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たとえ個の其れが無内容な「価値」であっても「価値」としては成立するだろうし、
成立するからには、個の価値観への介入をこそ厳に慎むべし、ということだろう。
「体制(総体)による既成価値の絶対化」に抗する解体作業も、
常に個の保全を視野に入れて為してきたつもりだ。それゆえ、個の
「価値信仰」の否定・断罪は、特段、当案件の主たる眼目に当たるまい。
個に巣食う偽情報の強要された受容‥‥さらには個が
“協力”してしまう「嘘の伝播」(ゾンビ的拡散)の話とは、
また別ではないのか。寧ろ、衆の価値責任が個の価値
責任へと配送されて、責任が倒立しているかもしれぬに、
個は、個の意思から離れ、価値観を初期化すべきなのか。
確かに個々が「責任主体」ではあろうし、されば
「批判が続けられていく市井の個々」という位置
付けを捨て去るべきではないとしても、元々個の
価値観こそが“保護対象”で、それが自由の立脚
点であることを思えば、矛先が逆だといいたいのだ。
〔価値観を衆(公)に委譲する分は自由を減じる筈だ〕
(価値が無いからと、
丸ごと否定するのではなく、
逆に価値が有るからこそ、強制〔積極受容もであろう
が〕された過剰な部分のみを可能なら除くべきだと思うが)