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主観という語を「(或る)限界の有る判断」というほどの意味で使っているつもりだ。
その判断は「集合」である場合も有ろうが、限界が有ることには変わりが無かろう。
では何の限界かというと「妥当性の」限界であるということに他なるまい。だとすると
主観には普遍妥当性が無い、ということになり、自ずと客観とは“普遍妥当性の有る
判断(の集合)”だ、ということが叶う筈だ。少なくとも私の用法での主観・客観は一貫
してそういう意味だったと思う。さて、いま「全ての」判断が主観であるのか否か、と問う
からには、その結論は「全ての」判断に対して妥当しなければならないと思われる。即ち、
ここでいう結論には普遍妥当性が有って然るべきである、といえるのではないか。
ならば、結論は当然のこと、客観でなければなるまい。そうであるかもしれないにも
拘わらず、ここでもし「全ての」判断は“主観である”と言ってしまうと、今いったように、
その判断自体は客観であろうことからして矛盾を生じてしまうことになる筈であるのだ。
したがって、「主観が全て」ということは有りえず、また有るとすれば「主観が全て」という
普遍妥当の客観を一つ語り得てしまって、結局は矛盾を来たす筈だ、という次第だ。恐らく
‥‥今回の“論争”では客観と真理という語を併用し、ほぼ同じ意味で使ったことからすると、
真理についても同様かと思われるが、定義にも依ろうから定かではないかもしれない。“以上”
‥‥
ただし例外が有るかもしれない。「論理というものが成立しえない。」という場合はどうであろうか。
無論、ここでも「論理が成立しないという事は論理では語りえない」と言えるかもしれないものの、
それも論理かもしれず、矛盾するくらいなら、“論理不成立の論理”でも見つける方がすっきりする
のではないか。であるなら論理が成立しないといいつつ論理を振り回すのも“ナンセンス”であろう。
では、論理というものが成立しないのに、尚も何か語りうるとすれば、それこそが主観なのだろうか。
たとえ主観のパワーが、リアリティや、カリスマ的「権威」や、「民意」(多数票)に依ろうが、それらは
“普遍妥当性を担保してはおらず、故にこそ主観である”と言えよう。そういう主観は、それだけでは
「自立」しえないといえるかもしれない。では客観が無く、論理もが無いということになると、どういう
判断、そして判断基準(これにも判断が含まれるか判断そのものだろうが)で、主観を認めうるのか
(或る主観の正しさの根拠が別の主観であってはなるまいし主観は常に上位者を要すると思える)。
否‥‥主観の正しさが(但し、ここでは普遍妥当性だと思うが)立証された時点で既にそれは客観の
一部だろう。もとより、普遍に妥当するものが論理であり、客観であり、そう呼ぶと定義したのであれば
そう定義できなければ「或る限界」が有る筈だ。ならば、“論理学が数学の一部を成すが如くに”論理も
客観も同質だとする限りで論理も必要であろうし、尚も論理が必要であるなら、(主観が不要、とまでは
言えないにしても、限界が有ろうことから)論理に対して、一段低い妥当性しか持てない筈なのである。
したがって、或る種の徹底した主観主義は論理主義と比べることで、まさに「存立への限界」が看て
取れるであろう。さらにいえば客観も論理も無く主観が立たないときに、この主観は「個別」とも言える
かもしれない。第一義の主観は“自分(達)にとっては正しい”という程の妥当性であろうからだ。勿論、
個別は成り立つとしても、個別は論理からすると一段低いものであろうし、だからこそ、主観と同じく
して論理によって明確に存立されるのであろう、むろん“可能な定義”として。しかも、その論理と
客観が「同質」であろうという判断を、最早いまさら、ここで繰り返すまでもないと思われるのだ。
「内容で限界づけられた形式」を以て、
無制限に適用する形式の矛盾という形式。
※ ちなみに「形式と内容は相対的で外形と内実は実体的」といえるかもしれない。さあて、
ほ‥‥ほぅぅぅぅぅぅぅぅと、とってつけたように、ここで、やっとこさ言ってみる(笑) ポトン(笑)