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福知山線事故生還から二夜あけて。《脱線事故全記録》
あの日、私はいつもの電車に乗った。
9時10分川西池田発、快速同志社行き7両編成。
(快速の停車駅でいうと、宝塚と伊丹の間の駅である。)
週明け月曜日。
ホームは普段と変わらない混み具合で、私はたまたまホームの人が途切れている場所で足を止め、電車を待った。いつもどおりに電車がホームを滑ってきて、私は(後でわかったが)4両目の前方のドアから乗車した。(その時はもちろん自分が何両目に乗ったかなんて気にもとめるはずがない。)
車内の座席は埋まっており、立っている乗客もかなりいた。私は車両前方の3両目とのつなぎ目のドアの所にスペースを見つけ、進行方向左側(後にマンションの側となる)を向いて立った。
いつものようにバックからノートを出し、読んでいたが、発車して2、3分たって、私はあることが気になった。
3両目と4両目のつなぎ目のドアがどちらも全開に開いていたことだった。
となりの車両との仕切りがほしくて、私は手前のドアだけ閉め、そのドアに寄りかかるようにして立った。
(後から考えると、その時のふとした行動が、私を含め4両目の前方の乗客の命を救ったことになったのだ。)
伊丹駅。報道にあるとおり、かなりの距離をバックした。
当初の報道で8メートルオーバーラン、と聞いたときには、「あれは絶対うそだ、」と感じた。
普通、2、3メートル行き過ぎたくらいなら、電車は徐行でバックする。
その時はあきらかに、「徐行バック」といえるものではなかった。一度止まった電車が突然後ろに走り出し、私は「え?!」と顔を上げたくらいだ。
電車は伊丹を出て、問題の瞬間へと一刻一刻近づいた。
読み物をしていた私はスピードの出しすぎにはまったく気づかなかった。
気づいたのは次の瞬間。
「ガガガガガガガ」と突然電車がすごい音を立てながら左右に揺れた。つり革を持っていた乗客もみんな立っていられないほどだった。
つり革も持たずドアに寄りかかっていた私はとっさになにかをつかみ体を支えようと必死になった(おそらく)。
持っていたノートは宙に浮き、飛んだ。
電車は次に明らかに線路ではない所を走った。
まるで何か、岩場のような所を走っているかのような振動と音がして、それと同時にゆっくりと目の前のものが次々に壊れ、形を変えていった。
悲鳴、叫び声、怒鳴り声。すべての感情を越えていた。
私は声を出すこともできず、とにかく「え、うそ、うそ、うそ」と心の中で繰り返していた。
目の前のガラスが粉々に割れて飛び散り、そのあとに何かが車両の左前方にぶつかり、めりめりと車両を破壊していった。(あとでそれは脱線してスピンした3両目だと判明)そしてあたりは砂埃と煙(?)で真っ白になり、一瞬何も見えなくなった。
私は揺れながら何とか体制を立て直そうと努力し、周りを見ながら安全な場所と体勢を探していた。(ここははっきりと覚えている)
後で、多くの人に怖かったでしょ・・・と言われるが、正直怖くなったのは電車から脱出して何が起こったのか把握してからで、とにかくその瞬間は「怖い」というより「負けるもんか」という感じだった。
何が起こってるのかまったくわけわからないし、ありえないことが起こっているのは事実だけれども、
とにかく私はここで生き残らなきゃと。
重い・・・・
私はどういう体勢だったのか思い出すこともできないが、とにかく重さに耐えた。
それはそうである。
車両の一番前方にいたために、停止の衝撃で前に飛ばされることはなかったものの、
私にはおそらく何人もの体重(×滑ってきた距離)がかかっていたに違いない。
そして姿を現したのは、変わり果てた車内。「痛い!!!!」
「怪我をしてる人がいる!!!」
誰かが叫んでいる声が聞こえる。
チラッと後ろをみると自分と同じように全員が折り重なって倒れていた。
前を見ると外が見えた。
1メートル前にあるはずの3両目がないのだ。
電車はつなぎ目でちぎれ、車両のドアは半分はずれかかっていた。
ここから外に出れる。
とにかく外に出なきゃ。
必死だった。
車両の一番前にいた私は、なぜか手を伸ばして壊れた車両の隙間でガラスまみれになったノートに手を伸ばして拾い、後ろも振り替えずにその外れかかったドアから外に出た。
車両と地面の差は150センチほどだっただろうか。車内から飛び降りようとしたとき、足元にはぐちゃぐちゃになった(線路脇にあるはずの)フェンスが無残な状態でそこにあった。
線路に何人もの人がぐったり倒れているのがちらっと目に入った。
3両目の後ろから投げ出された人かも・・
3両目の後方のドアは開いたままだったし、しかも3両目はすごい勢いでスピンしている。
私はもしあの時ドアを閉めてなかったら・・・と思い、初めて怖くなった。
それ以上は見れなかった。
とにかく私は線路脇へ歩き、呆然と今起こっている事実を把握した。
心を落ち着けようと、まずリップクリームを塗ってみた。
リップは真っ黒になった。(私は全身砂埃をかぶっていたのだ)
自宅に電話する。こんなことが起こっているなんて、関東にいる母親は知る由もない。母親の声を聞いて涙が溢れ出し、まったく言葉にはなっていなかったがとにかく目の前で大変なことが起こっていることを告げる。
なにをどう説明してよいのかわからない。とにかく、電車がすごい脱線していること、足を打ってすごく痛いこと、ストッキングが破けたこと、ガラスが靴の中に入って足から血が出ていること。このくらいは伝えられたような気がする。
とにかく母親は驚き、慌て、そしてとにかくがんばって、と言った。
私は邪魔にならないように道路の脇の空き地の隅に座り込んだ。
ヘリが飛んできた。(各新聞社のヘリは伊丹(空港)に常駐している為、事故へ駆けつける早さとしては最速だったろうと思う)
まず毎日が到着、次に朝日も来た。全部で7機くらい。
あー、ヘリの到着順序で現場の旋廻高度が決まるのかな・・・(早く着いたヘリから一番近くを飛べるのかな・・・)
なんて考えていたくらいなので、だいぶ落ち着いてきていた。
救急車、消防車が次々に来る。レスキュー隊がすごい勢いで動き回り、近くの工場に働いている人(作業着を着ていた)も何か金属の棒を持ってきて、車両のドアをこじ開けていた。
外に出た乗客はただ呆然とし、一番取り乱していたのは警備の人だった。
「救助の邪魔になるから関係者以外はどきなさい!!!」「そこの野次馬!!!」
とても歩く気力もないよ・・・
あたしは野次馬じゃないよ・・・
1時間くらい、その場で座り込み、ようやく会社に行こうと思いたつ。
足を引きずりながら近辺をさまよい、やっとの思いでタクシーをつかまえ、一番近くの阪急の駅まで行った。
(事故の渋滞と交通規制で、とても大阪まででられなかったのだ)
そして会社に着くと大騒ぎだった。
課長を見た瞬間、また、泣いた。
一日中どきどきして仕事にならなかったけど(いや、ちゃんとしましたよ)、でも会社行って本当に良かった。
人の温かさと生きている喜びを感じた、ほんとに。
長くなりましたが今日のところはこの辺で。ここまで読んでくれてどうもありがとう。
04/27/2005 01:47 午後 in 日記・エッセイ・コラム | リンク用URL