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“カテゴリー〔述語、内包〕の配当を、以下の如きの構成にすると”
「含意」と「当為」とは、論に先んじて義を異にするだろう。
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「含意」(そうでなければならない)
「含意」(そうせざるをえない)
“両可”
「当為」(そうせざるをえない)
「当為」(そうしなければならない)
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したがって含意というときには、ときに必然、不可不というニュアンスが顕れ、 (法則的側面)(物性的側面)
それはまた摂理、自同(アイデンティティ)、範型(イデア)にも繋がる概念に相違あるまい。 (推論的側面)(実在的側面)
真理には少なくとも「含意」と「当為」が認められるであろう。
しかも真理を扱うに際して自ずと其の彊域(境界)を認めねばなるまい。↓
1 つまり客観的真理なるものは、含意であるならば、言及せずとも須らく、そうなる筈である。
2 他方、客観的真理なるものは、当為であるならば、言及したところで、その実現は主観価値/物理的必然に委ねられる筈である。
↓
夫々の目的には一般に其れへの過不及が有りえ、或る目的に向けた当為は間断なく成否を分かつものと思われる。
尚「主観に収まる真理」を真理と呼ぶ方途には「疑問」が残る。