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書評空間
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早瀬 晋三(はやせ しんぞう)
『思考のフロンティア 変成する思考−グローバル・ファシズムに抗して』市野川容孝・小森陽一・守中高明・米谷匡史(岩波書店)
1990年に東西ドイツが統一し、翌年ソ連共産党が解散、ソ連邦が消滅を宣言した。さらに、1993年に中華人民共和国が憲法に社会主義市場経済を明記して、市場経済化が加速度的にすすんだ。この流れに、わたしのように1970年代から80年代にかけて大学・大学院で教育を受けた者の多くは、すぐに対応できなかった。いま、2001年に起こった9.11が思考の変換点になろうとしている。
本書は、ふたつのテーマ「文化と翻訳」と「民主主義と暴力」をとりあげ、それぞれふたりずつ問題提起し、4人で討論する形式をとっている。それぞれ専門が違い、真っ正面から意見がぶつかりあうということはなかったが、「緊急に語るべきことがあり、巨大な問題を可視化し、解決への道を探ろうとする意志において、われわれはたしかに結ばれていた」という状況のなかで議論がすすめられた。4人は1953、60、64、67年生まれである。
まず「文化と翻訳」の「文化」が、近代日本では「文明開化」の略として認識されていたことから、文化は「西欧化」と同意義として日本人は了解することになったことを指摘する。その日本の「文化」発展は、ほかの東アジアへ思想連鎖していった。米谷は、このことにたいして、「日本近代のある特権的な中心性が揺るがない」研究への危惧を抱き、「日本近代をいかに脱中心化させる」かが、今後の課題だと唱える。
「民主主義と暴力」では、市野川が「国民国家」を前提とする議会制民主主義は、「「多」なるものを「一」へと封じ込める暴力」と、つねに不可分の関係にあると指摘する。そして、「暴力」を回避するための「討論とは、異なる考えが互いにぶつかり合いつつ、討論以前には存在しなかった一つの場所に収斂していくこと、あるいは少なくとも、その場所に向かおうとする意志のことを言うのである」と述べている。
これらの議論に共通するのは、1980年代前半までに大学教育を受けた者の基準だった「国家」の存在が希薄になっていることだ。「国民統合」や「国民文化」の発展にマイナスになるようなことを言うのが憚られた時代とは、もはや訣別していることが読みとれる。しかし、その訣別から新たな「思考」が生まれ、確立しているかというと、そのようなことはまったくない。だから、本書のタイトルは「変成する思考」であり、本書の結論は「この討議は延長され、さらに別の問題系へと接続され、別の方角へと送り出されることを望んでいる。もう一人のオルフェウスたる、あなたによって」で、結ばれることになる。
この過渡期の時代にあって、多元文化主義の時代の流れに抗して、かつて支配的であった大文明中心主義の進歩史観が台頭し、画一化、中央集権主義的権力を握ろうとして、世界を戦争・紛争の渦に巻き込んでいる国がある。小森は、1947年以来アメリカ合衆国は数多の戦争・紛争に軍事介入したが、すべて"defense"と表現してきたことを指摘する。それが9.11では"War"に変わった。国家という目に見える存在ではない勢力にたいして、"War"という表現で可視化せざるをえなかったのだろう。イスラーム勢力も「テロ」という可視化によって、自己主張している。「巨大な問題を可視化し、解決への道を探ろう」とする本書の目的の達成は、容易ではない。日本でも、「「多」なるものを「一」へと封じ込める暴力」が、あるべき「討論」抜きにおこなわれている。それを「強いリーダーシップ」とも言われている。
本書副題にある「グローバル・ファシズムに抗して」いくためには、なにが必要なのか、「もう一人のオルフェウスたる、あなた」とはだれなのか、本書は明確に語っていない。それは、充分な現状認識と明確な未来への展望をもった市民からなる、洗練された市民社会を築くことだろう。一人ひとりの責任が重い時代になったと言える。
また、新しい時代の思考のためには、かつての思考を「精算」する必要がある。来春から刊行される「岩波講座 「帝国」日本の学知」(全8巻)に期待したい。しかし、かつての思考から学ぶだけでは、充分でないだろう。新しい思考を切り拓くためには、近代に発達した学問領域を超えた「データ」が必要である。わたしがよく言う「陸域、定着温帯の農耕民社会、成人男性」が主体ではない地域や分野の研究事例がもっともっと必要である。
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