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"家庭教師派遣業者"の正体 より
コワモテの「トライ」代表平田修
テレビコマーシャルでよく視る"家庭教師の「トライ」は、いまや業界最大手にのし上がり、
年商は400億円とも500億円ともいわれている。
また"ふくろう博士"が売りものの「日本家庭教師センター学院」は家庭教師派遣業の"老舗"
として「トライ」の急成長には憎しみに近い反感を持っている。
しかし、両者の代表者の素顔は"コワモテ"と"インチキ"で、親たちと子どもたちの信頼に
どこまで応えられるのか疑問符がつく。
「トライ」の急成長ぶりや、苦情、トラブルについては、マスコミで何度か取り上げているが、
代表者の平田修については、郷ひろみの女房だった二谷友里恵との"密会現場"を写真
誌にスクープされ、のちに結婚したことぐらいしか知られていない。
1990年に「トライ」を設立する際にパートナーとして金銭的にも、人脈的にも協力した
I・Mは、「エセ実業家」と「トライ」代表の平田を批判する。
その"告発書"には「或る大手病院院長を平田は右翼団体の名刺で恐喝。
これを運転資金とし、更にその後某大手企業役員を狡猾にあざむき、多額の資金協力を得て、
いとも簡単に裏切ったり・・・」と手厳しい。
この「告発書」には、裏切られたI・Mとの「トライ」創立当時のことが生々しく記されている。
これを要約すると以下のようになる。
昭和63年春ごろから、平田は山口組系「亜細亜民族同盟」の北陸本部長の
運転手としてI・Mが社長を務める「大手運送会社」に出入りするようになる。
平成元年、家庭教師派遣の仕事を始めたが、まったく資金が無く、そこでI・Mは、
富山大生を使い、サークル活動を継続するよう指示、平成2年になったら本格的に事業を
おこすとの指示をした。
平成2年1月に今後の方針として、資金はI・Mが用立てる。会社は平田修が社長で、
I・Mの名前は出さず、平田修とI・Mは5分5分の経営者とし、I・Mの大手運送会社の
事業展開を参考にした組織化を計る。各都道府県ごとに国立大学の称号を使い、法人化し、
国立大学のサークル部として発足させ、経営は「トライ」として行う、などを申し合わせた。
平成2年3月〜6月にかけて、北陸銀行から「新潟トライ」の設立資金としてI・Mの名で
2000万円の資金を借り、I・Mの友人(新潟放送の取締役)の根回しにより『新潟日報』の
夕刊の1面を飾り、華々しくデビューしたという。
「新大トライ」が順調なので、平田の先妻の出身地である沖縄、そして福岡も好調。
平成2年9月には、また北陸銀行からI・M個人の保証で2400万円の融資をうける。
この頃、平田とI・Mは給料を100万づつ取ることを決める。
そして平成4年12月2日、東京赤坂東急ホテルにて平田に「運送会社」を辞めて、
すべて整理がついたので、代表権のある役員に就任する事をI・Mが告げると
「はい、わかりました」と言ったものの連絡が無く、平成5年に入り連絡がとれると、東京と富山と
2回の会う約束をすっぽかし、その後は平成7年3月富山第一ホテルで会う。
この際、すでに会社謄本などを整理していて、「自分の考えだけでは決められないので、
今少し待ってくれ」とのことだった。
これらが「告発書」のあらましで、ことの真偽を確めるべく平田修に取材を申し込むも平田本人は
応じようとせず、代理人弁護士にガードさせている。したがって平田本人からはその言い分を
聞けなく残念だが、「告発書」が事実なら、教育産業にたずさわり、全国数十万人の中学、
高校生を教えるアルバイト学生を派遣する立場の者として猛省をうながすとともに、
I・Mとの問題は人間としての裏切り行為だろう。
平成2年1月に今後の方針として、資金はI・Mが用立てる。会社は平田修が社長で、
I・Mの名前は出さず、平田修とI・Mは5分5分の経営者とし、I・Mの大手運送会社の
事業展開を参考にした組織化を計る。各都道府県ごとに国立大学の称号を使い、法人化し、
国立大学のサークル部として発足させ、経営は「トライ」として行う、などを申し合わせた。
平成2年3月〜6月にかけて、北陸銀行から「新潟トライ」の設立資金としてI・Mの名で
2000万円の資金を借り、I・Mの友人(新潟放送の取締役)の根回しにより『新潟日報』の
夕刊の1面を飾り、華々しくデビューしたという。
「新大トライ」が順調なので、平田の先妻の出身地である沖縄、そして福岡も好調。
平成2年9月には、また北陸銀行からI・M個人の保証で2400万円の融資をうける。
この頃、平田とI・Mは給料を100万づつ取ることを決める。
そして平成4年12月2日、東京赤坂東急ホテルにて平田に「運送会社」を辞めて、
すべて整理がついたので、代表権のある役員に就任する事をI・Mが告げると
「はい、わかりました」と言ったものの連絡が無く、平成5年に入り連絡がとれると、東京と富山と
2回の会う約束をすっぽかし、その後は平成7年3月富山第一ホテルで会う。
この際、すでに会社謄本などを整理していて、「自分の考えだけでは決められないので、
今少し待ってくれ」とのことだった。
これらが「告発書」のあらましで、ことの真偽を確めるべく平田修に取材を申し込むも平田本人は
応じようとせず、代理人弁護士にガードさせている。したがって平田本人からはその言い分を
聞けなく残念だが、「告発書」が事実なら、教育産業にたずさわり、全国数十万人の中学、
高校生を教えるアルバイト学生を派遣する立場の者として猛省をうながすとともに、
I・Mとの問題は人間としての裏切り行為だろう。