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(回答先: 『ロジャー&ミー』マイケル・ムーア 投稿者 外野 日時 2005 年 3 月 19 日 14:41:07)
「朝日新聞」2004.06.13
”時流自論”
欠陥「米モデル」まねるな ──スティーブン・ボーゲル
Steven Vogel 61年生まれ。カリフォルニア大バークリー校準教授。父親は日本研究者のエズラう・ボーゲル氏。
親切で穏やかな日本の経営者は最近、情け容赦ない米国の経営者からダウンサイジング(規模縮小…人員削減)という重要な策を学んだ。日本企業は労働力削減に本気で取り組み、利益を上げ、依然として脆弱ではあるものの日本経済を現在の回復基調に乗せた。
いい話だ。しかし、一つ大きな問題がある。人員削減に効果があるという確たる証拠はなく、少なくとも米国では効果が見られないのだ。えっ?そんなことがあり得るのか?人員削減は経費を削減し、経費削減は収益増をもたらすと誰もが知っている。しかし、それこそまさに私が問題にしようとしている点だ。
人員削減は企業業績を高めると誰もが思い込んでおり、証拠を確かめようとする者など時間を持て余している米国の学者にわずかにいるぐらいだ。こう書くと、米国の大学にも人員削減の必要があるのではと思う人も出てくるかも知れないが。話がそれてしまったようだ……。
私は最近、このテーマを研究しているが、驚いたことに、米国での人員削減は多くの場合、収益、生産性、株価のどれを基準にしても企業業績の向上に結びついておらず、むしろ業績を損ねていることも少なくないのである。人員削減により企業は労働コストを減らすことはできるが、一方で、リストラ対象となった従業員への退職金など即座に発生する費用や、貴重な人材を失い従業員の士気の低下から発生する長期的費用など、莫大なコストが必要になるからだ。
ある研究では、人員削減は生産性を向上させず、株価を下落させる。収益は上がるにしても、それは賃金抑制によってもたらされるだけだという。また、別の研究は、レイオフ(一時解雇)が行われると、その後の収益は下がってしまうと指摘している。
有効でないのに、なぜ米企業の多くが先を急いで人員を削減しようとするのか。この問題に取り組んでいる学者らによれば、米企業の経営者らは人員削減に効果があると信じて疑わず、それが事実かどうかを確かめることさえしない。また、経営者らは人員削減をある種の社会規範のように考えており、企業評価を守るため、または高めるために行っている、という。
ここで話を日本に戻そう。こうした学者の主張が米国の例では正しいとすると、日本の経営者らは、人員削減政策が米国では有益どころか逆効果であるという証拠があるにもかかわらず米国モデルを見習っていることになる。つまり欠陥のある米国モデルに従っているのだ。
しかし、人員削減が米企業で有効でなかったからといって、日本でも同じとは限らない。おそらく、性急にレイオフを行う米経営者よりも人員削減に及び腰な日本の経営者のほうがはるかに賢明なのかもしれない。
あるいは、米経営者が安易に人員削減策に訴える一方で、日本の経営者は苦渋の選択で人員削減に踏み切っているのかもしれない。評論家の多くが論ずるように、日本経済が90年代以降、過剰労働力に悩まされ続けてきたのなら、人員整理も筋が通った策だろう。だとすると、日本の経営者は本国で機能しなかった米国の慣行をうまく模倣した、という皮肉な結果にたどりつく。
実のところ、日本企業が近年米国から学んだことの多くに関して、これと同じような疑問が感じられる。日本企業は米国の慣行をその実際の効果を確認せずに取り込んでいるのではないか、という疑問だ。
例としてストックオプションを考えてみよう。理論的にストックオブションには、株価を最大にするためのインセンティブ(刺激)を経営者に与えることにより、経営者の利益を株主の利益に近づけるような調整機能がある。
02年に起きたエンロン事件の後、評論家たちはストックオプションの影の部分を突如として見始めた。例えば、ストックオプションは業績をあげた経営者への報酬にはなるが、業績不振でも経営者を罰するものではないこと。また、利益を株主から経営陣トップヘ振り替えてしまうこと。報酬の不平等化を助長すること。従業員をより高いリスクにさらすこと。さらに、不正行為を促しかねないこと、などだ。
では、企業の合併・買収の場合はどうか。積極派は、企業支配権を争う活発な市場が日本には不可欠だと主張し、そうなれば経営陣が株価や収益により強い関心を示さざるを得なくなると指摘する。しかし、米国の経験では、吸収合併は株主にとっての価値を高めるものではなく、逆に損なう可能性のほうが高い。とりわけ買収する側の企業の株主は、損を被る度合いが高いようだ。
私は日本人の友人と議論をする時、彼らが思うほど米国のものは優れていないと説得している自分自身を奇妙に感じることがある。誤解しないでほしいのは、私は自分の国を愛しており、米国にも立派な資質がたくさんあると思っている。しかし私は時々、日本が米国モデルの本質や、有効性、そして日本への適合性を探ろうとせずに、ただまねているだけのように思えてならない。