。そうするとどうなるでしょうか。
実文化内部と純文化内部では商品交換が行われますが、実文化と純文化の間では商品交換は行われません。実文化人にとって、純文化財なんて生活にどうしても必要なものではないからです。純文化人も、純文化財を食べて生きていくわけにはいきません。実文化に依存する以外ない。交換を原理とするマーケットに任せているかぎり、純文化の発達は衰え、維持さえも困難になってしまいます。
そこで登場するのが「国家」です。近代国家は、まず実文化人からある税率で所得税を徴収し、それを財源として純文化財をマーケットで買い、純文化人はこうして稼得した所得で実文化財を買い、また同じ税率で国家へ税金を支払います。実文化人は純文化人が実文化財を買ってくれなければ、税金を支払えないということになります。こうして、全市民が実文化人であれ、純文化人であれ、自己の生産物をマーケットで売って所得を獲得し、納税義務を果たします。市場における自由と国家の前の平等が実現されます。
身分制度を否定した近代資本主義は、「実文化から純文化へ」という、エッセンシャル(本質的)なワン・フロー(一方通行)の富の移動を、社会の前面にそのまま表出するわけにはいきません。だから国家財政というノン・マーケットの制度を導入することで、実文化に従事する人も、純文化にたずさわる人も、等しくマーケットで稼いでいるというリアルな「仮象」を演出するわけですね。
自由・マーケット原理主義なんて、最初から成り立たないのです。それは、いわゆる「夜警国家」といったレベルの話ではないし、「マーケット取引を保証する国家秩序の確立」というレベルの話でもありません。「実文化と純文化」という、どんな社会でもある人間の基本的な社会的活動の関係を維持・発展させることがマーケット論理の本性上それだけでは実現できないのです。
すべてを協議で決めようとした旧ユーゴ
平等・計画メカニズムでは、そもそも「自由な取り引き」なんて存在しません。国家計画当局が、実文化にも純文化にも、同様に「××を○○単位生産せよ」と事前的指令を出し、事後的報告を受けるだけです。実文化財は物資集積所に納められ、それがまた国家計画当局によって再分配されていく。純文化財は博物館や図書館に納められ、無料で市民に提供されるというだけです。
実文化から純文化への実文化財の移動に関して、国家の機能(計画当局)だけで、論理上処理が可能です。不効率だとか非能率だとか、あるいは純文化の内的発展の阻害だとか、実際上様々な不具合は生じるわけですが。
友愛・協議システムの場合はどうでしょうか。私のトリアーデ体系論の「第三系列」ですね。協議システムでは、生産と分配は「指令」ではなく「協議」によって決定されます。ユーゴの場合は、純文化に関する「SIZ(自主管理利益共同体)」に結集した実文化代表委員と純文化代表委員による協議によって処理されることになっておりました。そうしたシステムが本当に十何年か何十年か続いたのです。
ユーゴの自主管理社会主義はアンチ官僚主義ですから、国家といった官僚機構を否定します。しかし、ユーゴ共産党(共産主義者同盟)による制度デザイン上のイニシアティブは強力でした。ユーゴでは、実文化と純文化の間に、自主管理利益共同体が必ず設置されました。設置するのが義務だったのです。
――それがユーゴ共産主義者の「デザイン」だったわけですね。
★そうです。ユーゴのコミュニストが創造した社会的デザインの一つです。 自主管理利益共同体には、実文化に従事する労働者の代表が「生産者委員」「資金提供者議員」として、純文化の代表も「資金利用者委員」として参加します。純文化人は、「どういう理由で自分たちの純粋文化が社会に必要なのか」と実文化人を説得しなければならない。一方、実文化人は純文化人の説明を聞かなければならない。「自分たちの生活水準はこうこうで、経済的余力はこのぐらいだから、セルビア中世史の研究にはいくらぐらい提供できる」と、領域ごとに全部協議していくのです。マーケットを介するわけでも、国家が介入するわけでもありません。だから大変なのです。
社会の富を作った労働者達が、その富の最終的な使われ方を知る必要があるというわけです。これは、ある意味、「情報公開法」等々の精神と同じですね。それを徹底したものです。今の日本でも、映画制作などでは制作委員会方式とか、ある程度これに近いことが行われています。ユーゴの場合、純文化ばかりでなく、高速道路建設から健康保険まで、何から何までSIZの協議により決めようといたしました。
ユーゴの自主管理社会主義は失敗しました。失敗したけれど、協議システムじたいを全面的に否定してしまうのは間違っていると思います。その過剰は否定さるべきですが、部分的社会的システムとして生かす道を模索するべきです。
実文化と純文化の再生産
人間社会は、太古の昔から純文化を育んできました。生きていくためだけなら実文化だけあればいいのに、純文化を創造し、純文化の専門家まで生み出してきました。それはなぜなのでしょうか。いつの時代でも実文化が純文化を一方的に支えるという「富の関係」は不変でした。
実文化は実文化の世界だけで発展する、という考え方があります。俗悪な資本家根性や素朴な労働者主義・生産者主義には、「実文化だけで社会は発展できる。純文化なんていらない」と学者や芸術家を排除する傾向がありました。しかし、そうした態度や政策は長続きしなかった。一方、純文化も純文化の世界だけで完結し発展していくと考え、実文化人を見下す潮流もありました。芸術至上主義とかはそうですね。
しかし、よく考えてみると、今日の実文化の中には、かつては純文化だったものがかなりあります。かつての純文化が、現在の実文化になっている。たとえば、ブラック・ショールズ公式というものが、現在、金融工学でよく使われています。伊藤清先生という京都大学の純粋数学中の純粋数学の人が、全く純粋に考え出した確率微分方程式理論が、現在の金融ビジネスの必須ツールとなっているわけです。
アルミニウムもそうですね。19世紀にアルミニウムが造られた時には、別に実用のためではなかった。ところがその後、軽く丈夫な金属だということで、いつの間にか実文化の重要素材になっています。こうした例は枚挙にいとまがありません。現今の純文化も、将来の実文化になるかもしれない。それが分かっているから、将来の実文化のために現在の純文化に投資しているという側面もあるわけです。
もう一つ別の側面も考えられます。考古学はどうでしょうか。考古学博物館に展示してあるものの圧倒的多数は、かつて実文化財だったわけです。それが実文化の役割を果たし終えて、考古学博物館に並んでいる。石器もそうですし、焼き物もそうです。あるいは蒸気機関車だって今は、税金まで投入して純文化として守っている。
考古学や伝統文化は、現在の実文化に有用かどうかという立場からすれば、なんのメリットもありません。一般大衆は、「古代のロマン」の発掘現場で日当を得て楽しく働きますが、「古代のロマン」のために考古学者にお金を払ったりしません。現代社会ではそれは、税金で行われているわけです。
今の純文化の多くは、かつては実文化でした。以前の純文化が実文化になっただけでなくて、以前の実文化が純文化として今に生きている。今の実文化も役割を果たし無用化した後は、将来純文化として保存されることになるでしょう。私はこれを「お墓効果」と呼んでいます。人類はお墓を造る動物なのです。現在の純文化は無用なものですが、将来は有用化される可能性があります。過去に有用だった実文化は無用化すると純文化として保存される。
以上のような2つの理由から、人類は純文化を維持し続けてきました。近代以前の社会では、君主権力や宗教的幻想によって「実文化から純文化へ」と一方通行の収奪が行われていました。近現代社会では、市場メカニズムと国家財政の結合を通じて、計画メカニズムの「指令」によって、協議ネットワークの合意によって同じような一方通行が行われています。
どのシステムの場合も、それだけで全社会を運営しようとすると、様々な歪み・限界があらわになります。やはり人間社会というのは交換・再分配・互酬の3つの組み合わせ(トリアーデ)でしかうまくいかない。どれか一つ欠けても無理が出るのです。
かつて私は、ユーゴの人々に次のような意見をしたことがあります。 「私の意見では、経済システムというものは、市場、協議、国家の諸作用がうまく組み合わされて、はじめて制御されるものだ。私たちの日本はこれら3つの要素をもっており、どれか一つをあえて投げ捨てようとはしない。あなた方は、国家の役割を否定して、その結果、経済政策の真の担い手をもてなくなっている。良い自主管理者と良い商人(ビジネスマン)が必要であると同様に、良い官僚もまた必要であろう。ある種の問題は、合理的な行政的強制なしに解決できない、それがなければ、すべてが議論で終わってしまい、だれも実行しない。要するに、官僚という言葉がユーゴスラヴィアでは否定的な響きだけをもっておるけれど、日本ではもっとも能力のある人々の謂である」(『凡人たちの社会主義』、1985年、筑摩書房、pp40〜41)
市場は承認できても、官僚制を肯定できない旧ユーゴのコミュニストにちょっと大げさにこう言ったのですが、こうした議論倒れの側面は、やっぱりあったわけです。交換と再分配と互酬のどれもみな必要なのですから、社会の現実に即して具体的に検討していく必要があるわけです。
自殺・他殺・兄弟殺し
――岩田さんは、交換・再分配・互酬に各々特有な「死」や「責任」があると論じていますよね。
★個権・個責というのは、マーケットに親和するものです。計画の場合だと、集権・集責が問題になります。ソ連・東欧における具体的な現象を分析すると分かるのですが、集権制というのは必ずどこかで集責制なのです。一般民衆は「俺達は悪くない。あいつらの責任だ」と、実際には一般民衆の側にも原因があるような問題でも、すべて「巨大な権力」の責任にする。これはこの体制の大きな問題の一つです。権力と民衆の間に「他殺」の影がしのびよることになります。
一方、ユーゴなどの自主管理社会では、責任を権力になすりつけることはできない。協議したみんなの責任(共責)であることは明らかだからです。それで「兄弟殺し」という救いのない悲劇が起こってしまう。実際、旧ユーゴでは、職場などでの同僚殺しの例が多数報告されていました。社会主義崩壊後、民族問題がでてくると、旧ユーゴでは民族間兄弟殺しにまでなってしまったのも、そうした「兄弟殺し」という要因が入っていると思います。
それに対してマーケットの場合は「個権・個責」です。この場合の象徴的な死は「自殺」です。最近の日本では、自殺者が急増しています。日本の年間自殺者は、1998年以来、それまでの2万3000人台から、一挙に3万3000人にまで跳ね上がり、高どまりしたままです。これはネオリベラリズムの勝利といったことがいわれる中で、個権・個責が全面にでるようになったからですね。それが中高年の自殺の増加と結びついている。
社会が近代化すると、交換、再分配、互酬という人間社会に元々存在する統合パターンがメカニズム化します。交換がメカニズム化すると市場経済になります。再分配が経済メカニズム化したのが国家計画経済です。互酬がシステム化するとユーゴの自主管理協議ネットワークになります。人間社会の3統合パターンのそれぞれがメカニズム化し機構化することが、近代化の一つのエッセンスなのです。
そうした近代のメカニズム化の一部を歴史的に担ったのがマルクス主義者でした。マルクス主義者は、主観的には共産主義なる理想社会を建設しようとしたのですが、客観的には再分配あるいは互酬の近代システム化を歴史的に担ったと、文明論的には総括できるでしょう。
前近代社会では死は制度化されていました。例えば「切腹」というのは確立した制度・儀式でした。キリスト教社会では自殺は犯罪でありました。近代以前、死には様々な社会的意味があったのです。普通の死だけでなく、様々なタイプの死刑、名誉ある死、不名誉な死。要するに、「死の意味論」といいますか、「死の制度化」がきちんとあったわけです。
近代化によって、交換・再分配・互酬が機構化すると、どういうわけかこうした「死の制度論」は敬遠され、「死の意味論」は実社会の背後に隠れます。しかし近代になって死が社会的に脱制度化したといっても、その意味が無くなるわけではありません。やはり「死の意味論」が社会を背後で支えている。市場・計画・自主管理というメカニズム・システムの背後にはそれぞれ、自殺・他殺・兄弟殺しという特有の死の意味論が残っている。人々が自覚しなくなっただけのことです。自覚したいのは、光の面の理念である自由・平等・友愛です。その影として、「死の意味論」が裏に張り付いていることは、忘れたいわけです。
経済がメカニズム化・機構化すると、それは自由、平等、友愛というかたちの理念を所有していきます。私たち日本人も、明治維新以来の西欧化の中で、自由・平等・友愛という理念を引き受けました。神道系には「赤心」とか、仏教では「慈悲」といった理念がありました。儒教では、仁義忠孝礼悌智信といった八徳が唱えられていました。それが日本では「義理と人情」といった理念になるわけです。だけど私たち日本人は、義理・人情、あるいは仁義忠孝礼悌智信といった理念で近代社会を作ったわけではない。明治維新以来、ヨーロッパの自由・平等・友愛の近代的理念を受け入れました。私は西欧主義者ではありませんが、それはきちんと認めます。
理念そのものの内実や奥行きという点から言えば、仁義忠孝礼悌智信のほうがまさっているかもしれません。ヨーロッパのカトリック世界にも、自由・平等・友愛におさまらない精神的位置があります。私たち日本人も義理・人情といった伝統的な価値を捨て去ってしまってはならないと思います。
だって自由なんてそれ自体無味乾燥な理念ですよ。平等も機械的になりがちです。だから近代の理念は、人間的なものを、有機的なものを全部、友愛に詰め込んだ。ヨーロッパ人も、自由・平等だけでは、やっぱり収まりがつかなったからでしょう。友愛の原義は兄弟愛です。ここに血縁関係を残したわけですね。
自由・平等・友愛の優れているところは、それぞれが近代的経済システムの理念名となっており、それを支える、またそれによって支えられる経済活動のシステム・メカニズムを背後に想定できることです。仁義忠孝礼悌智信や義理・人情には、経済メカニズムを想定できない。「大きな家族」というイメージぐらいしか想定できない。理念と経済システムを相互的に連結させたのは、やっぱりヨーロッパ近代の功績として認めるべきでしょう。
私たちは、そうしたヨーロッパの功績から学ばなければなりません。と言っても、ヨーロッパの学者や運動家が何か書いたら、即座に日本語に翻訳して、それだけでデンケンしたつもりになるのとは全然違います。
近代化という人類史の大きな流れをきちんと見て、20世紀社会主義の実験の失敗とその遺産の意味を、自分の頭で考える=デンケンする必要があるのです。
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(2005年4月5日発行 『SENKI』 1174号4面から)
http://www.bund.org/interview/20050405-1.htm