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http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#2401
(引用開始)
● ネイティビズム vs ビヘイビアリズム
実は、1970年代を堺にして、アメリカでリベラル派の学問が行き詰まりを見せ、それに取って替わるようにして保守派の思想が大きく復権して行ったのだ。
リベラル派の学者たちは、自分たちの学問成果を過信して、「いまこそ、自分たちが築き上げた社会科学の力で、人類が抱える各種の社会の病気を治療するぞ」と誓って、1964年のリンドン・ジョンソン政権の中に学者たち自身が参画して行った。そして、それはものの見事に失敗した。社会の諸病気は、先端学問の力などでは治せなかったのだ。それで70年代からは、「人間は、神の定めた掟に、謙虚に従って、つつましく生きるのがいいのだ」とする保守派の思想が台頭して今に至るのである。80年代を境(さかい)にして、日本でも、現実をありのままに認めようとする保守の思想が大きく復権したこともこれに連動する。
これから私が説明するのは、西欧およびアメリカの知識人層の間で、16世紀以来ずっと、大きな対立軸として議論されてきた、「全ての人間を教育の力で改善することは可能か」という大問題についてである。これは、そのまま、貧困や人種対立や戦乱や各種の差別や環境問題、即ち、社会の諸病気を学問(サイエンス)の力で改善することができるのか、という問題である。あるいは、この事はそもそも精神病患者を治すことはできるのか、と言う問題でもある。
これが、ネイティビズム 対ビヘイビアリズム の巨大な対決である。ネイティビズム nativism 「固有主義 あるいは、生来決定主義」と、ビヘイビアリズム behaviorism 「(アメリカ)行動(科学)主義」の対決である。
この、ネイティビズム と ビヘイビアリズム の対決は、16世紀以来の近代学問( modern science モダン・サイエンス)の 500年間につきまとう大きな対決軸である。ネイティビズム(固有主義)は、「人間の能力は、生まれたときに予め決定されている」とする。従って、その後、その人がどのような生活環境にあろうとも、その人の性格や能力は大きくは変わらない、とする。
それに対して、ビヘイビアリズム(行動主義)の立場では、「人間は、生まれた時は、真っ白な紙(タブラ・ラサ)である。それに知恵や経験を書きこんで行くのである。従って、人間は、教育の力で改善される」とする思想である。つまり、ネイティビズムが、根本的な保守主義の立場であるのに対し、「人間の能力は、良質な環境と教育の力で改良できる」とするビヘイビアリズムは、リベラル派の立場を総称するものだ。
私は、この間、ずっとフランシス・フクヤマの最新刊の意欲的な著作『大崩壊の時代』を読んでいて、そこに言語学者のフランツ・ボアズ Franz Boas が大きく論じられていることを改めて知った。F.ボアズは、アメリカ・インディアンの言語を、インディアンの部族の中に入りこんで行って研究した文化人類学の草分けだ。ドイツからコロンビア大学に移住してきた学者だ。「アメリカ構造主義言語学」(創立者は、R.ブルームフィールド)を築いた人だ。『サモアのあけぼの(思春期)』を書いたマーガレット・ミードと、『菊と刀』のルース・ベネディクトの、ふたりの偉大な女性文化人類学者を育てた先生である。
私は、このボアズの本を読んでいて、それとの関連で、コンラット・ローレンツKonrad Lorentz が、気になって仕方がなかった。私は、ローレンツの打ち立てた社会生物学 Socio-biology ソシオ・バイオロジーは、人間(人類)とは何か、を考える上で改めて注目すべき重要な学問だと考える。この「 社会生物学」なる学問こそは、恐るべき人間研究であり人間学問である。日本では、この社会生物学は、現在、動物行動学というソフトな名前に姿を変えて、京都学派の中に密かに息づいている。日高敏隆教授が率いる、タヌキや日本ザルやカモシカの生態観察学に姿を変えている。社会生物学は、ドイツで発達して、アメリカに渡り、アメリカ・シカゴ学派諸学問の中に、今も密かに根を張っている。しかし、この学問の正体をあからさまに表面に出すと、その内包する危険性の故に、学者の数で優勢であるリベラル派(進歩派)の勢力に叩かれるので、深く潜航したままになっている。
社会生物学は、ソシアル・エンジニアリング「社会工学」を生んだ、恐るべき学問である。本当は、分子生物学や遺伝子工学もこの流れである。優生学( eugenics,ユージェニックス)とも近縁である。だから、昨今の遺伝子組み替えや、ヒューマン・ジェノム human genom 「ヒトゲノム」の解明も全部、この流れである。
病気を治すことは、固体(個人)に対してだけ行われるのではない。ひとつの民族・国民全体に対しても行われる。だから、私たち「この日本部族という、生来、強暴な民族」に対しても、この「病気治療」は、施されて、今の、私たちに、絶対平和愛好・人権主義万能が、刷り込まれた。日本人は、この学問が応用された力で、穏やかでのんびりした平和愛好民族に人格改造(集団洗脳)されたのである。ニューディーラーと呼ばれる元祖グローバリストたちが、敗戦直後に日本に上陸したマッカーサー元帥の率いた進駐軍(アメリカ第8軍、連合国軍を名乗った)の中にいて、彼らが、「日本国憲法」を作ったり、日本の初等学校教育に対してPTAを導入することなどで社会生物学を実践した。
例のアヒルの雛がはじめに見たものを親だと思い込む実験観察から編み出した刷り込み理論( imprintingインプリンティング)を作ったのも K.ローレンツだ。ローレンツらが創始した「社会」生物学と言う言葉は、本当は恐ろしい学問である。社会生物学は、ドイツで、ナチス・ヒットラー政権と共に、一旦は絶滅させられた。ところがやっぱり、アメリカの学問界のなかに、深く静かに大きく根付いている。表面上は、まるで、リベラル派の「人権尊重・ヒューマニズム礼賛」に同調する振りをしながら、カメレオン的に変身・変色しながら、やっぱりそれでも社会生物学である。ローレンツらは、戦後、正体を隠すために、Ethology エソロジー 「動物行動学あるいは、人性学」という学問に変身してみせた。だから前述した通り、日本で動物行動学を名乗る日高敏隆氏や竹内久美子氏らがこの系譜である。日高氏は、ローレンツ著の『ソロモンの指輪』や『ヒト,犬にあう』を訳して、かつて、20年ぐらいまえに評判になった。だから日本でも表面上は、タヌキや、日本カモシカの生態観察学になっている。
始めの問題に戻るが、「人間は、生まれつき(生来)、その能力や性質が、決まっている」と考える立場であるネイティビズムは、生来決定論と言ってもよい。
ルネ・デカルトが、この学派の創始者の一人とされる。もっとさかのぼると、アリストテレスが、この学派である。だから、近代法思想の中の自然法派( natural law ナチュラル・ラー、 自然界の法則と同じように、人間界にも自然の掟があるとする派)もここにつながる。中世のノミナリスト(個物派)もこの流れだ。
だから、ヘーゲルも、ニーチェも、ハイデガーなどの個物派系の思想家たちも、実はネイティビズムだ。
個人の能力は、それぞれ、生まれながらに決定されている、だから、後天的に変えることはできない、とする。このネイティビズムの立場では、生まれた後の、環境や教育によっても、その人はほとんど変らない、とする。
それに対して、ビヘイビアリズム「行動科学主義」の立場では、「人間は、生まれた時は、真っ白な紙( tabla rasa ,タブラ・ラサ)である。それが、環境と教育の力でどんどん書き込まれて、改善されて行く。人はより優れた人物になることができる」という思想である。
これは、ジョン・ロックの思想(ロッキアン)の系譜とされる。さかのぼれば、プラトンのイデアリズム(理想主義)にまでゆきつく。このビヘイビアリズムが、現在のリベラル派の思想の土台であることが分る。それに対して、ネイティビズムが、保守派の思想である。
今の私は、当然、ネイティビストである。ただし2割ぐらいは、環境と教育の力で人格改善できる、しかし8割は無理だ、とする中間の立場だ。
● 米国におけるビヘイビアリズムの勝利
この両派の対決は、あらゆる学問の裏側に控えている。この対決軸を中心に、今のこの世界は動いている、と言ってもよい。だから、生来的な器質的な、異常や犯罪気質は、教育や治療によっても改善できない、とするのが、ネイティビズムである。
つまり病気は、治せない。という考えだ。治る病気は自分の力でなおる。ただし悪い部分を取り去る外科手術は認める、という立場が、このネイティビズムである。それに対して、人間は、後天的に改善できる、とする考えが、ビヘイビアリズムである。
この考えは、1950年代の、シカゴ学派のスキナー、ボーマンズらの「社会心理学」(ソシオ・サイコロジー)としてアメリカでリベラル派の学問として再興された。この理論の上に、タルコット・パーソンズの「構造機能分析」と呼ばれるアメリカ社会学が大成された。さらにそれと同形的(アイソモルフィック)に、アメリカ理論経済学が花開いたのである。そして更に、それと類推的に政治学(ポリティカル・サイエンス)も繁栄した。アメリカの、ソシアル・サイエンスは、1950年代と1960年代には、この「行動科学」によって、ついにヨーロッパの学問を超えた、と、みんなで祝ったのである。これはアメリカの学問的な大勝利であり、世界をこの新規の学問潮流で支配・席捲できる、と考えた。ここでは当時のソビエトとの対決問題は無関係である。それで、世界中から優秀な人材がアメリカに集まるようになった。
これが、アメリカの「行動科学革命(ビヘイビアラル・サイエンス ・レヴォルーションbehavioral science revolution)」であり、即ちこれがビヘイビアリズムの運動である。
私の先生の小室直樹氏は、このアメリカ行動科学の全体像を習得する運命を背負ってこの時期に、スキナーのいたミシガン大、と、ポール・サミュエルソンのいたMITと、パーソンズのいたハーバード大に習いにいった。ところが、帰ってきて、その成果を丸山真男氏以下の、日本人学者たちに伝授しようとして、嫌がられた。当時の日本にはロシア型マルクス主義という宗教しか、近代学問としては存在しなかったからである。
この ネイティビズム「固有主義、生来主義」 と、ネイテイビズム「 行動主義 、教育改良主義」のサイコロジーの分野から興った大きな対立が分かれば、おそらく、今の、というか、この100年間の欧米の社会学問(ソシアル・サイエンス)の流れは、今の日本人にも、大づかみに出来るのではないか。この事をもっと分り易く言うと、「氏より育ち」ということである。あるいは、「育ちよりも氏」か。即ち、氏(うじ)=家柄、出身、血筋 の方が、人間(人物)の評価に置いては大切だ、というのがネイティビズムで、その反対に、「家柄よりも、育ち」即ち、生活環境・教育・学習行動が大切だ、というのが、ビヘイビアリズムである。だから、ネイティビズムは、保守主義 を表し、ビヘイビアリズムは、現代リベラル派(人権主義者)の立場なのである。分かり易く言えばそういうことだ。
そして、現実の私たちは、この、二つの思想の中間で、「どっちが重要だろうか」と揺れながら考えている。最近は、日本でも、ネイティビズム(先天主義)の方が、強まっている。ビヘイビアリズムは、左翼・リベラル勢力の退潮と共に人気が無くなっている。しかし、学問の世界では、日本でもビヘイビアリズムに立つリベラル派の方が今でも優勢だろう。私は、10年以上も前に、それらのビヘイビアリズムの学問の片鱗を学んだ。
『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』(講談社)ビヘイビアリズムVSネィティヴィズム[65ページ〜72ページ]
(引用終わり)
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