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「国語屋の職業病」から
以下引用開始
○「君が代」の「君」とは(平成15年5月15日)
数年前のことになりますが、国旗を日の丸・国歌を君が代と制定する法律が国会で議論されたことがあり、その際、「君が代」の「君」とは一体誰のことなのか、という議論が国会で戦わされたことがありました。
戦前は、「君」とは「天皇」のことだという解釈がなされ、それで君が代の法制化を軍国主義化への動きだと考えた方も多かったようです。そういう質問に対し、当時の小渕首相は、「突き詰めて行くと、『君』とは『わが国』のことだ」と答弁していたように思います。どうして「君」が「わが国」になるのか、そのプロセスは忘れてしまいましたが、政府の見解も、やはり「君」を一旦「天皇」と認めたうえで、解釈をめぐらせていったように記憶しています。決して、「君」に関する新説を展開したわけではなかったようです。
ところで、所有を表す助詞には、現代では「の」が使われています(「これは私の本だ」など)。しかし、昔は「の」のほかに「が」も使われていました。現代では「わが国」のような表現の中に、化石的にしか残っていない用法であり、「君が代」はまさにそのパターンに相当します。
所有の「の」と「が」は、論理的には同じことを表していても、全く同じというわけではありませんでした。というのも、「が」の方は、「わが」の例に端的に現れているように、自分自身のことや、親しい人に関して使う助詞であり、そこには「親近感」あるいは「侮蔑」のニュアンスが含まれます。逆に、「の」は、尊敬する相手に関して用いる助詞であり、「尊敬」あるいは「疎遠」なニュアンスを含みます。
そうしますと、「君が代」などというのは、恐れ多くも天皇陛下に対し、不敬もはなはだしい表現ということになります。そうではなく、ここでの「君」はあくまでも「あんた」の意味、例の歌も、愛する人の長寿・多幸を願う歌だと解釈するのが穏当ということになります。
この「の」と「が」の使い分けは、決して私が発見したわけではなく、昔から言われていることです。にもかかわらず、国語学者が「君=天皇説」に異議を唱えないのは、やはり政治的な問題に介入するのを嫌っているからでしょう。よりにもよって、日本の国歌が、そのような意味だということになると、それを快く思わない人もいるはずで、そのようなことを発表すれば、下手をすれば暴漢に襲撃されることにもなりかねないからです。
かくして、「君が代」の政府見解に対して、内心では「何を言っとる」と思いながらも、声を出せずにいる、というのが、(その是非はともかくとして)国語学関係者の実情なのだと思います。もちろん、私自身も、このサイトが多くの人の目に触れないのを承知で書いていますし、もしこの「鞭声粛々」が、一日数千件のアクセスのある人気サイトになったら、即刻この部分は削るつもりです。まあ、杞憂だとは思いますが。
もっとも、私個人としては、親しい人の長寿を願う「君が代」というのも、日本人の思いやりがよく現れているように思われ、魅力的だと思いますが、いかがなものでしょうか。
追記…もっとも、奈良時代ごろには、「の」と「が」の使い分けは、逆に緩やかだったとする説もあります。とはいえ、「君が代」の元になった和歌は「古今和歌集(10世紀初頭)」に入っているものであり、そのころには「の」「が」の使い分けははっきりしていたと考えられることから、論旨までは変えませんでした。
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